第26話 社畜と姫君と最悪の配置転換
面倒ごとには二種類ある。
一つは予測可能な面倒ごと。例えば、締切間際の追加業務や、週末の休日出勤命令。これらは腹立たしいが、ある程度心の準備ができるだけマシだ。前世の鈴木太郎は、そういった予測可能な面倒ごとを、すり減らした精神と胃薬でどうにか乗りこなしてきた。
そして、もう一つが予測不可能な面倒ごとだ。例えば、会社の存亡を揺るがす不祥事の発覚や、取引先の社長が夜逃げする、といった類のもの。それはある日突然、何の前触れもなく、こちらの都合など一切お構いなしに、日常を蹂躙しにやってくる。
今の鈴木太郎(の姿を借りた式神)にとって、まさに「それ」が起ころうとしていた。
その日の午後、鈴木班の三人は、八咫烏本部の薄暗い廊下を、烏沢の執務室へと向かって歩いていた。
「うー、それにしても眠い……。昨日、ネットで新しい『怪異ハンター』の目撃情報が出てないか、夜中まで探しちゃいましたよ」
日向葵が、大きな欠伸をしながら愚痴をこぼした。
「無茶はするなと言ったはずだ、葵。休むのも仕事のうちだぞ」
「だってー、気になるじゃないですか! 私たちが把握してないプレイヤーが、まだゴロゴロいるってことでしょ? なんか宝探しみたいで、ワクワクしません?」
「……しません」
最後尾を歩いていた長谷谷蓮が、真顔で、しかしきっぱりと答えた。彼の両脇には、分厚い報告書の束が、まるで盾のように抱えられている。そのほとんどを作成したのは彼だった。鈴木は口頭で報告内容を指示しただけである。――まさに理想的な上司と部下の関係が、ここにはあった。
そんないつもと変わらない気の抜けたやり取り。それが烏沢の執務室のドアを開けた瞬間、ぴたりと止まった。
部屋の空気は、いつも以上に冷たく、そして張り詰めていた。烏沢はいつものようにデスクに腰掛けていたが、その表情は硬い。
そして、そのデスクの前。窓の外の灰色の都会の風景を背にして、一人の少女が、まるでそこだけ異次元であるかのように、静かに佇んでいたのだ。
美しい少女だった。非の打ち所のない、人形のような美貌。――だが、鈴木班の三人が息を呑んだのは、その美しさに対してではなかった。彼女の全身から発せられる、尋常ではない「圧」。それは今まで対峙してきたどんな怪異とも違う、研ぎ澄まされた刃物のような、近寄りがたい霊圧だった。
Tier3 エージェントである葵ですら、本能的に喉がひりつくような感覚を覚えていた。蓮に至っては、完全に気圧され、身体が硬直してしまっている。
(……なんだこいつは……?)
鈴木だけが顔色一つ変えず、その少女を冷静に観察していた。間違いなくただ者ではない。その歳で、これほどの霊力を完全に制御下に置いている。八咫烏のデータベースには、該当するエージェントはいなかったはずだが。
「――来たかね」
烏沢が、重々しい口調で言った。
「今日から君たちのチームで預かってもらう人物を紹介する」
彼はデスクの前の少女へと、顎をしゃくった。
少女はゆっくりとこちらへ向き直ると、まるで皇族がお辞儀でもするかのように、寸分の狂いもない完璧な角度で頭を下げた。
「神楽坂瑠璃と申します。以後、お見知り置きを」
その声は、鈴を転がすように美しく、しかし絶対零度の氷のように、一切の感情を宿していなかった。
「かぐらざか……?」
葵が、その聞き覚えのある名前に、怪訝な声を上げた。
「彼女は日本退魔師協会の中でも五指に入る名門・神楽坂家の、次期当主候補だ。今回は協会からの『出向』という形で、我々の任務に協力してもらうことになった」
「た、退魔師協会から!?」
葵の驚愕の声が、静かな部屋に響き渡った。蓮も、信じられないというように目を見開いている。八咫烏と退魔師協会。――それは例えるなら、警察庁と宮内庁。協力関係にはあるが、その成り立ちも思想も、そして管轄も、まったく異なる水と油のような組織だ。その協会の、それも名門中の名門の姫君が、なぜ八咫烏の一分隊に?
異例中の異例の人事だった。
葵と蓮が、その衝撃の事実に混乱している、その一方で。
鈴木太郎は、別の、もっと個人的で、そして遥かに深刻な衝撃に襲われていた。
神楽坂瑠璃。
その名前と、その顔。
彼の本来の持ち主である「土御門晴明」の、赤子の頃の記憶の奥底から、一つの光景が鮮明に蘇ってきていた。
あれは彼が生後半年にも満たない頃。「天命拝覧の儀」で、その規格外の神才を世に知らしめた後のことだった。歴史の転換点を目の当たりにした退魔師協会の重鎮たちは、赤子の彼を、もはやただの跡継ぎとしてではなく、生ける神、現人神として崇め奉り、次から次へと拝謁に訪れた。
その、まるで披露宴のように延々と続く謁見の列の中に、それはいた。
大人たちに交じり、年の頃は五、六歳であろうか。美しい着物に身を包み、緊張した面持ちで、しかし背筋だけは凛と伸ばして自分を見つめていた、一人の幼い少女。その大きな瞳には、恐怖と畏敬、そしてほんの少しの対抗心のような、複雑な光が宿っていた。その少女こそが、退魔師協会の重鎮たちが次代を担う天才として、自慢げに彼に引き合わせた、神楽坂家の姫君だったのだ。
――目の前にいる、この女だ。
(……クソが。……よりにもよって最悪の駒を引きやがった……)
鈴木の内心は、荒れ狂う嵐のようだった。だが彼のポーカーフェイスは完璧だった。眉一つ動かさず、ただ目の前の少女を、まるで初めて見る得体の知れない存在であるかのように、冷ややかに見つめ返す。
(……こいつは俺の“本体”の顔を知っている。数は少ないが、確実に知っている人間の一人だ。そんな奴が、なぜ今ここにいる……!? 退魔師協会も、あのクソアプリに本格的に興味を示し始めたってことか……!?)
次から次へと最悪の憶測が、彼の頭をよぎる。平穏なスローライフ計画が、音を立てて崩壊していく耳障りなノイズが聞こえるようだった。
幸いというべきか。瑠璃の方は、鈴木の顔を見ても何の反応も示さなかった。――まあ当然だろう。彼女の記憶の中の「土御門晴明」は、神々しい霊気に包まれた神聖不可侵の赤子のはずだ。目の前にいる、この死んだ魚のような目をした、くたびれたスーツ姿の三十路男と、その記憶が結びつくはずもなかった。
「……それで係長」
鈴木は内心の動揺を完璧に押し殺し、あくまで冷静な部下としての口調で、烏沢に問いかけた。
「そのお姫様が俺たちのチームに、一体何の御用です? 悪いですが、俺たちは今、例の『怪異ハンター』の件で、猫の手も借りたいくらい手が離せんのですがね」
その、あからさまに厄介者扱いする物言いに、瑠璃の柳眉がぴくりと微かに動いたのを、鈴木は見逃さなかった。
烏沢は、そんな二人の間の見えない火花など意にも介さない様子で、淡々と説明を始めた。
「無論、その件での協力だ。彼女には、ある特務を命じる」
彼はデスクのモニターを操作した。壁のスクリーンに、斉藤健太の無防備な学生証の顔写真が、大きく映し出される。
「最重要監視対象――コードネーム『サイコ・キッド』こと斉藤健太。彼の在籍する私立 K 高校。ここに神楽坂君には、転校生として潜入してもらう」
「……潜入?」
「うむ。我々が外部から張った監視網では、彼の学園生活という最もプライベートな領域までは把握しきれん。彼が学校という閉鎖空間で、その能力をどう使っているのか。あるいは、他のプレイヤーと接触している可能性はないのか。――そして何より、彼の人格・思想、その危険性を、内側から最も近い場所で探る必要がある。そのための『目』として、彼女には動いてもらう」
(……なるほどな。協会のエリートをスパイとして使うと。相変わらず、えげつないこと考えやがるな、このカラス野郎は……)
鈴木は、烏沢の非情で合理的な采配に、ある種の感心すら覚えていた。
「……理解しました」
瑠璃が、静かに頷いた。
「対象に接触し、その能力と危険性を査定。必要であれば、無力化も視野に入れる。……そういうことでよろしいですね?」
「話が早くて助かるよ」
「それで、私たちの役割は?」と葵が尋ねた。
「君たち鈴木班は、これまで通り、彼女の後方支援および都内における他のプレイヤーの調査を続行する。あくまで今回の潜入任務の主体は、彼女一人だ」
その言葉は暗に、この任務の主導権が新入りの彼女にあることを示唆していた。
葵が「えー」と、少しだけ不満げな声を上げた。面白くないという感情が、その顔にはっきりと書いてある。
蓮はただ黙って、このとんでもない経歴を持つ新メンバーの顔を、緊張した面持ちで見つめているだけだった。
こうして、鈴木班への神楽坂瑠璃の一時的な配属は決定した。
紹介と簡単な打ち合わせを終え、執務室から解放された一行は、再び薄暗い廊下を、自分たちの待機室へと向かっていた。四人の間には、どこか気まずく、ぎこちない沈黙が流れていた。
「……改めまして」
最初にその沈黙を破ったのは、瑠璃だった。彼女は前を歩く鈴木の背中に、あくまで事務的な口調で話しかけた。
「鈴木特務官と伺っております。以後、よしなにお願い申し上げます」
その、あまりにも慇懃無礼な態度。丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その声には、八咫烏の――しかも経歴も素性も知れない男の下に付くことへの、隠しようもないプライドと反発心が、棘のように含まれていた。
(……はいはい。来たよ、一番面倒くさいタイプの新人が)
鈴木は内心で、本日何度目かになる深いため息をついた。前世の会社にもいた。やたらと学歴や家柄を鼻にかける、プライドだけはエベレスト級の新人。こういうタイプは、下手に刺激すると拗ねて全く仕事をしなくなるか、あるいは勝手な行動で全てを台無しにするかのどちらかだ。
「ああ。よろしく」
鈴木は振り返りもせず、極めて短い返事だけを返した。彼もまた、これ以上この女と関わりたくないという意思表示を、明確に示したのだ。
二人の間に、早くも見えない火花が散る。
そんな一触即発の空気を読めない(あるいは、あえて読まない)のが、日向葵という女だった。
「よろしくね、瑠璃ちゃん! 私、日向葵! こっちは長谷川蓮君! わー、瑠璃ちゃん、すっごい美人さんだねー! しかも私より年下でしょ? これで私にも、やっと後輩ができたー!」
彼女は満面の笑みで、瑠璃の肩を馴れ馴れしく叩いた。その、あまりにも天真爛漫な振る舞いに、瑠璃の眉がわずかにひそめられる。
「……な、馴れ馴れしく……っ」
「いいじゃん、細かいことは! これから同じチームなんだし! 敬語もいらないよ! ね、蓮君!」
「え、あ、は、はい……!」
突然話を振られた蓮が、慌てて背筋を伸ばす。
その、あまりにも八咫烏らしくない体育会系のノリ。退魔師協会の厳格で格式張った世界で生きてきた瑠璃にとって、それは生まれて初めて経験するカルチャーショックだった。彼女はどう反応していいか分からず、ただ困惑したように、その場に立ち尽くすしかなかった。
その光景を、鈴木は少しだけ離れた場所から、冷めた目で眺めていた。
(……まあ、こいつの教育係は葵にでも丸投げすりゃいいか)
彼は、早々に自らの責任を放棄することを決意した。
――だがその時。
彼の背中に、再びあの氷のような声が突き刺さった。
「――鈴木特務官」
「……なんだ」
「一つ、よろしいでしょうか」
瑠璃の声は、もはや先ほどのような、ただの反発心を含んだものではなかった。そこには、明確な、そして鋭い「刃」のような響きがあった。
「貴方のその霊力……。どこかで感じたことがあるような気がするのですが」
その言葉に、鈴木の足がぴたりと止まった。
彼の背中を、嫌な汗が一筋流れ落ちる。
(……こいつ……。まさか……)
「気のせいだろう」
彼は振り返らずに、感情を殺した声で、そう答えるのが精一杯だった。
「私も、貴方のようなくたびれたサラリーマンの霊気など、記憶にございませんからな。……ですが」
瑠璃は意味深に、そこで言葉を切った。
「貴方の魂の“質”……。その根源にあるものは、どういうわけか、私が知るただ一人の御方のそれに酷似している。……実に興味深い」
その言葉は、もはやただの偶然ではなかった。明確な「探り」。彼女は、目の前の男の正体に、本能レベルで何かを嗅ぎつけている。
鈴木は、ゆっくりと、本当にゆっくりと振り返った。
そして、目の前の美しく、そして危険極まりない姫君の顔を、初めて真正面から見据えた。
「……悪いが、お姫様の人違いごっこに付き合ってる暇はねぇんだ。俺たちは仕事中なんでな」
それは明確な拒絶であり、そして、これ以上踏み込むなという警告だった。
二人の視線が空中で激しく交錯する。火花が散るような濃密な沈黙。
その息の詰まるような空気を破ったのは、やはり空気が読めない天才・日向葵だった。
「あれー? なんですか二人ともー? そんなに見つめ合っちゃってー。もしかして、一目惚れとかですかー? いやーん、職場恋愛!」
「「…………」」
その、あまりにも場違いな一言に、鈴木と瑠璃の間に流れていた殺伐としたオーラが、一瞬で霧散した。
鈴木は心の底から、深々と、そして果てしなく面倒くさそうな、今日一番の深いため息をついた。
最悪だ。
今日という一日は、本当に最悪だ。
彼の平穏な社畜ライフに、最大の「面倒の種」が、今まさに植え付けられた瞬間だった。
そしてこの種が、やがて彼の秘密を、そして世界の運命をも揺るがす、巨大な大樹へと成長していくことになるということを、彼はまだ想像すらしていなかった。
ただひたすらに家に帰って、昨日買ったばかりの漫画の続きを読むことだけを、心の底から願っていた。




