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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第31話 社畜と拡大する盤面と新たな火種

 世界は、斉藤健太という一人の少年を中心に回っているわけではない。

 彼が神楽坂瑠璃という、絶対的な指導者(という名のスパルタ教官)の下、自らの未熟さを痛感し、血の滲むような(比喩ではなく、実際に何度も血を流しながら)基礎訓練に明け暮れている、まさにその間も。

 八咫烏ヤタガラスという、日本の裏側を護る巨大な組織の歯車は、休むことなく、そして冷徹に回り続けていた。


 その日の午前中、鈴木班の小さな作戦準備室は、珍しく静まり返っていた。

 いや、正確に言えば、静かなのは部屋の主である鈴木太郎、ただ一人だった。


「――んー、ダメですね、やっぱり。九州エリア、特に福岡と熊本。ここの二県からのプレイヤー報告が異常に多いです。しかも、報告されている怪異の目撃情報と、アプリ内の討伐ログが全く一致しません」


「関西も同様だ。特に大阪と京都。こちらのログでは『討伐完了』となっているTier4クラスの怪異が、退魔師協会系の観測網には、いまだ『活動中』として記録されている。データが明らかに改竄されているか、あるいは……」


 部屋の中央に置かれた長机を囲み、日向葵と長谷川蓮は、それぞれノートパソコンの画面を食い入るように見つめながら、深刻な声で報告を続けていた。

 彼らの目の前、壁に投影された日本地図の上には、東京と同じように、無数の色分けされた光点が、悪性のウイルスのように列島全土を覆い尽くさんばかりの勢いで広がっていた。


 神楽坂瑠璃が斉藤健太の「教育」に付きっきりになっている間、鈴木班の本来の任務――『KAII HUNTER』の実態調査は、葵と蓮の二人を中心に、新たなフェーズへと移行していたのだ。

 ――全国規模での実態調査へと。


 きっかけは、烏沢からの一本の素朴な疑問だった。

『――この忌々しいアプリは、果たして東京だけでばら撒かれているのだろうかね?』


 その問いを検証するため、葵と蓮は、八咫烏が持つ全国の観測網のデータと、彼らが独自にハッキング(もちろん組織公認の非合法な手段である)して得たネット上の膨大な口コミ情報を、ここ数日間、文字通り寝る間も惜しんで照合し続けていたのだ。

 そしてその結果は、彼らが想像していた以上に、そして最悪の形で、烏沢の懸念が正しかったことを証明していた。


「……で?」


 それまでインスタントコーヒーを啜りながら、黙って二人の報告を聞いていた鈴木が、ようやく重い口を開いた。


「結論はどうなんだ、葵、蓮」


 その声には、いつもの気怠さの奥に、無視できない鋭さが含まれていた。

 彼はただ遊んでいるように見えて、常にこの調査の全体像を、完璧に把握していた。


 葵は一旦手を止めると、疲れたように、しかし確信に満ちた目で、鈴木へと向き直った。


「……はい。結論から言います、先輩」


 彼女は大きく一つ息を吸い込んだ。


「この『怪異退治ゲーム』は……。どう見ても、もう都内だけの話じゃありません。間違いなく全国規模で、プレイヤーを拡大し続けています」


「…………」


「そして、問題はその規模だけじゃありません」と、蓮が引き継ぐように続けた。「僕たちが追っていた東京のプレイヤーたちのデータと、他の地方のプレイヤーたちのデータには、いくつかの看過できない『違い』が存在するんです」


「……違いだと?」


「はい」と蓮は頷いた。「まず最も顕著なのが、先ほど葵さんが言っていた怪異の討伐ログの不一致です。東京のプレイヤー――例えば斉藤健太君や高橋渉君のログは、我々の観測データと、ほぼ百パーセント一致します。彼らは実際にそこに存在する怪異を、確実に討伐している。ですが、九州や関西で活動している一部の有力プレイヤーのログは、どう見ても偽造されている。彼らは存在しないはずの怪異を討伐したことにされているか、あるいは、まだ討伐されていない怪異を、すでに討伐したことになっている。これは……」


「……誰かが意図的に情報を操作しているということか」


 鈴木がその言葉の意味を正確に読み取り、低い声で呟いた。


「はい。そして、もう一つの違いが……これです」


 蓮はキーボードを数回叩いた。

 壁のモニターに二つのスキルツリーの画像が並べて表示される。一つは斉藤健太の『SSR念動力』のもの。もう一つは、福岡エリアでトッププレイヤーとして名を馳せている、ハンドルネーム『博多の夜鷹』という人物の『SR闇討ち』のスキルツリーだった。


「一見、同じように見えますが……よく見てください。解放されているスキルの種類が、微妙に違うんです」


「……どういうことだ?」


「斉藤君のスキルツリーは、『出力強化』や『操作精度向上』など、純粋に能力そのものの性能を上げるものが、ほとんどです。ですが、この『博多の夜鷹』のスキルツリーには、『対人ステルス性能向上』や『暗殺術・改』、そして……『記憶改竄(弱)』といった、明らかに対怪異ではなく、対人戦闘を想定したスキルが含まれているんです」


 その、あまりにも不穏な単語に、部屋の空気が再び凍りついた。


「……どうやら、このゲームアプリ……」


 鈴木は冷たくなったコーヒーを、まるで苦い薬でも飲むかのように一気に飲み干した。


「……地域によって運営の方針が違う、とでも言うのかね。あるいは、プレイヤーに与えられる“役割”が違うとか……」


「その可能性は、非常に高いと思われます」と葵が頷いた。「東京はいわば『チュートリアル・エリア』。比較的安全な環境で、プレイヤーに基本的な戦闘と、力の使い方を学ばせるための場所。そして、地方の、特にプレイヤーが密集しているエリアでは、もっと別の……何らかの特殊な目的のために、プレイヤーが選別され、育てられている……」


 その仮説が導き出す、一つのおぞましい結論。

 彼ら『怪異ハンター』は、ただ怪異を狩るだけの存在ではない。いずれ、その牙を人間へと向けるように、意図的に育成されている者たちがいる。


「……はぁー……」


 鈴木は、心の底から深々と、そして果てしなく面倒くさそうな、巨大なため息をついた。


「……完全に俺たちの手を超えてるな」


 その一言は、この数週間にわたる地道で、そして困難な調査の全てを集約した、偽らざる結論だった。


 八咫烏の一分隊に過ぎない鈴木班。彼らが東京という一都市を監視するだけで手一杯だった。この日本全土を巻き込んだ、見えない神の掌の上で踊らされる巨大なゲーム盤の全体像を把握し、コントロールすることなど、もはや物理的に不可能だった。


「……そうですね。どう考えても私たちの手には負えません。今すぐにでも烏沢係長に報告して……」


「いや、その必要はねぇよ」


 葵の言葉を、鈴木は静かに遮った。

 そして部屋の隅、今まで誰も気づかなかった暗がりへと視線を向けた。


「――そうだろ? 係長。いつまでそこに隠れてるつもりですか」


 その、あまりにも唐突な言葉に、葵と蓮は弾かれたように、鈴木が見つめる先へと視線を向けた。

 そこには何もない。ただ、壁と資料が詰め込まれたスチール棚があるだけだ。


「せ、先輩……? 誰に話しかけてるんですか……?」


 葵が戸惑いの声を上げる。

 だが鈴木は構わずに続けた。


「あんたの趣味が悪いのはいつものことだがな。部下の報告を盗み聞きするとは、感心しませんな。それとも何だ? 俺たちが何か不正でも働いてないか、監視でもしてたってわけか?」


 その挑発的な言葉。

 数秒の奇妙な沈黙。

 やがて、その何もないはずの空間が、まるで陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。

 そしてそこから、まるで最初からそこにいたかのように、スーツ姿の烏沢係長その人が、ゆらりと姿を現したのだ。

 その手には、いつもと同じように、プラスチックカップに入った安物のお茶が握られている。


「……っ!?」


 葵と蓮は、幽霊でも見たかのように、声もなく飛び上がった。

 隠蔽系の術。それも、Tier3である葵の索敵能力を完全に欺くほどの、完璧な。


「……やれやれ。君のその“目”には本当に敵わんな、鈴木特務官」


 烏沢は、悪びれる様子もなく肩をすくめてみせた。


「一体、いつから気づいていた?」


「あんたがこの部屋に入ってきた時からですよ」


「なるほどな。入室と同時に、気配遮断の術を展開したはずなのだが……。どうやら君には、そもそも気配そのものを“読む”という概念がないらしいな。世界の『理』の歪みを、直接“視て”いるとでも言うべきか」


 烏沢は、まるで興味深い研究対象を観察するかのように、鈴木の能力を分析する。


「それで? 盗み聞きの成果はどうでした? 俺たちの報告は、あんたのお眼鏡に適いましたかね」


「ああ。実に見事だった」


 烏沢は、素直に、そして心からの賛辞を口にした。


「君たちにこの件を任せて正解だったようだ。これほど短期間で、これだけ正確な全体像を掴んでくるとは、私の予想を遥かに超えていた。特に、日向特務官、長谷川特務官。君たちの成長は、目覚ましいものがあるな」


 突然名指しで褒められ、葵と蓮は慌てて「ありがとうございます!」と背筋を伸ばした。


「だが、まあ」


 烏沢はそこで一度言葉を切ると、壁の日本地図を、苦々しい表情で見上げた。


「君たちが先ほど結論づけた通りだ。――この件は、もはや東京の一分隊で対応できる規模の話ではなくなった」


 彼の声には、国家の治安を預かる者の、重い決意が宿っていた。


「……どうするんです? 上層部に報告して、大規模な対策本部でも立ち上げますか?」


 鈴木が、面倒くさそうに尋ねた。


「無論だ。だが、それだけでは足りん。……鈴木君」


 烏沢は、部下に対する時とは違う、どこか個人的な響きを持った声で、鈴木へと向き直った。


「君にしか頼めないことがある」


「……また面倒ごとの押し付けですか。俺はこれ以上、仕事増やしたくないんですがね」


「分かっている。だが、これは命令だ。……君には明日から一週間ほどの長期出張を命じる」


「……出張?」


「うむ。関西支部および九州支部へ飛んでもらう。そして、現地の責任者たちと直接会談し、彼らが独自に進めている『怪異ハンター』対策の現状を、その目で確かめてきてもらいたい。葵君と蓮君には、引き続きここ東京で、監視とデータ分析を続けてもらう」


「……なるほどな。つまり俺を『監査役』として派遣すると」


 鈴木は、すぐにその命令の裏にある本当の意味を理解した。

 地方の支部がこの件に関して何かを隠している。あるいは、本部の方針とは違う独断専行を行っている可能性がある。それを烏沢は疑っているのだ。

 そして、その『闇』を暴くための、最も信頼できる、そして最も汚れ仕事に向いている『刃』として、鈴木を選んだのだ。


「話が早くて助かるよ」


「……見返りはあるんでしょうな?」


 鈴木は即座に、社畜としての権利を主張した。


「もちろんだ」


 烏沢の口元に、交渉成立を告げる薄い笑みが浮かんだ。


「君が帰京した暁には、先日申請があった君の部屋の家具購入費の倍額を、特別ボーナスとして支給しよう。そして君が望むなら……もう一つ、とっておきの『報酬』を用意してやってもいい」


「……ほう?」


「君の記憶喪失の件だ。技術班の最高のドクターたちに、君の脳を精密検査させ、記憶を取り戻すための、あらゆる手立てを講じさせよう。……どうだね? 悪い話ではないと思うが」


 その提案に、鈴木は一瞬だけ、その無表情の仮面の下で思考を巡らせた。

 記憶。前世の灰色の記憶。それを取り戻すことに、果たして価値があるのか。

 だが、彼はすぐに結論を出した。


「……結構です」


「……なに?」


「そんなもんに興味はねぇ。俺は今の俺で十分だ」


 それは、彼の偽らざる本心だった。

 過去に囚われることの面倒くささ。彼はそれを、誰よりもよく知っていた。


「……そうか」


 烏沢は少しだけ残念そうな、しかしどこか納得したかのような、複雑な表情を浮かべた。


「ならば仕方ない。ボーナスだけで我慢してもらうとしよう」


「――よし、決まりだな」


 鈴木は、まるで長かった会議がようやく終わったことに安堵したかのように、大きく伸びをした。


「葵、蓮。係長の話は聞いただろ。俺が留守の間、東京のことはお前らに任せる。いいな?」


「「はいっ!」」


 二人の頼もしい返事が、部屋に響いた。


「特に例の新人おひめさま……瑠璃のことだ。あいつは才能はあるが、まだ暴走しかねない危うさがある。そして斉藤健太のこともだ。俺の目が届かないところで、無茶な真似をさせんよう、上手く手綱を握っておけ」


「了解です!」


「それから、烏沢係長」


 鈴木は最後に、自分の上司へと向き直った。


「あんたも、俺がいない間に変なちょっかいを出すのは、やめていただきたいですな。俺のチームの連中は、あんたの便利な駒じゃねぇんだ」


 その、あまりにも不遜な釘の刺し方。

 だが烏沢は怒るでもなく、ただ愉快そうに、喉の奥でくつくつと笑った。


「……善処しよう、鈴木特務官」


 こうして、日本全土を巻き込む巨大な盤面を前にして、八咫烏はようやく、その次の一手を打つことを決定した。

 そして、鈴木太郎という、最も規格外で、最も予測不可能な最強の『観測者』は、しばし東京の舞台からその姿を消すこととなる。


 彼がいない東京で、一体何が起こるのか。

 育ち始めた雛鳥たちは、鷹の目がない空の下で、果たして無事に生き残ることができるのだろうか。


 鈴木は、そんな未来のことなど露ほども考えず、ただ、これから始まる長期出張の面倒な経費精算のことだけを思い、静かに、そして深々とため息をつくのだった。

 社畜の戦いは、場所を変えても、まだまだ終わらない。


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