第32話 社畜と西の拠点と食い倒れの流儀
翌日の昼下がり。
新幹線のぞみの座席に深々と身を沈めた鈴木太郎は、窓の外を猛スピードで流れていく景色を、死んだ魚のような目でぼんやりと眺めていた。
東京駅を出発してから約二時間半。ビル群が途切れ、田園風景が広がり、そして再びコンクリートのジャングルが視界を覆い尽くす。その代わり映えのしない車窓の風景は、彼の憂鬱な心象風景を、そのまま映し出しているかのようだった。
(……なんで俺が……)
心の底からそう思う。長期出張。響きは良いが、要はただの面倒ごとの押し付けだ。東京を離れ、慣れない土地で、顔も知らない連中と腹の探り合いをしなければならない。しかもその間、東京では生意気な姫君(瑠璃)と、まだ危なっかしい雛鳥たち(健太と詩織)が一体何をしでかすか分かったものではない。考えるだけで、胃がキリキリと痛むような気がした。前世で何度も経験した嫌な感覚だ。
『――まもなく新大阪、新大阪です』
無機質なアナウンスが彼の思考を中断させた。鈴木は重い身体を億劫そうに持ち上げると、最低限の荷物しか入っていないビジネスバッグを手に取り、降車の準備を始めた。
新大阪駅のホームに降り立った瞬間。
むわりと。東京とは明らかに質の違う、湿り気を帯びた熱気が、彼の全身を包み込んだ。そして耳に飛び込んできたのは、東京のそれとは全く違うイントネーションを持つ、やかましくもどこかエネルギッシュな人々の会話の洪水だった。
「……アッツ……」
思わず悪態が漏れた。物理的な暑さだけではない。この土地全体が、まるで巨大な生命体のように熱を発している。そんな奇妙な感覚。
彼は人波をかき分けるようにして改札を抜け、烏沢から事前に指示されていた待ち合わせ場所へと向かった。北口のロータリー、一般車の乗降スペース。そこに一台の見慣れない白いセダンが停車していた。八咫烏の紋章はもちろんどこにも付いていない。だが、フロントガラスの隅に、彼だけが分かるごく小さな黒い烏のステッカーが貼られていた。
鈴木がその車の後部座席のドアを開けた、その瞬間。
「――おー! 来はった来はった! あんたが東京から来よった噂の鈴木さんやな!」
鼓膜を直接ぶん殴られたかのような、けたたましい大声。運転席から身を乗り出してきたのは、アロハシャツの上に無理やりスーツの上着を羽織った、日に焼けた人の良さそうな笑顔の中年男性だった。
「どないしたん、はよ乗りや! ここ駐停車禁止やねんから、はよせんと警察にどやされるで!」
「……どうも」
鈴木はその圧倒的なテンションの高さに若干気圧されながらも、無言で後部座席へと乗り込んだ。
車が滑るように発進する。車内に充満しているのは、安っぽい芳香剤の匂いと、この男から発せられているであろう濃密な人情の匂いだった。
「わいは八咫烏・関西支部、大阪ブロックのチームリーダーをやらしてもらってます、虎谷いいます! まあ気安く『虎さん』て呼んでくれてええで!」
虎谷と名乗った男は、ルームミラー越しににかりと歯を見せて笑った。その笑顔はあまりにも屈託がなく、裏表というものが一切存在しないかのようだった。
(……なんだこのオッサンは……。烏沢とは真逆のタイプだな……)
鈴木は内心で、そんな第一印象を抱いていた。
「しかし驚いたで、ほんま。本部からわざわざ特務官さんが直々に視察に来るやなんて。こっちで何かやらかしたやろか? 上の連中に何か言われてるんやったら、今のうちにはっきり言うといてや? ワイ、そういう根回しとか苦手やねん」
その、あまりにも単刀直入な物言い。隠し事や腹の探り合いなど時間の無駄だと言わんばかりの、関西人特有の合理主義。
「……いえ。今回の出張は、あくまで最近問題になっている『怪異ハンター』アプリに関する情報共有と意見交換が目的だと、そう聞いていますが」
鈴木は、当たり障りのない公式見解だけを述べた。
「ほーかほーか! そら良かったわ! いやー、あのアプリ、こっちでもほんま手に負えんくて難儀しとったとこやねん! あんたら東京の本部の連中がええ知恵貸してくれるんやったら、大歓迎やで!」
虎谷は心の底から嬉しそうに、ガハハと豪快に笑った。その様子からは、嘘や建前の色は一切感じられなかった。
(……拍子抜けだな)
烏沢が懸念していたような地方支部の独断専行や情報隠蔽。少なくともこの男に関する限りは杞憂だったのかもしれない。鈴木は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
車は大阪の街を迷路のように縫って走っていく。御堂筋のどこまでも続くかのような銀杏並木。道頓堀の、巨大で悪趣味な(と鈴木は思った)立体看板の群れ。そして新世界に聳え立つ、古き良き時代の象徴・通天閣。そのエネルギーと欲望と、そして混沌がごった煮になったような街並みを、鈴木は生まれて初めて見るかのような新鮮な目で見つめていた。
やがて車は、ビジネス街の一角にあるごく普通の中規模なオフィスビルへと到着した。八咫烏・関西支部は、このビルのいくつかのフロアを間借りする形で、その拠点を構えているらしかった。
「はい着いたでー。ここがうちらの城や。まあ東京の本部さんに比べたら、みすぼらしいもんやけどな」
虎谷に案内され、鈴木はビルの中へと入っていった。職員用のエレベーターで、目的のフロアへと上がる。
内部は、東京の本部のような近未来的で無機質な空間とは全く違っていた。まるで昭和の時代から続く中小企業の事務所。そこかしこに書類の山が積み上げられ、壁には目標達成を鼓舞するような手書きのスローガンが貼られている。行き交うエージェントたちも、東京のエリート然とした雰囲気とは無縁の、どこか泥臭く、そして人間味のある顔つきをしていた。
「――おーい、お前ら! 本部から偉いさんが来はったで! ちゃんと挨拶せんかい!」
虎谷のダミ声が響き渡ると、フロアにいた全員が一斉にこちらを向き、深々と頭を下げた。その動きは、驚くほどに統率が取れていた。
「……やめてください、そういうのは」
鈴木は目立つことが何よりも嫌いだった。彼はその無数の視線から逃れるように、虎谷に促されるまま、奥にある応接室へと足早に向かった。
通された応接室は、やはりというか、年季の入った革張りのソファが置かれた、狭く、そして少しだけタバコ臭い部屋だった。
「まあ座りぃな。今、他のチームの連中も呼んでるさかい」
虎谷はそう言うと、自分はソファには座らず、テーブルの上に分厚いファイルの束をどさりと置いた。
「ほれ。これが、うちらがこの一ヶ月で集めた『怪異ハンター』に関する、全ての資料や」
その言葉に鈴木は、少しだけ目を見開いた。電子データではなく、紙。そのあまりにもアナログな手法。
「……悪いな。うちはハイテクなデータベースとか、よう分からん連中が多くてな。結局、こっちの方が確実で早いんや」
虎谷は照れ臭そうに頭を掻いた。
鈴木は無言で、そのファイルの束に手を伸ばした。ページを一枚一枚めくっていく。そこに記されていたのは、おびただしい数のプレイヤーの個人情報、活動記録、そして手書きで書き込まれた生々しい考察の数々だった。
その几帳面で、執拗なまでの情報の集積。それは東京の葵や蓮が集めたデータとは、また違う種類の「熱量」を持っていた。
「――それで? 関西の状況はどうなんです?」
鈴木は資料から顔を上げることなく、静かに尋ねた。
「ああ。結論から言うとな」
虎谷の声のトーンが、それまでの陽気なものから、プロの指揮官のそれへと、すっと切り替わった。
「――こっちはもう『戦争』が始まっとる」
「……戦争?」
「せや。お遊びやない。ガチのチーム戦や」
虎谷は、壁にかけられた大きな大阪の地図を指差した。その地図には、赤・青・黄・緑の四色のピンが、びっしりと打ち込まれていた。
「大阪の『怪異ハンター』どもはな、大きく四つの勢力に分かれとる。キタを拠点にする武闘派集団『天覇』。ミナミを縄張りにする快楽主義者の集団『極楽蝶』。東大阪の工業地帯を根城にする、能力の工業的利用を目論むインテリ集団『錬金術師団』。そして堺の港湾部を仕切る、海外の組織とも繋がりがあるらしい謎多き『海蛇』。こいつらが日夜、自分たちのシマを広げるために、小競り合いを繰り返しとるんや」
「……まるでヤクザの抗争ですな」
「言い得て妙やな。まさにその通りや。同じ関西人なんやから仲良うしたらええのに、ほんまアホばっかりや」
虎谷は、心底うんざりしたというように、肩をすくめた。
「まあ、今のところは幸いにも、一般市民を巻き込むような大規模な抗争には至っとらん。あいつらの間にも何らかの『掟』があるらしい。だが、それも時間の問題やろな」
東京とは全く違う状況。ただ個々のプレイヤーがゲーム感覚で怪異を狩っているのではない。彼らは明確な意思を持って「組織」を形成し、互いに争っている。
「まあ、特別に注意が必要なヤバい個体は今のところはおらんで」と虎谷は付け加えた。「各チームのリーダー格でも、せいぜいTier3程度や。我々八咫烏が本気を出せば、いつでも潰せる。脅威ではあっても危険ではない。……今はまだな」
鈴木は黙って話を聞いていた。そして、資料の中の一枚にふと目を止めた。それは、京都エリアに関する報告書だった。
「……京都は比較的穏やかなようですが」
「ああ。あそこは特別やからな」
虎谷の顔が、わずかに、しかし明確に険しくなった。
「あそこには『本家』がおるさかいな。おいそれと好き勝手できる場所やない。アプリのプレイヤーどもも、その空気を読んどるんやろ。京都だけは、他の地域とは比べもんにならんくらい、プレイヤーの数も活動も少ない」
『本家』。その言葉が何を指すか。鈴木はもちろん知っていた。
――土御門。
彼のもう一つの故郷。日本の全ての呪術の頂点に君臨する、絶対的な存在。
「あそこのお歴々は、プライドだけはエベレスト級やからな。『自分たちの庭の掃除は自分たちでする。余計な手出しは無用』やと。こっちが協力を申し出ても、けんもほろろやったわ」
「……でしょうな」
鈴木は乾いた笑いを浮かべた。彼の祖父である泰山の、頑固で厳格な顔が目に浮かぶようだった。
話は一時間以上に及んだ。やがて、虎谷以外の各エリアを担当するチームリーダーたちも集まり、状況報告と今後の対策についての議論が交わされた。彼らは皆、虎谷と同じようにどこか荒削りで、口は悪いが、その瞳には自らの仕事に対する確かな誇りと責任感を宿していた。
鈴木はほとんど口を開かなかった。ただ、彼らの言葉に耳を傾け、彼らが集めた膨大なアナログの資料に、その異常な記憶力で目を通し続けていただけだった。
会議が一応の区切りを迎えた頃。窓の外はすでに、美しい茜色に染まっていた。
「――ふぅー! 疲れた疲れた! 頭使うんは性に合わんわ!」
虎谷が大きな伸びをしながら、部屋の空気を断ち切った。
「よし! 今日の仕事はもう終わりや! 鈴木さん!」
彼は、まるで旧知の友人であるかのように馴れ馴れしく、鈴木の肩を叩いた。
「せっかく大阪まで来たんや。このままホテルに帰らすわけにはいかんな。飯でも食いに行こうやないか!」
「……いえ。俺は――」
「遠慮すんなや! わいがとっておきの店に連れてったるさかい!」
鈴木の断りの言葉は、虎谷の人の良い、しかし有無を言わせぬ笑顔によって、完全に掻き消されてしまった。
そして鈴木が連れてこられたのは、新世界の通天閣のすぐ麓にある、一軒の古びた串カツ屋だった。店内は油の匂いと、威勢の良い店主の声、そして仕事終わりのサラリーマンたちの楽しげな笑い声で満ちていた。カウンターだけの狭い店。鈴木が最も苦手とする種類の空間だった。
「――ほら、ここの串カツは絶品やで! ソースの二度漬けは禁止や! 分かっとるな!」
虎谷は、山盛りに盛られたキャベツをバリボリと音を立てて齧りながら、次々と串カツを注文していく。
「……いただきます」
鈴木は、目の前に置かれた揚げたての牛肉の串カツを、恐る恐るソースの壺に一度だけ漬け、口へと運んだ。サクッという小気味よい音。薄い衣の中から、熱々の肉汁がじゅわりと溢れ出してくる。甘辛いソースの味と牛肉の旨味が、口の中いっぱいに広がった。
(……うまい)
思わずそう思ってしまった。それは、烏沢が連れて行ってくれた、あの高級焼肉店のとろけるような肉とは全く違う種類の美味さだった。安っぽく、粗野で、しかしどうしようもなく食欲をそそる庶民の味。
「どうや、うまいやろ!」
「……ええ。まあ」
「ははは! 正直やないなぁ、あんたも! ま、ええわ! どんどん食いぃな! ここはわいの奢りや!」
虎谷は、ジョッキのビールをまるで水でも飲むかのように一気に呷った。
それから二人は、ほとんど仕事の話はしなかった。虎谷は、自分の息子が野球部でエースをしているだとか、最近、妻に内緒で行ったパチンコで大勝ちしただとか、そんな心底どうでもいい、しかしどこか憎めない身の上話ばかりを、一方的に話し続けた。鈴木はただ相槌を打ちながら、黙々と目の前の串カツを食べ続けていた。
それは彼にとって不思議な時間だった。八咫烏のエージェントとしてでもなく、土御門家の神の子としてでもない。ただの出張で大阪に来た三十路のサラリーマンとして。年の離れた、やかましいがどこか憎めない関西人のオッサンと酒を酌み交わす(彼は飲んでいなかったが)ありふれた平日の夜。
(……悪くない)
彼は何度目かになるその感想を、胸の内で静かに呟いていた。
店を出る頃には、空はすっかり夜の闇に覆われていた。千鳥足の虎谷をホテルまで送ってもらう車中。虎谷は、まるで思い出したかのように、ぽつりと言った。
「……なあ、鈴木さん」
「……なんですか」
「あんた、めちゃくちゃ強いんやろ?」
その、あまりにも単刀直入な問いに、鈴木は少しだけ目を見開いた。
「東京の本部で、色々噂は聞いとるで。記憶喪失やけど、その腕はTier2の連中でも全く歯が立たんてな。……ほんまなんか?」
「……さあな。俺は自分がどれくらい強いのか、自分でもよく分からんので」
「はは、またまたー。まあ、ええわ」
虎谷はそこで一度言葉を切った。そして、ルームミラー越しに鈴木の目を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳には、もはや酔いの色はなかった。
「……もしやで。もし、こっちで俺らの手に負えんようなヤバい“戦争”が本格的に始まったら……。その時は、あんたの力、貸してくれや」
その言葉は懇願だった。一人の部下と、そしてこの街を愛する指揮官からの、偽らざる心の叫びだった。
鈴木は何も答えなかった。
ただ、窓の外を流れていく大阪の夜景を、静かに見つめ返すだけだった。
社畜の長い長い出張は、まだ始まったばかりだった。




