第27話 灰色の邂逅と瑠璃色の絶望
放課後の喫茶店。
そのコーヒーの香りと、気だるいボサノバが流れる空間は、斉藤健太と桜井詩織にとって、すっかりお馴染みの作戦司令室となっていた。二人は学校指定のカバンを傍らに置き、テーブルの上に広げたノートパソコンの画面を真剣な眼差しで覗き込んでいる。画面に表示されているのは、もちろんあの【怪異ハンター非公式攻略@wiki】だ。
「……やっぱり情報が少ないですね、Tier4 クラスになると」
詩織が心配そうな声で呟いた。彼女の目の前には、半分ほど溶けてしまったクリームソーダのグラスが置かれている。
「ああ。雑魚とはわけが違うってことだろ。そもそも Tier4 にソロで挑むような無謀なプレイヤー自体が少ないんだろうな」
健太はブラックコーヒーを一口すすり、どこか面白がるような口調で言った。その顔に、恐怖や不安の色はない。むしろ、未知の強敵と出会えることへの抑えきれない高揚感が滲み出ている。
あの日、名も知らぬ救済者に命を救われて以来、彼は変わった。慢心は消え、代わりにより純粋で、貪欲なまでの「強さ」への渇望が、彼の魂の中心に宿っていた。彼はもはや自分の力を過信しない。だが、疑ってもいない。正しい知識と、正しい戦略、そして信頼できる仲間がいれば、どんな敵にだって勝てる――今の彼はそう信じていた。
「……それで、今日のターゲットだけど」
彼はノートパソコンの画面を指差した。
「この『人面瘡』ってやつだ。古い病院や学校に出没して、人間の精神に干渉してくる幻術タイプの怪異。物理的な戦闘力は低いが、精神攻撃が厄介らしい。……前の廃病院の奴と、似てるな」
「幻術……。大丈夫でしょうか……?」
詩織の表情が、わずかに曇る。彼女のトラウマを健太はまだ知らない。だが、彼女がその種の敵を苦手としていることは、何となく察していた。
「問題ない。今回はお前が一緒だ。幻術なんかにかかる前に、俺が本体を叩き潰す。……それにだ」
彼はそこで一旦言葉を切ると、少しだけ真剣な、しかしどこか落ち着かない様子で周囲を窺った。そして、声を潜めて続けた。
「……今日の学校での、あの転校生のことなんだが」
「あ……! 神楽坂さんですよね」
詩織も同じことを考えていたらしい。彼女もまた、声を潜めて頷いた。
神楽坂瑠璃。
昨日、突然クラスに現れた美しく、そして異質な少女。健太の隣の席に座る、謎めいた侵食者。
「……あいつ、どう思う?」
「どうと言われましても……。すごく綺麗な方ですけど……少し怖いというか……。健太さん、何かあったんですか?」
「ああ。あったんだよ、大ありだ」
健太は、昨日の放課後、屋上で起こった出来事を詩織に掻い摘んで話した。正体不明の怪異の出現。そして、彼女が何もない空間から光の刃を取り出し、一撃でそれを斬り伏せたことを。
「……ひかりのやいば……」
詩織は息を呑んだ。それは、自分たちが使っている『KAII HUNTER』の能力とは、明らかに質の違う力だ。
「……どう思う? あいつもハンターなんだろうか」
「……分かりません。でも……もしそうだとしたら、私たちとはレベルが違いすぎます。チャットルームで話に聞くランカーさん……とか?」
「かもしれん。だとしたら、かなり格上だ。あの屋上での一撃……。俺が見た中でも尋常じゃなかった。動きに一切の無駄がない。俺たちの戦いが、ただの子供の喧嘩に見えるくらい、洗練された『武術』だった」
健太は悔しげに唇を噛んだ。自分の SSR『念動力』は確かに強い。だがそれは、あくまで才能任せの、力任せの暴力だ。あの瑠璃という少女が見せた「技」の前では、ひどく野暮ったく、そして未熟に思えた。
「……分からないことだらけだ。一体何者なんだ、あいつは……」
「……でも、健太さんの隣の席なんですよね? 何か話したりは……」
「するわけないだろ。あいつ、誰とも喋らねぇんだよ。まるで俺たち人間には興味がないみたいな顔してやがる」
健太は忌々しげに舌打ちした。教室という彼の日常のテリトリーに、突如として現れた、自分以上の力を持つかもしれない謎の存在。その事実は、彼の築き上げてきた万能感を、内側から静かに、しかし確実に蝕んでいくようだった。
「……まあいい。今はあいつのことは忘れろ」
彼は思考を無理やり切り替えるように、頭を振った。
「気を付けた方がいいってのは確かだ。だが、俺たちのやることは変わらない。……よし、じゃあ今日の『狩り』に行くぞ。準備はいいか?」
「は、はい!」
健太の力強い言葉に、詩織もまた、覚悟を決めたように強く頷いた。
その日の夜。
二人は廃校となった古い中学校の校舎にいた。ここが今夜のターゲット『人面瘡』が巣食うと噂の場所だ。
ひんやりとした夜気が、割れた窓ガラスから吹き込み、長い廊下に不気味な風の音を響かせている。軋む床、剥がれ落ちた壁紙、そしてどこからか漂ってくる、甘く腐ったような匂い。
「……嫌な感じですね」
詩織が健太のパーカーの袖を、ぎゅっと掴んだ。彼女は、こういう場所が生理的に苦手なのだ。
「びびってんじゃねぇよ。幻術が来る前に、本体を見つけて叩き潰せばいいだけの話だ」
健太は強がりを言いながらも、その手を振り払うことはしなかった。
彼は慎重に、そして静かに校舎の内部を探索していく。彼の念動力は、すでに戦闘態勢に入っていた。周囲に散乱する机の脚や、鉄製のロッカーの扉などが、彼の意思一つでいつでも凶器と化すように、微かな霊力を帯びてぴりぴりと震えている。
レーダーによれば、本体はこの二階の音楽室にいるはずだ。
二人は息を殺しながら、音楽室の少しだけ開いた引き戸の隙間から、内部の様子を窺った。
――いた。
部屋の中央。一台のグランドピアノの上に、それは座っていた。
一見すると、ただのアンティークの人形のようだ。だが、その顔があるべき場所には、まるで無数の人間の顔が粘土のように溶け合って一つの塊になったかのような、おぞましい「顔」がついていた。その無数の口が、それぞれバラバラに、意味のない歌のようなものをハミングしている。
それが『人面瘡』。
「……キモいなおい」
健太は、生理的な嫌悪感を隠そうともせずに呟いた。
「……健太さん、行きますか?」
「ああ。一気に終わらせる」
健太がドアを蹴破ろうとした、その時だった。
「――ふぅん。ずいぶんと悠長なのね」
その、氷のように冷たく、そしてどこかで聞き覚えのある声に、健太と詩織の身体が同時に凍りついた。
二人は弾かれたように声がした方――廊下の突き当たり、階段の踊り場へと視線を向けた。
そこに、彼女は立っていた。
月の光を背に受け、まるで舞台の上の主役のように。
学校の制服を寸分の乱れもなく着こなした、神楽坂瑠璃。
「……か、神楽坂さん……!? なんでここに……!?」
健太の声が上擦った。なぜだ。なぜこの女がこの場所に。まさか、自分たちをつけてきたのか。
瑠璃は、健太の動揺など全く意に介さない様子で、ゆっくりと、音もなくこちらへと歩いてきた。
「そうやって、いつも二人でコソコソと怪異を狩っているのね。……でも、あまりにも未熟。お粗末と言ってもいいくらいだわ」
その言葉には、明確な、そして絶対的な侮蔑の色が込められていた。
「すぐそこに敵がいるというのに、こうして背後から無防備に近づかれていることにも、全く気づかないなんて」
「……なっ!?」
健太は初めて気づいた。彼女の接近を、自分は全く感知できていなかったのだと。足音も、気配も、霊力の流れすらも。彼女は完全に「無」として、そこに存在していた。
「……あなたは一体……」
詩織が震える声で尋ねた。目の前の少女から発せられる霊圧は、昨夜戦った Tier4 の怪異など比較にならないほどに、濃密で、そして危険なものだった。
瑠璃は、詩織の問いには答えなかった。彼女の目は、ただ健太一人だけを、射抜くように見つめていた。
「……残念だわ、斉藤健太君。あなたの SSR『念動力』。その類稀なる才能には少しだけ期待していたのだけれど。宝の持ち腐れとは、まさにこのことね」
その、あまりにも上から目線の物言いに、健太の心の奥で何かが、ぷつりと切れる音がした。
「……んだと、てめぇ……」
彼の口から、今まで出したこともないような、低い威嚇の声が漏れた。
「何様のつもりだ。あんたに、俺の何が分かる……!」
健太の怒りに呼応するように、周囲の瓦礫がガタガタと激しく震え始めた。
だが、瑠璃はそんな彼の威嚇を、鼻で笑った。
「分かるわよ。あなた達のことなんて、手に取るように。――だって私は、あなた達とは違うもの」
その言葉と共に、瑠璃の姿がふっと掻き消えるように揺らいだ。
「――私は、八咫烏所属の正式なエージェント。あなた達のような“お遊び”で力を振り回している野良のハンターとは、生まれた時から住む世界が違うのよ」
「……やたがらす……?」
健太の口から、聞き慣れない単語が漏れた。
「ええ。日本の全ての異能力者を監視し、管理し、そして時には“処分”する国家組織」
瑠璃は、健太と詩織が動揺しているその僅かな隙を突き、音もなく二人のすぐ目の前まで、その距離を詰めていた。
「そして、あなた達は今、その八咫烏に完全に『監視』されているの。一挙手一投足、全てね」
「……監視されてる……?」
「そう。特にあなたよ、斉藤健太。その分不相応な SSR『念動力』のせいで、あなたは特級の監視対象としてリストアップされた。だから私が、こうしてわざわざあなたのすぐ側まで“会いに来ている”というわけ」
瑠璃の言葉は淡々としていた。だがそれは、健太にとって、あまりにも衝撃的な事実の連続だった。
自分はずっと見られていた。神様気取りでいた自分の愚かな振る舞いの全てを、この女に、そしてその背後にいる巨大な組織に、筒抜けにされていたのだ。
全身の血が、急速に冷えていくような感覚。
「八咫烏については……そうね。あなた達の頭でも理解できるように、簡単に説明してあげる。政府公認の能力者管理団体。そう思っておけば、間違いないわ」
瑠璃は、まるで出来の悪い生徒に教える教師のように、笑みを浮かべた。
「そして今後は、あなた達のその危険な『怪異退治ごっこ』を、私が“直接監督”することに決まったから。光栄に思いなさいな。……さあ、よろしくて?」
その有無を言わせぬ宣告に、健太は何も言い返すことができなかった。
怒り、屈辱、恐怖、そして混乱。彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
「……あら。まだやる気?」
瑠璃は、音楽室のドアを睨みつけたまま警戒を解かない健太を見て、心底おかしいというように、くすりと笑った。
「今日はもう終わりじゃないんでしょう? さあ、次の怪異を狩りに行くわよ。あなた達のそのお粗末な実力を、この目で見定めてあげますから」
その後の「狩り」は、健太にとって屈辱以外の何物でもなかった。
瑠璃を伴い、三人は次のターゲット――Tier4『鎌鼬』がいるという古い神社の境内へと向かった。
『鎌鼬』は風を操り、不可視の真空の刃を放ってくる高速戦闘を得意とする厄介な敵だ。健太は詩織と連携し、防御と攻撃を分担する、先日来の戦術で挑もうとしていた。
だが――。
「――遅い」
健太が念動力で石灯籠を盾として構える、まさにその寸前。瑠璃の冷たい声が響いた。
次の瞬間、彼女の姿は、健太の視界から完全に消えていた。
「!?」
健太がその気配を探す間もなく、神社の境内を一陣の鋭い風が吹き抜けた。
ヒュンッという、空気を切り裂く音。
――そして、それだけだった。
健太と詩織が何が起こったのかを理解した時には、すでに全てが終わっていた。
先ほどまで高速で境内を飛び回っていたはずの『鎌鼬』の気配が、完全に消滅している。そしてその代わりに、瑠璃が神社の拝殿の屋根の上に、まるで黒い鳥のように静かに佇んでいた。その手には、いつか屋上で見た、あの青白い光の刃が握られていた。彼女はその刃についた“見えない血”を払うかのように、一度だけひらりと刀身を振るうと、すっとそれを掻き消した。
「……何が……」
健太の口から、呆然とした声が漏れた。
ほとんど何も見えなかった。彼女がいつ抜刀し、どう動き、そしてどうやって斬ったのか。彼の常人離れした動体視力ですら、その一連の動きを残像として捉えることすら、できなかったのだ。
屋根の上から、ふわりと猫のように軽やかに着地した瑠璃は、そんな健太たちを心底つまらなそうな目で見下ろした。
「……ふぅん。なるほどね」
彼女は、まるで値踏みをするかのように、健太と詩織を、頭の先から爪先までじろじろと眺めた。
「あなた達の力は『借り物』。だから、ほとんど応用が効かない。ただ“与えられた力”を、“与えられた通り”にしか使えない。あまりにも未熟で、直線的すぎるのね」
その言葉は、健太のプライドを木っ端微塵に打ち砕いた。
未熟――その通りだった。自分の、この絶対的だと思っていた力が、この女の前では、まるで子供の玩具のようだったのだ。
「……これは、訓練しがいがありそうだわ」
瑠璃はそう言うと、初めて心からの“楽しそうな”笑みを浮かべた。それは、新しいおもちゃを見つけた無邪気で、そして残酷な子供の笑みだった。
「ふふふふふふ……」
不気味な笑い声が、静かな夜の神社にこだました。
斉藤健太の、人生で初めての完璧なまでの敗北。
そして、彼の誇りを、自信を、その全てをへし折った“瑠璃色の絶望”。
この出会いが、彼の、そして世界の運命を大きく揺り動かすことになる本当の始まりのゴングであったことを、打ちのめされた少年は、まだ知る由もなかった。
ただ、夜空に浮かぶ月だけが、その残酷で美しい光景を、静かに見下ろしていた。




