第34話 社畜と任侠と仁義なきゲーム
博多・中洲の夜は、欲望とネオンの色を粘度の高い絵の具のように練り合わせ、どろりと街に塗りたくっていた。鈴木太郎は、そのどこか退廃的で蠱惑的な光の中を、海藤という老獪な案内人に導かれ、無言で歩いていた。
彼らがたどり着いたのは、その喧騒の中心にありながら、まるでそこだけが異界であるかのような静謐な空気を湛えた一軒の老舗料亭だった。黒塗りの塀、打ち水された石畳、そして軒先に吊るされた控えめな灯りの提灯。そこは、選ばれた者しかその門をくぐることのできない、結界に似た気配に満ちていた。
「――お待ちしておりました、海藤様」
着物姿の女将が、深々と頭を下げる。鈴木は、その女将ですらただの人間ではないことを、一目で見抜いていた。洗練された所作の奥に、微かだが確かに水の気配を宿した霊的な揺らぎがある。
(……化け猫か、あるいは川姫の類か。なるほどな、食えない店だ)
案内されたのは、店の最も奥にある広々とした個室だった。床の間には、力強い筆致で書かれた『義』の一文字。部屋の中央には黒光りする一枚板の座卓が鎮座し、その向こう側に、すでに三人の男たちが、まるで不動明王のようにどっしりと腰を下ろしていた。
空気が重い。
それは比喩ではない。物理的な圧力となって、鈴木の全身にのしかかってくるかのようだった。部屋に充満しているのは、線香の香り、酒の香り、そして鉄と血の匂い。
三人の男たちは皆、高価そうな和装に身を包んでいたが、その肌蹴た襟元や腕には、隙間なく色鮮やかな刺青が彫り込まれていた。龍、虎、そして鯉。それはただの威嚇のための装飾ではない。彼らの生き様そのものが、その身に刻み込まれた呪のようなものだった。
「――海藤の叔父御。今宵はわざわざお運びいただき、痛み入ります」
中央に座る、最も体格の良い、そして最も威圧感を放つ男が、野太い、しかしどこか理知的な響きを持つ声で言った。顔には大きな一文字の刀傷。年の頃は四十代半ばだろうか。彼こそが、九州最大の異能ヤクザ組織『玄海一家』の若き三代目組長、鮫島であった。
「いやいや、鮫島さん。こちらこそ、急な申し出にもかかわらず席を設けていただき、感謝の言葉もございませんたい」
海藤は、少しも臆することなく、上座の鮫島の正面へと腰を下ろした。
そしてその視線は、自然と海藤の隣に座った見慣れない男――鈴木へと注がれた。値踏みするような鋭い視線。それはただの好奇心ではない。相手の力量、覚悟、そして魂の在り処までをも見抜こうとする、修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ特別な「眼」だった。
鈴木は、その視線を涼しい顔で受け流した。そして、前世で敵意に満ちた取引先の重役たちを前に、何度もやってのけたように、完璧な、しかし心のこもっていない笑顔を浮かべ、深々と頭を下げてみせた。
「――はじめまして。私、東京の本部より参りました鈴木と申します。以後、お見知りおきを」
そのあまりにも完璧で、そしてあまりにも教科書通りのサラリーマンの挨拶に、強面の男たちの顔に、ほんのわずかだが困惑の色が浮かんだのが分かった。
「……ほう」
最初に口を開いたのは、やはり鮫島だった。彼の目が、面白そうにすっと細められる。
「……あんたが、海藤の叔父御が連れてきた『東京からの客人』かい。……ふん。見かけはどこにでもおるひ弱なサラリーマンにしか見えんが……」
彼はそこで一度言葉を切った。そして、まるで蛇が獲物を睨むかのように、その視線をさらに鋭くした。
「……その腹の内に飼っとるもんは、どうやらとんでもねぇ化け物のごたるな」
その言葉に、鈴木の眉がわずかにぴくりと動いた。
(……ほう。見えるのか、こいつには)
鈴木は、この式神ボディに宿って以来、自らの霊力を常に厚い殻で覆い隠し、制御してきた。並の術師やTier3クラスのエージェントでは、その力の片鱗すら感知することはできないはずだった。だが、目の前のこの男は、その殻のさらに奥にある根源的な力の「質」を、本能で、あるいは長年の経験で培われた特殊な直感で感じ取っている。
「……あんた、相当強いな」
鮫島は、確信に満ちた声で言った。
「おそらく……Tier2は軽く超えとる。……違うかい?」
そのあまりにも的確な指摘。鈴木は内心で、本日何度目かになる舌打ちをした。面倒なことだ。まさか初対面のヤクザに、いきなりここまで核心に迫られるとは。
彼は笑顔の仮面を崩さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「……さあ? 私は記憶喪失なものでしてね。自分がどれほどのものなのか、自分でもよく分からんのです」
「……記憶喪失ねぇ」
鮫島は、その言葉を信じているのかいないのか。ただ、面白そうに口の端を歪めて笑った。
「……まあ、よかろう。あんたが何者であろうと、今夜は八咫烏の『使い』としてここに座っとる。……それで話は早かろう」
彼は、仲居が置いていった徳利を手に取ると、鈴木の前の杯になみなみと日本酒を注いだ。
「――まずは一杯やっていただけますかな。我々の、ささやかな歓迎の気持ちですたい」
それは儀式だった。この杯を受けるか受けないか。それがこれから始まる交渉の、最初の重要な一手。
鈴木は、酒が飲めなかった。いや、この式神ボディはそもそも飲食を必要としない。だが、彼はここで引くわけにはいかないことを、瞬時に理解した。
「……お言葉に甘えさせていただきます」
彼は、完璧な所作で杯を手に取ると、その琥珀色に輝く液体を一気に、そして一滴も残さずに飲み干してみせた。アルコールが彼の擬似的な食道を通って胃へと流れ落ちていく。彼の身体はそれを無害なエネルギーへと変換し、霧散させていく。酔うことなど、ありえない。
その見事な飲みっぷりに、男たちの顔に、ようやくほんのわずかだが警戒を解いたような、和やかな色が浮かんだ。
「……よか飲みっぷりたい。気に入ったばい、鈴木さん」
鮫島は満足げに頷くと、ようやく本題を切り出した。
「――して。海藤の叔父御から話は聞いとります。お上……つまり、あんたら八咫烏も、あの忌々しい『アプリ』のことは探っとるごたるな」
「……ええ。それが今回の私の役目です。貴方がたが掴んでいる情報を、我々にも共有していただけると幸いですな」
鈴木は、あくまで対等な交渉相手として応じた。
その堂々とした態度に、鮫島の隣に座っていた、片目のいかにも切れ者といった風貌の若頭が、ちっと忌々しげに舌打ちをした。
「……お上の連中はいっつもそうだ。自分たちは高みの見物を決め込んで、面倒な情報だけ、下々のモンから吸い上げようとする」
「……よさんか、政」
鮫島が、低い声で若頭を制した。
「ですが組長!」
「いいから黙っとれ」
その静かだが有無を言わせぬ一言に、政と呼ばれた若頭は、ぐっと言葉を詰まらせ、悔しげに俯いた。
鮫島は、改めて鈴木へと向き直った。
「……鈴木さん。あんたに一つ聞きたい」
「……なんでしょう」
「あんたら八咫烏は……あのアプリの異能者どもをどう見とる? あいつらは、あんたらにとって『悪』なんかね? それとも『正義』なんかね?」
それは、この問題の最も核心を突く問いだった。
鈴木は数秒間沈黙した。そして、正直に答えた。
「……まだ判断できずにいます」
そのあまりにも素直な答えに、鮫島は意外そうな顔をした。
「あいつらは確かに怪異を狩っている。その点においては、結果的に我々の目的と一致している。ですが、そのやり方はあまりにも無秩序で、危険すぎる。……それが我々八咫烏の、現在の公式見解です」
「……ふん。お役所らしい、煮え切らん言い分たい」
政が再び横から口を挟んだ。
「俺たちに言わせりゃ、あいつらはただの『よそ者』たい! 仁義も筋も通さん、ただのガキどもが、俺たちのシマで好き勝手に暴れ回っとる! それだけのことじゃなかですか!」
「――そうだそうだ!」
もう一人、今まで黙っていた巨漢の幹部が、テーブルをドンと叩いて同意した。
「仁義がなかとですよ、あいつらは! 俺たちと怪異との間にはな、昔から暗黙の『棲み分け』があった。あいつらも好きで化け物になったわけじゃなか。もちろん中には、人に害をなす悪ぃ奴もおる。そげん奴は俺たちが、きっちり『教育』してきた。だが大半の怪異は、ただ自分たちの縄張りで静かに暮らしとるだけたい! それを!」
巨漢の男は悔しげに、自身の膝を大きな拳で叩いた。
「……あのアプリのガキどもは、容赦せん。クエストだからとか、ポイントが欲しいからとか、そんなふざけた理由で、無差別に怪異を狩りよる! そこには、何の敬意も、何の慈悲もなか! ただのゲームたい!」
そのあまりにも感情的な、しかし切実な訴え。
鈴木は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。
「……まあ」
海藤が、まるで仲裁に入るかのように口を開いた。
「お上としては、『怪異を狩っているだけ』の彼らを、明確な『敵』として認定するのは、動きづらいという事情もあるのでしょうな。民間人に直接的な被害が出とるわけでもな――」
「……まあ、お上はそう言うでしょうな」
鮫島は、まるで諦めたかのように、深く息を吐いた。そして、今までとは違う、どこか個人的な、そして悲しげな声で呟いた。
「……鈴木さん。俺たち、この街に住む下々の者からすれば……怪異は昔から、生活の一部だったとです」
彼は遠い目をして続けた。
「俺がまだガキの頃。近所の川には、悪戯好きの河童がおって、よく相撲ば取らされた。神社の森には、無口な一本だたらがおって、時々山で取れた木の実ば分けてくれた。……あいつらは確かに人とは違う。だが、決して俺たちの敵ではなかった。共にこの土地で生きてきた『隣人』だったとですたい」
その言葉には、鈴木もどこか感じ入るものがあった。土御門の屋敷にいた、あの無機質だが忠実な式神たちのように。人ならざる者と人が共に生きる世界。それは、彼がいたあの家では当たり前の光景だったのだ。
「幸い……」と鮫島は続ける。「街におった古くからの無害な怪異どもは、この騒ぎを察して、あらかじめ我々が用意しておった人里離れた『隠れ里』へと避難させました。じゃけん、善良な怪異のほとんどは、まだ被害には遭っとりません。ですが……」
彼の声のトーンが、再び鋭く、そして険しいものへと戻った。
「……時間の問題でしょうな。あのゲームに狂ったガキどもが調子に乗って、その『隠れ里』にまで手を出す日が、いつか来る。そうなれば、もはや話し合いで済む話ではなか。……全面戦争たい。そして、その火種はすでに燻り始めとります」
若頭の政が、懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
そこには、全身を蒼い毛皮で覆われた狼のような獣が、横たわっている姿が写っていた。その腹には、光の剣のようなもので一突きにされた無残な傷跡。
「……こいつは数日前に、山の麓で見つかりました。古くからあの山ば守っとった『山の神』の使いです。誰がやったか……。もうお分かりですな」
「…………」
「あいつらは、もはや善悪の区別すらついとらん。ただアプリが『敵』と認定すれば、それが神であろうと仏であろうと、容赦なくその刃を向ける。……鈴木さん。あんたはこれを、ただの『ゲーム』で済ませられる話だと思いますかな?」
そのあまりにも重い問いかけに、鈴木は即答することができなかった。
彼はただ、目の前の杯に再びなみなみと注がれた酒を、ゆっくりと、そして静かに飲み干すことしかできなかった。
この街の仁義と秩序、そして人と人ならざる者との長きにわたる共存の歴史。
それは、東京でただデータを眺めているだけでは決して理解することのできない、この土地の複雑で、そして根深い「現実」だった。
社畜の出張は、彼が想像していた以上に厄介で、そして彼の魂に重い何かを問いかけてくる、苦い旅となりつつあった。




