第29話 灰色の教練と瑠璃色の鬼ごっこ
神楽坂瑠璃という少女は、その美しい見かけとは裏腹に、極めて合理的な思考の持ち主だった。
そして一度「指導する」と決めた相手に対しては、一切の妥協も容赦もしないスパルタ教師の気質を併せ持っていた。
斉藤健太と桜井詩織は、その事実をこれから骨の髄まで思い知らされることになる。
あの日、鈴木班との定例報告会という名の焼肉会議を終えた翌日の夜。
健太と詩織は、いつものように「狩り」の約束を交わし、待ち合わせ場所である古い公園へと向かった。
だが、そこに現れたのは約束の相手だけではなかった。
「――遅いわね。五分も遅刻よ」
公園のブランコに、まるで玉座にでも腰掛けるかのように優雅に足を組んで座っていた瑠璃が、二人を冷たい視線で見下ろした。
彼女は学校の制服ではなく、動きやすさを重視したのだろう、黒を基調としたスポーティな私服姿だった。
その服装ですら、まるで高級ブランドのショーモデルのように着こなしてしまうのだから、天は二物も三物も与えるものらしい。
「か、神楽坂さん!? なんでここに……」
健太が、驚きと警戒をない交ぜにした声で尋ねる。
「決まっているでしょう。昨日言ったはずよ。『今後あなた達の怪異退治を私が監督する』と」
「いや、それは聞いたけど……。まさか本当に毎回ついてくる気かよ……」
「当然よ。あなた達のような、いつ暴発するか分からない危険物を、野放しにしておくわけにはいかないでしょう?」
その、あまりにも上から目線の物言いに、健太の眉間にぐっと深い皺が刻まれた。
だが、彼は何も言い返せない。先日この女に完膚なきまでに叩きのめされた、あの屈辱的な記憶が、彼の喉に重い鉛のように詰まっていた。
「……それで? 今夜の獲物は決まっているの?」
「ああ……。この近くの廃病院に出るっていう Tier4 の……」
「そう。話は早いわね」
瑠璃は、すっくとブランコから立ち上がった。
そして、信じられないというような目で、健太と詩織を頭の先から爪先まで、じろじろと眺め回した。
「……まずはそこからね」
「は?」
「あなた達、あまりにも無防備すぎるわ。そんな気の抜けた様子で戦場に臨むなんて、自殺行為もいいところよ」
彼女は、まず詩織の方へと向き直った。
「桜井さんだったかしら。あなたの能力は『完全治癒』と『身体能力強化(弱)』。そうね?」
「は、はい! そうですけど……」
「その『身体能力強化(弱)』、もっと効果的に使いなさい。ただ漫然と力任せに殴るだけでは、何の役にも立たないわ。あなたの基礎的な身体能力、そして戦闘技術は、残念ながら一般人以下。話にならない」
「うっ……」
手厳しい、しかし的確な指摘に、詩織が言葉を詰まらせる。
「まずは運動しなさい。走り込み、筋力トレーニング、そして最低限の護身術。私が特別に、退魔師協会式の基礎教練を組んであげるわ。感謝なさい」
「は、はい……ありがとうございます……」
もはや詩織は、頷くことしかできなかった。
次に瑠璃は、このパーティーの主戦力である健太へと、その鋭い視線を向けた。
「そしてあなたよ、斉藤健太」
「……なんだよ」
「あなたのその SSR『念動力』。確かに強力だわ。でもね、あなたはそれに頼りすぎている。それ以外の『手札』を何も持っていない」
「手札だと……?」
「そう。もし念動力が通用しない相手が現れたら? もしあなたの意識を逸らす陽動にかけられたら? その時、あなたはどうするの? 遠距離から物を飛ばすことしかできない、ただの的よ」
その言葉は、先日、指揮官ゴブリンに敗北した時の健太の記憶を、容赦なく抉った。
そうだ。あの時、自分は何もできなかった。懐に潜り込まれただけで、死にかけていた。
「……どうしろって言うんだよ。俺の能力はこれしかねぇんだ」
「本当にそうかしら?」
瑠璃は、くすりと挑戦的な笑みを浮かべた。
「あなたのその忌々しいアプリ……『KAII HUNTER』には、確かガチャ機能があったわよね? 新しい能力が手に入る可能性があるのではないの?」
「……それはそうだけど。スキルポイントは念動力の強化で使い切ってる。それにガチャなんて、そうそう良いのが出るわけ……」
「関係ないわ。手札は多ければ多いほど良い。例えそれが N ランクのゴミ能力であろうとも、使い方次第では SSR をも凌駕する切り札になり得る。それを理解できないうちは、あなたも所詮、三流のハンター止まりよ」
彼女の言葉には、絶対的な自信があった。
それは、幾多の修羅場を己の技量と、そして知略で乗り越えてきた者だけが持つ、本物の強者の響きだった。
健太は、何も言い返せなかった。
彼は初めて、自分の戦い方がいかに単調で、浅はかであったかを思い知らされていた。
「……いいこと? あなた達と私とでは、そもそも流れている時間の密度が違うの」
瑠璃は、まるで真理を語る預言者のように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「私は、あなた達が瞬きをするその僅かな間に、あなた達を十回は殺せる」
その言葉は、比喩や誇張ではなかった。
健太と詩織は、その言葉が紛れもない事実であることを、肌で理解させられていた。
目の前の少女は、自分たちとは全く違う次元の生き物なのだと。
「……だから」
瑠璃はそこで、初めてふっとその氷のような表情を和らげ、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「あなた達に戦いの基礎を教えてあげる。まずは、相手の『格』を見切り、勝てないと判断した時に、確実に『逃げる』ための訓練から始めましょうか」
「……逃げる訓練?」
健太が、怪訝な顔で聞き返す。
「ええ。古くから伝わる由緒正しき訓練よ。――鬼ごっこしましょうか」
「「…………は?」」
健太と詩織の口から、揃って間の抜けた声が漏れた。
鬼ごっこ。今この、これから血生臭い怪異との戦いに臨もうという緊張感に満ちた空気の中で、この女は一体何を言っているのだろうか。
「……おい。ふざけてんのか?」
「いいえ、大真面目よ」
瑠璃は、きっぱりと答えた。
「これは八咫烏でも、そして私が所属していた退魔師協会でも、新人の生存率を上げるために必ず最初に叩き込まれる、極めて重要な訓練項目の一つだわ。なめてかかると、痛い目を見るわよ」
「……たいましきょうかい……?」
健太が、聞き慣れない単語を反芻した。そういえば先日も、この女は似たようなことを言っていた。
「また新しい用語が出てきたな……。『退魔師協会』って一体なんだよ」
その問いに、瑠璃は少しだけ面倒くさそうな顔をした。
だが、彼女は監視対象からの質問に答えるのも任務の一環だと判断したらしかった。
「……はぁ。仕方ないわね。特別に教えてあげる」
彼女は、まるで歴史の教師のように説明を始めた。
「退魔師協会とは、その名の通り、古来より日本に存在する全ての『退魔師』を束ねる巨大な自治組織よ。陰陽師の家系、山伏、神社の神職、あるいは忍びの末裔。そういった血筋や流派によって、怪異や魔を祓うことを生業としてきた者たちの連合体。それが退魔師協会」
「……なんだそりゃ。ヤクザの組みたいだな」
健太の、あまりにも不敬な感想に、瑠璃の眉がぴくりと険しく動いた。
「……少し黙っていなさい。そして、八咫烏はどちらかといえば出自や血統を問わず、力ある者をエージェントとして登用する。退魔師協会とは成り立ちも思想も、根本的に違うわ。……まあ、現在は『不可侵協定』を結んで、一応の協力関係にはあるけれど」
「……それで、あんたはその協会からヤタガラスに派遣されてきたと」
「話が早くて助かるわ。そういうことよ。まあ、私の身の上話なんてどうでもいいでしょう? それよりも鬼ごっこよ」
瑠璃は強引に話を元に戻すと、楽しそうな、しかし全く笑っていない目で二人を見据えた。
「ルールは簡単。ここから、今夜の狩り場であるあの廃病院までがフィールド。私が鬼。あなた達二人が逃げる側。私が今から十秒数える。その間に好きなだけ逃げなさい。そして十分間、私に捕まらなければ、あなた達の勝ち。訓練は終了よ。簡単でしょう?」
その、あまりにも一方的で、あまりにも子供騙しのようなルール説明に、健太はもはや怒りを通り越して、呆れるしかなかった。
「……おい。本気で言ってるのか?」
「ええ、本気よ。――じゃあ始めるわね」
瑠璃は健太の返事を待つこともなく、すっくと近くの木に寄りかかると、目を閉じて、その華奢な指を折り始めた。
「――いち……にぃ……さん……」
その抑揚のないカウントダウンの声が、静かな夜の公園に響き渡った瞬間――。
「……行くぞ、詩織!」
「は、はいっ!」
健太は詩織の手を掴むと、考えるよりも先に全力で走り出していた。
理屈は分からない。だが、本能が叫んでいたのだ。今この場で全力で逃げなければ、本当に殺されると。
二人は、もつれるようにして公園を飛び出し、廃病院へと続く暗い路地裏へと、その姿を消していった。
「――きゅう……じゅう」
十秒後。瑠璃は、ゆっくりと目を開いた。
そこには、もはや健太と詩織の姿はなかった。
「……さて」
彼女の口元に、まるでこれから始まる狩りを楽しむかのような、獰猛な笑みが浮かんだ。
「始めましょうか」
彼女は目を閉じ、再び意識を集中させる。
「――気配察知」
その呟きと共に、彼女の霊力が、まるで蜘蛛の糸のように見えない波となって周囲の空間へと広がっていく。
それは、大雑把な霊力の流れを読むだけの、葵や健太が使うような索敵能力ではなかった。
空気の震え、地面の振動、人々の残した微かな思念――その全てを読み取り、世界の全てを三次元マップとして自らの脳内に再構築する、神業の領域。
「……ふむ。見つけたわ」
数秒後。彼女は、いとも容易く二人の獲物の居場所を正確に特定した。
廃病院の二階、東側の病室。息を殺して、ロッカーの中に隠れている。
「あとはタッチするだけね」
彼女の身体が、ふっと。
まるで陽炎のように、その場から掻き消えた。
一方その頃。
健太と詩織は、廃病院のカビ臭い病室のロッカーの中で、息を殺して身を寄せ合っていた。
「……はぁ、はぁ……。ま、撒けたかな……?」
詩織が、震える声で尋ねる。
「……分からん。だが、あいつ本気だぞ。尋常じゃねぇ」
健太も荒い呼吸を整えながら答えた。
あの公園でカウントダウンをしていた時の瑠璃の気配。
それは、もはや人間のそれではなかった。完全に獲物を狩る「捕食者」の気配だった。
ロッカーの隙間から外の様子を窺う。月の光が差し込む静かな廊下。人影はない。
(……どうする。このまま十分間ここに隠れ続けるか? いや無理だ。あいつは必ず見つけに来る)
健太の頭が高速で回転する。
勝てる相手ではない。だが、これは「鬼ごっこ」だ。捕まらなければ良い。
その時だった。
「――はい、見ーつけた」
その悪魔のような声は、健太のまさに耳元で囁かれたのだ。
「「――ひっ!?」」
健太と詩織は同時に、心臓が止まるかのような衝撃に襲われた。
二人が弾かれたように振り返った先――そこにはいつの間にか、狭いロッカーの自分たちの真後ろの空間に、音もなく入り込んでいた瑠璃の姿があった。
その顔はすぐ鼻の先にある。
その瞳は、楽しそうに細められていた。
「……これで終わりね」
瑠璃の白魚のような指が、ゆっくりと伸びてくる。
そして、ぽんと。健太の肩に、優しく、しかし抗いようのない絶望と共に触れた。
「……はい、終了」
瑠璃の無慈悲な宣告が、響き渡った。
健太と詩織は、廃病院の中庭で地面にへたり込み、ぜえぜえと肩で息をしていた。
あれから一体何が起こったのか、二人ともよく覚えていない。
ただ、気づいた時には自分たちはここにいて、目の前には息一つ乱していない瑠璃が、仁王立ちになっていた。
時計を確認する。鬼ごっこが始まってから、まだ三分しか経っていなかった。
「……三分ね。まあ、新人にしては上出来な方かしら」
「……なんで分かったんだよ……。俺たちは足音も立てず、息も殺して、あそこに隠れてたはずだ……」
健太が、絞り出すように悔しさを滲ませて尋ねた。
「敗因は一つよ。あなた達が自分の『気配』を、全く消せていなかったから」
「……けはい……?」
「そう。気配。人間はただそこにいるだけで、霊的な痕跡――オーラのようなものを、常に周囲に撒き散らしているわ。あなた達のような強い力を持つ者は、なおさらね。私レベルの術師になれば、その気配を辿るだけで、暗闇の中でも、壁の向こうにいても、相手の位置を正確に特定できる」
「……そんなの分かるわけないだろ……!」
「分かるようになるのよ。訓練すればね」
瑠璃はそう言うと、すっくとその場に立った。
「いいこと? 生き残るための第一歩は、まず自分の気配を消すこと。敵に自分の存在を悟られないことよ。例えば……」
彼女は、健太と詩織によく見ていろとでも言うように、その場で一度、深く息を吸い込んだ。
「――このように」
次の瞬間。健太は、信じられない光景を目の当たりにした。
目の前に瑠璃は確かに立っている。
だが、なんだかその存在が急に「薄く」なったような感覚に襲われたのだ。
さっきまでそこに確かにあったはずの圧倒的な存在感が、すうっと霧のように消えていく。
まるで彼女の姿だけが、背景の景色の中に溶け込んで同化してしまったかのようだ。
「……な……」
「これが、気配遮断の基本よ。霊力を自分の内側ではなく外側へ。周囲の自然や空間そのものと一体化させる。そうすることで、自分の存在を、世界の一部として『誤認』させるの」
彼女の声だけが、どこからともなく響いてくる。
「……なるほど……。なんとなくだが、理屈は……」
健太はごくりと喉を鳴らした。
これが本物の技術。これが、自分に足りなかったもの。
「これがステップ1よ。まずは、あなた達もこの『気配を消す』ことだけを、徹底的に覚えなさい。
そして次は、その気配を消したまま全力で逃げる。……これがステップ2」
瑠璃の姿が、再び現実の輪郭を取り戻した。
「今日の訓練は、ここまでにしてあげるわ。でも、明日からはもっと厳しくいくから。覚悟しておきなさいな」
彼女は、まるで女教師のようにそう言って、微笑んだ。
斉藤健太の人生で、最も過酷で、そして最も有意義な地獄の個人レッスンが、今、その幕を開けた。
それは、彼がただの「才能ある素人」から、本当の「戦士」へと脱皮するための、最初の、そして最も重要な試練の始まりだった。




