第33話 社畜と仁義なき抗争と海神の眼
大阪での三日間の視察――という名の、昼は書類の山と格闘し、夜は虎谷に引きずり回されて庶民の味に舌鼓を打つという奇妙な接待漬けの日々――を終えた鈴木太郎は、再び西へと向かう新幹線「のぞみ」の座席に身体を沈めていた。
目的地は九州・福岡、博多。
彼の手元には、虎谷から「餞別や」と半ば無理やり押し付けられた分厚い紙の資料の束があった。これは、大阪を中心とする関西圏の『KAII HUNTER』に関する生々しいまでの調査報告書。その膨大な情報を、鈴木は移動中の三時間弱で、すでに脳という名の超高性能サーバーへとスキャンし終えていた。
(……なるほどな。関西はまさに群雄割拠か)
鈴木は目を閉じ、脳内に構築したデータベースを整理する。四つの主要クランによる縄張り争い、プレイヤーの戦闘スタイルの地域差、そして退魔師協会の本拠地である京都の、不気味なまでの静けさ。そこには、東京とは全く異なる生態系が、確かに存在していた。
(さて……。次の九州はどうなんだろうな)
烏沢の事前情報によれば、九州エリア、特に福岡の博多周辺は、関西以上に『KAII HUNTER』の活動が活発で、そしてそれに対する「カウンター勢力」の動きもまた、異様なまでに組織化されているという。
彼は、窓の外に広がる穏やかな瀬戸内海の風景を眺めながら、これから始まる新たな面倒ごとを思い、静かに、そして深々とため息をついた。社畜の出張に平穏などありはしない。それは前世でも、そして今世でも変わることのない、宇宙の真理らしかった。
博多駅のプラットフォームに降り立った瞬間、鈴木を迎えたのは、大阪のそれとはまた違う、からりとした、そしてどこか大陸の匂いが混じったような乾いた熱気だった。行き交う人々の言葉は、独特の抑揚を持つ方言に彩られ、ここがまた新たな文化圏であることを、彼に嫌というほど思い知らせてくる。
待ち合わせ場所は、駅の筑紫口を出てすぐのタクシー乗り場。そこに一台の黒塗りの高級セダンが、まるで主を待つ忠実な猟犬のように、静かに停車していた。大阪で乗った庶民的な白いセダンとは明らかに「格」が違う威圧感を放っている。
(……ずいぶんと羽振りが良いらしいな、九州支部は)
鈴木がその黒塗りセダンの後部座席のドアに手をかけた、その時。
運転席のドアが、すっと内側から開かれた。
「――お待ちしておりました。東京本部の鈴木特務官殿で、お間違いございませんかな」
そこに立っていたのは、鈴木の予想を、ある意味で裏切る人物だった。年の頃は六十代後半だろうか。白髪を油で後ろになでつけ、高価そうな銀縁の眼鏡の奥には、まるで鷹のように鋭く、そして老獪な光を宿した瞳。寸分の隙もなく着こなした濃紺のダブルのスーツ。その全身から発せられる雰囲気は、大阪で会った虎谷のような叩き上げの現場指揮官のものではなかった。それは、裏社会で長年酸いも甘いも噛み分けてきた、百戦錬磨の「幹部」のそれだった。
「私が、八咫烏・九州支部を統括しております、海藤と申します。以後、よしなに」
海藤と名乗った老人は、深々と、しかし隙のない動きで一礼した。物腰は丁寧だが、身体の奥底に秘められた霊力は、長年使い込まれ、研ぎ澄まされた古刀のような凄みを放っている。虎谷が燃え盛る炎だとしたら、この男は静かに全てを凍らせる、絶対零度の氷。
(……こいつは、虎谷のオッサンとはわけが違うな)
鈴木は瞬時に相手の「格」を見抜き、内心で警戒レベルを一段階引き上げた。
「……どうも。鈴木です。本日はお出迎え、痛み入ります」
彼もまた、前世で培った「取引先の重役に対する」完璧なビジネスマナーで応対した。
「いえいえ。本部からの大事なお客様ですけん。……ささ、どうぞお乗りください。長旅でお疲れでしょう」
海藤に促されるまま、鈴木は後部座席の柔らかな革張りのシートに身体を沈めた。車は、新人の運転手であろうか、少しだけぎこちない動きで博多の市街地へと滑り出した。
車内には重い沈黙。運転手の緊張した呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。海藤は助手席で腕を組んだまま、黙して語らない。その沈黙が、まるで尋問のように鈴木の神経を圧迫してくる。
(……試されてるってわけか)
鈴木はすぐに理解した。この老獪な男は、自分がどんな人間か、一言も交わさずに見極めようとしているのだ。ここで下手に自分から口火を切れば、相手の思う壺。彼はただ黙って、窓の外を流れる博多の街並みを眺め続けた。中洲の、どこか退廃的でエネルギッシュなネオン街。天神の近代的な商業ビル群。そしてその合間に、まるで古都のような落ち着いた風情の寺社仏閣が顔を覗かせる。
やがて、痺れを切らしたかのように、海藤がぽつりと口を開いた。
「……烏沢君はお元気ですかな」
「ええ。相変わらず、部下に面倒ごとを押し付けては、自分は高みの見物を決め込んでいますよ」
鈴木の遠慮のない、しかし事実でもある返答に、海藤は初めて眼鏡の奥の瞳を、面白そうに細めた。
「……ふふ。相変わらずですな、あの子は。昔から盤上の駒を動かすことだけは、天下一品でしたけん」
「……昔からご存知で?」
「ええ。私がまだ東京本部におった頃の、生意気な、しかし実に優秀な部下の一人でしたばい。まさかあの子が、今や本部の中枢を担う係長とは……。時が経つのは早いもんですな」
その言葉に、鈴木は内心でわずかに驚いた。烏沢の元上司。だとすればこの男は、八咫烏の中でも相当な古株であり、そして実力者であるということだ。
九州支部――それは組織内では中央から遠く離れた「地方」の拠点。だが同時に、大陸からの脅威に備える国防の最前線でもある。そんな場所に、これほどの人物が配置されている。その事実が、九州という土地の裏社会における重要性を、何よりも雄弁に物語っていた。
八咫烏・九州支部の拠点は、博多湾を見下ろすウォーターフロント地区に聳え立つ超高層ビルの最上階にあった。エレベーターを降りた瞬間、鈴木は大阪支部との、あまりにも歴然とした「格」の違いに言葉を失った。
床は磨き上げられた黒大理石。壁は趣味の良い現代アートで飾られ、窓の外には、息を呑むようなオーシャンビューが広がっている。まるで一流企業の役員フロア。あるいは、五つ星ホテルのスイートルームのようだった。
「……こちらへどうぞ」
海藤に案内されたのは、彼の執務室であろうか。広々とした、重厚な調度品で統一された部屋だった。
「……それで海藤さん」
鈴木は、ソファに腰を下ろすのももどかしく、単刀直入に本題を切り出した。彼は、腹の探り合いや形式的な挨拶が何よりも嫌いだった。
「九州の『怪異ハンター』は、どんな塩梅です?」
そのあまりにも直接的な問いかけに、海藤は一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。そして次の瞬間、まるで面白い玩具でも見つけたかのように、皺の刻まれた口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「……はは。性急な方ですな、鈴木特務官殿は。よろしい。気に入りましたばい」
彼はデスクの上の高級そうな葉巻に火をつけ、紫煙を燻らせながら、ゆっくりと語り始めた。
「まあ、一言で言うとですな……。九州の裏社会は今、『ヤクザ』が出張っとります」
「……ヤクザ?」
「ええ。それもただのヤクザではなか。我々八咫烏にも、その存在が公式に登録されとる、古くからの『異能ヤクザ』ですたい」
海藤の話を要約すると、こうだった。
九州、特にこの博多という街は、古くから大陸との玄関口として、様々な「力」を持つ者たちが出入りする混沌の土地だった。そしてその混沌の中で、独自の秩序を築き上げてきたのが、地元の任侠団体――特に博多湾の港湾労働者たちを束ねる、九州最大の広域暴力団『玄海一家』だった。
彼らはただの暴力団ではない。その組員の中には、代々、身体能力を強化するタイプの、単純だが強力な能力を持つ者が数多く存在していた。いわば、八咫烏に所属しない「在野」の能力者集団。
「元々、連中は自分たちのシマを荒らす怪異なんぞは、自分たちで始末するという古風な任侠道を貫いとりました。我々八咫烏とも、お互いの領域は侵さん、という暗黙の紳士協定があった。……そう、『KAII HUNTER』が現れるまではな」
海藤は、忌々しげに葉巻の煙を吐き出した。
「アプリの力で急に力を手に入れた若いモンたちがどうなったか……。もうお分かりですかな?」
「……なるほど。自分たちの力を過信して、ヤクザのシマで好き勝手に暴れ始めたと」
「その通りですたい。連中は自分たちが急に強くなった気で調子に乗って、玄海一家の縄張りで怪異を狩り始めた。最初は玄海一家の側も静観しとりました。ですが、ある時、一人の若いプレイヤーが調子に乗って、玄海一家が管理しとった古い神社の『ご神体』……Tier3クラスの由緒ある土地神を、ゲームのレイドボスか何かと勘違いして倒してしまった」
「……馬鹿な真似を」
「ええ。まさに馬鹿ですたい。それで、玄海一家の、特に若い衆が完全にブチ切れた。『よそ者が俺たちの神さんば殺しよった! ケジメばつけさせちゃる!』とな」
そこから、血で血を洗う仁義なき抗争が始まった。
だがその結果は、多くの者の予想を裏切るものだった。
「……てっきり、アプリの派手で強力な能力を持つプレイヤーどもが圧勝するかと思われましたばい。ですが現実は違った」
「……というと?」
「結果は、ヤクザ側の圧勝ですたい」
その意外な結末に、鈴木はわずかに興味をそそられた。
「なぜです? 数の上でも、能力の多様性の上でも、プレイヤー側が有利だったはずだ」
「理由は二つ」と海藤は言った。
「一つは『覚悟』の違いですな。プレイヤーの連中は、どこまでいってもしょせんはゲーム感覚。死ぬかもしれんという恐怖を、本当の意味では知らん。だがヤクザ者どもは違う。あいつらはいつだって命を張っとる。その腹の据わり方の違いが、土壇場での勝敗を分けた」
「……そして、もう一つの理由は?」
「『経験』ですたい」
海藤は葉巻を灰皿に押し付け、その赤い火をゆっくりと揉み消した。
「玄海一家の連中の能力は、確かに『身体能力強化』一本槍の、古臭く地味なもんです。ですがあいつらは、その一つの力を何十年も、親子代々研ぎ澄ませてきた。対人戦闘のプロフェッショナルですたい。……それに比べて、アプリのプレイヤーどもはどうか? ポッと出の借り物の力。対怪異戦の経験はあっても、本気の殺し合いの経験など皆無。赤子同然ですばい」
「……なるほどな」
鈴木はようやく、九州エリアの異様なまでの「均衡」の理由を理解した。
「そういうわけで」と海藤は結論づけた。「今の博多は、古参の『異能ヤクザ』と新参の『アプリ能力者』が互いに牽制し合う、一触即発の奇妙な均衡状態にあるというわけですたい。まあ、どちらかといえばヤクザ側が優勢ですかな。『よそ者は俺たちの街のルールに従え』と、一方的にプレイヤーどもを締め上げとるようですばい」
「……大分、難しい状況ですな」
鈴木は、他人事のように、しかし正直な感想を述べた。東京とも大阪とも違う、極道という古く、そして根深いシステムが複雑に絡み合った、厄介極まりない土地。
「ええ。じゃけん我々八んばんは、下手に手が出せんとです。どちらの側にも与するわけにはいかん。ただ、この均衡が、いつ、どちらかの暴発で崩れるか……。それを固唾をのんで見守っとるしかないとですたい」
その時、海藤の執務室のドアが、コンコンと控えめにノックされた。
「――入れ」
入ってきたのは、まだ若いスーツ姿のエージェント。彼は海藤と、そして見慣れない鈴木の姿を見て、一瞬、緊張した面持ちになったが、すぐに上官へと向き直り、敬礼した。
「――海藤支部長。例の件、準備が整いました」
「うむ。ご苦労」
海藤は満足げに頷くと、鈴木へと、にやりと悪戯っぽい笑みを向けた。
「……さて、鈴木特務官殿。堅苦しい話はこれくらいにしましょうや」
彼はゆっくりと、その重々しい身体を椅子から持ち上げた。
「せっかく博多まで来なさったとです。この街の本当の『顔』を見せて差し上げましょう。……我々の『やり方』というやつをな」
鈴木が海藤に連れられて向かった先――それは、博多の中心地・中洲のネオンの洪水の中に、まるでそこだけ時間が止まったかのようにひっそりと佇む、一軒の老舗料亭だった。
そこは、海藤率いる八咫烏・九州支部と、玄海一家の幹部たちが、定期的に「会合」を開く中立地帯となっている場所らしかった。
通された個室には、すでに海の幸、山の幸が豪華絢爛に並べられていた。そしてその上座には、どう見てもカタギではない、刺青を覗かせた強面の男たちがずらりと並び、鈴木を値踏みするような鋭い視線で待ち構えていた。
鈴木は、そのあまりにも露骨な『修羅場』の空気に、心の底から深々と、そして果てしなく巨大なため息をつきたくなるのを、必死でこらえていた。
社畜の出張は、どうやら命懸けの接待交渉へと、そのステージをまた一つ上げてしまったらしい。




