第30話 灰色の教科書と瑠璃色の世界地図
その日の夜、健太と詩織は、昨夜の屈辱的な鬼ごっこの舞台となった廃病院に、再び集まっていた。約束の時間ぴったりに現れた瑠璃は、二人を埃っぽい旧視聴覚室へと導いた。
「今夜の狩りは一旦中止よ」
彼女は、まるでそれが当たり前であるかのように、そう宣告した。
「は? 中止って……。なんでだよ」
健太が不満げに抗議の声を上げる。昨夜の屈辱を、一刻も早く実戦で晴らしたかったのだ。
「今のあなた達は、戦場に出すにはあまりにも無知で、あまりにも危険すぎるからよ。無駄死にされるのは、監視役として寝覚めが悪いわ」
瑠璃は教壇に、教師のように立つと、床に座る二人を見下ろし、厳かに宣言した。
「これより『瑠璃先生の特別講座』を開講します。ありがたく聴講なさい」
その、あまりにもふざけたネーミングと、真面目腐った態度のギャップに、健太は呆れてものも言えなかった。だが、詩織は「は、はいっ!」と真剣な顔で背筋を伸ばしている。もはや彼女にとって瑠璃は、ただの謎の転校生ではなく、畏怖すべき「師」となっていた。
「いいこと? まずは、あなた達が相手にしている『敵』について、基本的なことから教えてあげるわ」
瑠璃は、まるでそこに黒板でもあるかのように、指で空中にいくつかの文字を書きながら、講義を始めた。
「あなた達が使っている『KAII HUNTER』のアプリでもある通り、私たちが戦う相手――怪異には、強さに応じて明確な『等級』が存在するわ。これは世界中のほとんどの組織で、共通認識となっている分類法よ」
彼女は、指を折りながら説明を続ける。
「頂点に君臨するのが、Tier0。これはもはや怪異というより『神々』と呼ぶべき領域。古事記や聖書に出てくるような、星を砕き、理を創るレベルの存在ね。万が一そんなものに遭遇したら、戦うなんて考えずに、ただ世界の終わりを祈りなさい。手も足も出ないわよ」
「……か、神様……」
詩織がごくりと息を呑んだ。スケールが大きすぎる話に、健太も言葉を失う。
「その下に、Tier1、Tier2と続いて、数字が大きくなるほど弱くなっていく。そして、あなた達が毎日“雑魚”よばわりしながら狩っているTier5。これは言わばスライムよ。怪異の中では最弱中の最弱。虫けら同然の存在だということを、まずは肝に銘じなさい」
「……む、虫けら……」
昨日まで、その「虫けら」に命を奪われかけていた自分の姿を思い出し、健太の顔に屈辱の色が浮かんだ。
「Tier5、Tier4、Tier3と等級が上がるにつれて、怪異はより狡猾に、そして特殊な能力を使ってくるようになるわ。Tier4の上位あたりから、あなた達にとっては命のやり取りを覚悟しなければならない強敵となる。そこが一つの境界線ね」
健太と詩織は黙ってその言葉を聞いていた。今まで、ただレーダーに表示された敵を、ゲームのモンスターのように倒していただけだった。だが、瑠璃の言葉には、その一つ一つに血と死の匂いが染み付いていた。
「さて、次は『敵』ではなく『味方』……あるいは『新たな敵』になるかもしれない存在についてよ。つまり、私たち『人間』の能力者の話」
瑠璃は教壇の端から端まで、ゆっくりと歩きながら、その声のトーンを少しだけ変えた。
「まず、基本的な呼称と定義から。私たちが公の場で使う正式名称は、『因果律改変能力者』と言うわ」
「……いんがりつ……?」
健太が聞き慣れない単語を反芻した。
「そう。この世界の全ての物事の根源的な法則。『原因』があって『結果』が生まれる――この当たり前の繋がりを『因果律』と呼ぶわ。そして、私たち能力者はその因果律に直接干渉して、本来起こり得ないはずの事象――例えば、何もない空間から炎を出したり、触れずに物を動かしたりといった“奇跡”を、意図的に発生させる力を持つ人間の総称よ」
その説明は、非常に学術的で、しかし腑に落ちるものだった。
「まあ、もっと分かりやすく言えば『魔法使い』とか『超能力者』『霊能力者』『術師』なんて呼ばれてる人たちの全部を、ひっくるめた言い方だと思えばいいわ。所属している文化圏とかで呼び方が違うだけ。やってることは、大体同じよ」
瑠璃はそこで一旦言葉を切ると、二人に向き直った。
「そして、この因果律改変能力者にも、怪異と同じように明確な等級が存在するの」
彼女は、まるで試験に出る重要項目を教えるかのように、人差し指を立てた。
「頂点に君臨するのが、Tier0:『規格外』。彼らは、もはや人間ではないわ。この世界の物理法則や因果律そのものを、自らの意志で書き換えることができる『神』。あるいは『歩く自然災害』と定義されているわ」
「……そんな人間が本当にいるんですか……?」
詩織が、信じられないというように尋ねた。
「いるのよ。ごく少数だけどね。次に、Tier1:『国家戦略級』。彼らは『理』そのものを書き換えることはできないけれど、その理の中で許された全ての技と術を極め尽くした、究極の『武人』や『達人』。その一個人の戦闘能力は、一つの軍隊に匹敵すると言われているわ」
「ぐ、軍隊……」
健太の喉がごくりと鳴った。自分の力が、まだその遥か手前の“子供のお遊び”に過ぎないことを、彼は嫌というほど思い知らされていた。
「そして、Tier2:『特殊作戦級』。専門的で少しトリッキーな能力を持って、限定された戦局を支配することができる『エリート兵士』。チームとして行動した時に、その真価を発揮するタイプが多いわね」
「その下が、Tier3:『戦術級』。小規模な戦闘の勝敗は左右できるけど、それ以上の大きな影響力はない、標準的な『兵士』。八咫烏のエージェントの大半は、このクラスよ」
「さらに下、Tier4:『潜在的脅威』。これが今のあなた達」
瑠璃は、びしっと健太と詩織を指差した。
「力に目覚めたばかりの『素人』よ。能力はまだ微弱で不安定。だけど、その数と、何をしでかすか分からない予測不可能性から、私たちにとっては最も頭の痛い監視対象となっている。……よく覚えておきなさい。あなた達は私たちから見れば、『保護対象』であると同時に『脅威』でもあるということを」
「……」
二人は、何も言い返せなかった。
「そして、Tier5:『原石』は、まだ覚醒していないけれど、能力者としての素質を秘めた一般市民。各組織のスカウト対象ね。最後のTier6:『可能性』は、何の力の兆候も見られない、全ての『普通』の人間たち。……まあ、この世界を本当に形作っているのは彼らの存在なのだけれど。その話は、またいずれ」
あまりにも膨大で圧倒的な情報量。健太と詩織の頭は、完全にパンク寸前だった。
「……ちなみに言っておくと」
瑠璃は、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて付け加えた。
「あなた達は確かに今はTier4。だけど、それはあくまであの忌々しいアプリによる『借り物の力』を上乗せしての話。あなた達自身の“素の実力”は、Tier5の『原石』か、あるいはそれ以下だということも、忘れないようにね」
その言葉は、二人の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
「……あの」
健太が恐る恐る手を挙げた。
「質問、いいか?」
「許可するわ」
「……じゃあ、神楽坂さんはどのランクなんだ?」
それは、彼が今最も聞きたいことだった。目の前のこの圧倒的な少女が、一体どれほどの存在なのか。
瑠璃は、その問いにこともなげに答えた。
「私? 私はTier2よ。それも、限りなくTier1に近いと自負しているけれど」
Tier2。エリート兵士。その言葉の重みが、ずしりとのしかかってくる。
「……やっぱりそうか……」
「がっかりした? でも安心していいわ。上には上がいる。私なんて、本当のTier1の化物たちに比べれば、まだまだひよっこだもの」
その言葉は、謙遜などではなかった。ただ、揺るぎない事実として、彼女の口から語られた。
「さて、講義を続けるわよ」
瑠璃は、生徒たちの動揺などお構いなしに、話を次へと進めた。
「次に、能力の『起源』について。能力者がその力をどうやって手に入れたか――その経緯は、主に三つのパターンに大別されるわ」
彼女は、再び空中に指を滑らせる。
「一つ目が『継承型』。古くからの能力者の血筋に生まれて、その家系に代々伝わる術とか、特殊な能力を生まれつき引き継いでいる者たち。私の家――神楽坂家もこのタイプね。一つの能力に特化してて洗練されてるのが特徴だけど、その分、応用が効かない脳筋タイプも多いわ」
「二つ目が『突然覚醒型』。血筋とか全く関係なく、強いストレスとか、死にかけたりしたのをきっかけに、ある日突然、能力に目覚める人たち。最近一番増えてるのがこのパターンね。どんな能力が出るか分からないし、制御も不安定だけど、とんでもない成長を見せる可能性も秘めているわ」
「そして三つ目が『修練型』。どこかの組織とか流派に入って、ちゃんと体系化された修行を積むことで、後から能力を身につける人たち。お寺の偉いお坊さんの法力とか、武道の達人が使える『気』みたいなものが、これに当たるわね」
「……大まかにこの三種類に分けられる。――のだけれど」
瑠璃はそこで、意味ありげに健太と詩織を見つめた。
「あなた達は、そのどれにも当てはまらない、極めて特殊な『例外型』よ。外部からもたらされた、あのアプリという『触媒』によって、強制的に力を覚醒させられた存在。前例が、ほとんどないの」
「……例外型……」
「そう。だから、私たちはあなた達のことが分からない。あなた達の力がどこまで成長するのか。そして、その力が最終的に何をもたらすのか。……だから、監視しているのよ」
「……あの、いいですか?」
今度は、詩織がおずおずと手を挙げた。
「……健太さんのSSR念動力とか、私の治癒能力とかって……。強い弱いとは別に、何か“種類”みたいなものってあるんでしょうか?」
「いい質問ね、桜井さん」
瑠璃は、初めてほんの少しだけ、教師らしい柔らかな笑みを浮かべた。
「あるわ。能力者はその“魂の形”によって、大きく二つのタイプに分類されるの」
彼女は自分の胸に手を当てて言った。
「一つは『特化型』。魂の形が、例えば『斬る』こととか『癒す』こととか、たった一つの分野に極端に特化している人たち。その分野に関しては、格上の相手にも勝てるくらいの、圧倒的な才能を発揮する。ほとんどの能力者は、このタイプね」
「そして、もう一つが『オールラウンダー型』」
瑠璃の目が、すっと細められた。
「複数の、全く違う系統の能力を、同時に、あるいは切り替えて使いこなすことができる、極めて希少な“万能型”の能力者。彼らは魂の形が『不定形』で、あらゆる能力に適性があると言われているわ。その分、一つの道を極めたスペシャリストに、個々の技能では劣ることが多いけれど……。異なる能力を組み合わせることで、常識外れの“奇跡”のような戦術を生み出すこともある。その成長の到達点は、誰にも予測できないと言われているわ」
「……へぇ……。すごいですね、オールラウンダー……」
詩織が、素直な感嘆の声を上げた。
「ちなみに」
瑠璃は、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「――私はその“オールラウンダー型”よ。剣術だけでなく、気配察知、結界術、そしていくつかの攻撃系の術も、幅広く使いこなすことができるわ」
その言葉は、彼女の圧倒的な強さの、一つの答えだった。
「……じゃあ俺たちは……?」
健太が尋ねた。
「おそらく、あなた達は二人とも『特化型』でしょうね」
瑠璃は即答した。
「あの忌々しいアプリは、あなた達の“魂の形”……つまり『才能』を、インストールした瞬間に正確にスキャンしているのだと思うわ。そして、その才能を最も効率よく補助し、成長させるための能力を、ガチャという形式で“見繕って”与えている。……そう考えれば、納得がいく」
「……個性に合った能力を……」
「そう。無制限に、誰にでも、どんな能力でも与えるなんてことは、この世界の理に反しているもの。何らかの『縛り』や『法則』が、必ずあるはずよ。あなた達は、そのアプリによって、自分たちが最も得意とする分野のスペシャリストとして、強制的に『育てられて』いるのよ」
その言葉は、健太の心に深く突き刺さった。
自分の、この“最強”だと思っていた力は、しょせん何者かによって“お仕着せられた”ものに過ぎなかったのか――。
「……まあ、今日の講義はこれくらいにしてあげるわ」
瑠璃は、生徒たちの混乱などお構いなしに、一方的に授業の終わりを告げた。
「質問はある?」
健太と詩織は顔を見合わせた。あまりにも多くのことを一度に聞きすぎた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。だが、健太にはどうしても一つだけ、聞いておきたいことがあった。
「……あんたは、なんでそんなに詳しいんだ?」
彼は絞り出すように、そう尋ねた。
「八咫烏とか退魔師協会とか……。なんで一介の高校生のはずのあんたが、そんな“世界の裏側”のことを全部知ってるんだ?」
それは、最も根源的な疑問だった。
瑠璃はその問いに、一瞬だけその表情を曇らせた。そして、遠い目をして呟いた。
「……私は」
彼女の声は、今まで聞いたことがないほど、か弱く、そして寂しげだった。
「……物心ついた時から、この世界で生きてきたからよ。あなた達が当たり前のように享受してきた『普通の』学生生活なんて、私は一日も経験したことがない。……だから、少しだけ羨ましかっただけ」
その、一瞬だけ見せた年相応の少女の顔。
健太と詩織は、その顔に何も言葉をかけることができなかった。
「……さあ、感傷に浸るのはここまでよ!」
瑠璃は、すぐにいつもの“氷の仮面”を被り直すと、パンと手を叩いた。
「今日の夜はこれから昨日の続き! 私から十分間逃げ切る“鬼ごっこ”を、もう一度やってもらいますからね! 覚悟なさい!」
その声は、もういつもの彼女の、厳しく、そして楽しそうな響きを取り戻していた。
健太と詩織は顔を見合わせ、そして諦めたように、深いため息をついた。
灰色の教科書に書き記された、瑠璃色の世界のルール。
二人の、過酷で、しかし確実に世界を広げていくための“地獄の補習授業”が、また始まろうとしていた。




