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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第25話 灰色の教室と瑠璃色の侵食者

 斉藤健太の朝は、もはや灰色ではなかった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日ですら、昨夜の戦いの勝利を祝福するスポットライトのように感じられた。スマートフォンのけたたましいアラーム音は、新たな一日、新たな「レベル上げ」の始まりを告げる、胸躍るファンファーレだ。


「……ん……」


 彼はベッドの上で大きく伸びをすると、身体の節々が心地よく軋むのを感じた。昨夜、詩織と共に Tier4 クラスの怪異「鋼鉄イノシシ」を仕留めた際の、かすかな筋肉痛。――それは、かつての気怠い目覚めとはまったく違う、充実感に満ちた確かな「生」の証だった。


 灰色の日常は、完全に塗り替えられた。

 昼間は凡庸な高校生・斉藤健太として、この世界の表側を退屈そうに歩く。だが夜になれば、彼は SSR「念動力」を操り、世界の裏側で人知れず悪を狩る、孤高のハンターへと変貌する。


 この二重生活のスリル。誰にも知られていないという優越感。日に日に強くなっていく自分自身への、揺るぎない全能感。


 学校へ向かう満員電車も、もはや苦痛ではなかった。吊革に掴まりながら、彼はイヤホンで音楽を聴くふりをして、ポケットの中のスマートフォンを操作する。目的地は裏サイト「奈落の淵」。そこで繰り広げられる、血生臭くも刺激的な「狂人ランカー」たちの会話を眺めるのが、彼の最近の日課となっていた。


 NoName:『瀕死だった新人か? 生きてたんだな』


 チャットログの中に、あの夜の書き込みを見つけた時、健太の心臓がわずかに跳ねた。あの名も知らぬスキンヘッドの救済者。彼もまた、この「奈落の淵」の住人なのだ。


 KENTA:『……はい。その節はありがとうございました』

 NoName:『礼はいらん。だが、お前、あの後かなり腕を上げたようじゃねぇか。噂になってるぜ、“東亰エリアに現れた超新星スーパールーキー”ってな』


 その言葉に、健太の口元が思わず綻んだ。――見られている。この修羅の巷の猛者たちに、自分の存在が確かに認識されている。その事実が、彼の自尊心をくすぐった。


 学校の教室のドアを開けても、彼の高揚感は続いていた。


「おはよー斉藤」

「おう」


 クラスの友人たちが、いつも通りに声をかけてくる。健太も、いつも通りに気だるげな返事を返す。彼らには見えていない。彼の魂が今、どれだけ輝き、そしてどれだけ危険な光を放っているのか。その絶対的な隔絶が、彼を孤独にさせると同時に、心地よい優越感に浸らせていた。


 今日の授業も退屈の極みだった。古典の教師が、抑揚のない声で古文の助動詞の活用を説明している。クラスの半分は、すでに眠りの世界へと旅立っていた。


 健太も机に頬杖をつきながら、窓の外の青空をぼんやりと眺めていた。だが、彼の頭脳はフル回転していた。昨夜の「鋼鉄イノシシ」戦の反芻。あの突進を、もっと効率的にいなす方法はなかったか。詩織の治癒に頼らず、無傷で倒すためのシミュレーション。彼の頭の中では、すでに次の戦いが始まっていた。


 彼は、誰にも気づかれないように、足元の床に落ちていた消しゴムの欠片に意識を集中させた。欠片が音もなく、ふわりと浮き上がる。彼はそれを教室内で自在に飛ばし、眠っている生徒の鼻先をかすめさせたり、教師の禿げ上がった後頭部ギリギリを通過させたりして、一人ほくそ笑んでいた。――これが今の彼に許された、昼間の世界でのささやかな神様ごっこだった。


 灰色の教室。退屈な授業。愚かなクラスメイトたち。

 その全てが、彼の力の前に、あまりにもちっぽけで滑稽に見えた。


 その平穏で退屈なはずだった日常に、最初の亀裂が入ったのは、二時間目の現国の授業が始まる、まさにその時だった。


 担任教師が、少しだけ興奮したような面持ちで教室に入ってきた。


「おーい、静かにしろー。ホームルームには少し早いが、皆に紹介したい人物がいる」


 その言葉に、眠っていた生徒たちもむくりと起き上がり、教室がざわめき始める。なんだなんだ。何かあったのか。


「――今日からこのクラスに、新しい仲間が増えることになった。転校生だ。さあ、入ってくれ」


「転校生」という単語に、クラスの空気は一気に沸点に達した。特に男子生徒たちの目が、期待と下心でいやらしく輝き始める。健太も、まあ多少は興味を惹かれた。この代わり映えのしない日常に舞い込む新しい登場人物。――それがどんな人間なのか。


 教室の前のドアが、ゆっくりと開かれた。

 そしてそこに現れた人物を前にして、健太を含めた教室中の全ての人間が、時が止まったかのように息を呑んだ。


 ――美しい、と思った。


 ありきたりで陳腐な言葉。だが、健太の語彙力ではそれ以外の表現が見つからなかった。


 そこには、一人の少女が立っていた。

 腰まで届くのではないかと思われる、濡れた夜の闇をそのまま切り取ったかのような艶やかな黒髪。完璧なストレートの髪が、彼女の動きに合わせて、しっとりと揺れている。


 肌は、まるで上質な白磁のように、透き通るような白さ。健康的な肌の色とは違う、どこか人間離れした神聖さすら感じさせる白。


 そして何よりも目を引いたのは、その顔立ちだった。涼しげで、少しだけ吊り上がった切れ長の瞳。通った鼻筋。薄い桜色の唇。――そのどれもが、まるで熟練の職人が精魂込めて作り上げた芸術品のように、完璧なバランスで配置されている。


 だが、その完璧すぎる美貌には、人間特有の「揺らぎ」がほとんど感じられなかった。彼女は教室中の好奇と驚嘆、そして欲望の視線を一身に浴びながらも、その表情を一切変えることなく、ただ静かに、まっすぐに前を見据えていた。――まるで能面のように。


「えー、彼女は神楽坂かぐらざか瑠璃るりさんだ。海外から戻ってきたばかりでな。皆、仲良くしてやってくれ」


 担任教師の、少し浮ついた声が静寂を破った。

 神楽坂瑠璃。――その、まるで物語の中から抜け出してきたかのような雅やかな名前が、教室の空気に不思議な響きをもって溶けていった。


「神楽坂です。よろしくお願いします」


 凛とした、鈴を転がすような、しかし一切の感情を排した声。彼女はぺこりと、完璧な角度で頭を下げた。その、あまりにも洗練された所作に、健太は形容しがたい違和感を覚えた。


「じゃあ神楽坂さんの席は……っと。ああ、あそこが空いてたな。斉藤の隣だ。すまんが、そこで頼む」


 担任のその言葉に、健太の心臓がどきりと大きく跳ねた。――嘘だろ。


 彼の席のすぐ隣、窓際の一番後ろという、彼が最も気に入っている特等席。その隣は、前の生徒が転校してから、ずっと空席のままだったのだ。


 瑠璃と呼ばれた転校生は「はい」と短く答えると、音もなく健太の席の方へと歩いてきた。その歩き方一つ取っても、彼女は異質だった。背筋が、まるで一本の鋼の杭でも入っているかのように微動だにせず伸びている。足音はほとんどしない。――まるで床の上を滑っているかのようだ。


 クラス中の視線が、健太と、その隣の席に突き刺さるように集中する。

 瑠璃は健太の隣の椅子を引くと、静かに腰を下ろした。そして、彼の方を一瞥だにした後、すぐに興味を失ったかのように、正面の黒板へと向き直ってしまった。


 ふわりと、彼女の黒髪から、白檀のような古風で、そして少しだけ心を落ち着かせる香りが漂ってきた。


(……なんだこいつ……)


 健太は息を殺しながら、すぐ隣に座る侵入者の横顔を盗み見た。――ただの美少女ではない。何かが違う。


 健太がこの一ヶ月で培ってきた、常人離れした鋭敏な知覚が、彼女という存在に対して、警鐘を鳴らしていた。


 その違和感の正体は、すぐに、健太が思ってもみなかった形で明らかになっていった。

 例えば、三時間目の体育の授業。今日の科目は選択制の武道。健太は、運動が苦手な生徒が集まる剣道のクラスを選んでいた。


「はーい、じゃあ今日は基本の打ち込みからなー。二人一組で、交代でやってくれー」


 気の抜けた体育教師の声。生徒たちもだるそうに竹刀を構える。防具の面の中から、生臭い汗の匂いが鼻をついた。健太は、ただこの苦痛な時間が一秒でも早く終わることだけを祈っていた。


 その、汗と気怠さが充満する武道場の中で、彼女だけが、やはり異質だった。

 神楽坂瑠璃も、同じ剣道のクラスを選択していた。彼女がサイズの合わない、ぶかぶかの道着を身にまとい、竹刀を構えた瞬間――武道場の空気が、ぴりと凍りついたように、健太には感じられた。


 彼女の構えは完璧だった。いや、完璧という言葉ですら生温い。まるで、何十年もこの道を究めた達人のような、一切の隙がない「型」。


 彼女と組むことになった、少しチャラチャラした雰囲気の男子生徒が、へらへらと笑いながら、教科書通りに「めーん!」と叫び、大振りの竹刀を振り下ろす。


 その、素人目にも分かる緩慢な一撃。

 瑠璃はそれを、最小限の、ほとんど目にも止まらぬ動きで、すり抜けるようにして回避した。そして、カウンターで放たれた彼女の竹刀は、まるで鞭のようにしなり、男子生徒の胴の部分に、シュッという鋭い風切り音と共に、吸い込まれるように叩き込まれた。


「――ごふっ!?」


 男子生徒の口から、蛙が潰れたような声が漏れる。彼はその場に崩れ落ち、本気で呻き声を上げていた。


 武道場が、一瞬だけ、しんと静まり返る。


「……す、すごい……」


 誰かが呆然と呟いた。

「神楽坂さん、剣道経験者なのか!?」「ヤバくね? 今の動き、達人じゃん!」


 クラスメイトたちは、ただ彼女の圧倒的な強さに興奮し、賞賛の声を上げていた。


 ――だが、健太だけは違うものを見ていた。


(……今のは剣道じゃない)


 彼は、テレビで見た古武術の演武を思い出していた。一撃必殺。無駄を削ぎ落とした、殺すための動き。今、彼女が見せたのは、間違いなくそちら側の「本物」の技術だった。


 なぜ、一介の高校生が、あんな動きを?

 そして何より、健太を震え上がらせたのは、その時の彼女の瞳だった。相手を打ち倒したというのに、その瞳には喜びも達成感も、一切の色が浮かんでいない。――ただ、氷のように冷たい光を宿して、崩れ落ちた相手を、まるで道端の石ころでも見るかのように見下ろしているだけだった。


 健太はその時、確信した。

 こいつは、俺と同じだ、と。

 ――いや、違う。俺よりも遥かに深い、世界の「裏側」にいる人間だ。


 その日一日、健太は神楽坂瑠璃という存在から、目が離せなかった。

 彼女は休み時間、誰とも話すことなく、ただ静かに読書をしていた。その本のタイトルを、彼は盗み見たことがある。『日本刀の鍛錬技法について』。――女子高生が読む本ではなかった。


 昼食は、一人で屋上で食べているらしい。

 彼女の周囲には、まるで目に見えない壁があるかのように、誰も近づくことができなかった。


 そして、健太の鋭敏になった五感は、常に彼女の腰の辺りから発せられる、微かで、しかし確かな「気配」を捉え続けていた。――それは、長細い刀のような「何か」の気配。もちろん物理的には、彼女は何も持っていない。制服のスカートの下に日本刀を隠せるはずもない。だが、気配は確かにそこにあるのだ。


(……こいつもプレイヤーなのか……?)


 健太の頭を、その可能性がよぎる。だとしたら、一体どんな能力を?


 彼は授業中、こっそりと、本当に微弱な、誰にも気づかれないレベルの念動力を、彼女に向けて放ってみた。――彼女の髪を、ほんの少しだけ揺らす程度の、ささやかな悪戯。


 その瞬間。

 ぴくり、と。彼女の肩が微かに震えた。そして、その切れ長の瞳が、一瞬だけ、まるで射抜くかのように鋭く、健太の方へと向けられた。



(――気づかれた!?)


 健太の背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。嘘だろ。あんな「そよ風」にも満たないような微弱な力の行使を、彼女は正確に感知してみせたのだ。


 瑠璃の目は、すぐに興味を失ったかのように、正面の黒板へと戻っていった。だが健太には分かった。――彼女は間違いなく、自分の力の存在に気づいたのだと。


 その日の放課後。

 健太はいつものように部活には顔を出さず、まっすぐに屋上へと向かっていた。今日の狩り場と戦略を確認するためだ。だが、彼の頭の中は、神楽坂瑠璃という謎の転校生のことで、ほとんど埋め尽くされていた。


(……一体、何者なんだ、あいつは……)


 考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。


 彼は金網のフェンスに寄りかかり、スマートフォンの怪異レーダーを起動した。今日のターゲットは Tier4 の「鎌鼬かまいたち」。高速で移動し、真空の刃を放ってくる厄介な敵だ。詩織との連携が重要になるだろう。


 彼が、そんなことを考えていたその時だった。


「――いい眺めね。ここ」


 鈴を転がすような、しかし感情のない声に、健太の心臓が大きく跳ね上がった。

 振り返ると、そこに神楽坂瑠璃が立っていたのだ。――いつの間に? 足音一つ、気配一つ、感じられなかった。


「……か、神楽坂さん……。どうしてここに……」


「別に。ただ、風に当たりに来ただけ」


 彼女はそう言うと、健太の隣に、何気ない様子で立った。二人の間に、気まずい沈黙が流れる。健太はどう話していいか分からず、ただ眼下に広がる夕暮れの街並みを眺めることしかできなかった。


 ――この沈黙を破らなければ。何か話さなければ。

 だが何を? 天気の話か? テレビの話か? そんなありきたりの会話が、この異質な少女に通じるとは、到底思えなかった。


 彼は無意識のうちに、ポケットの中のスマートフォンをぎゅっと握りしめていた。――いざとなれば、いつでも力を使えるように。


 その健太の微かな緊張を見透かしたかのように、瑠璃は、ぽつりと呟いた。


「――あなた、何を隠しているの?」


 その言葉は静かだった。だが、健太の心の最も深い場所に、鋭利な刃物のように深々と突き刺さった。


(……バレてる)


 この女には、全てお見通しなのだ。

 健太は観念した。もはや誤魔化しは効かない。ならば、こちらも同じ世界の住人として、対等に渡り合うしかない。


 ――だが、彼が何かを言い返す前に、事態は、彼が予想もしなかった方向へと急展開を遂げることになる。


「グルルルル……」


 低い、獣のような唸り声。

 健太と瑠璃は、同時にはっとした。声は屋上の給水塔の影から聞こえてくる。


 そこから、ゆっくりと一体の異形が姿を現した。

 ボロボロの学生服を身にまとった、人型の怪異。その身体のあちこちが腐り落ち、空ろな目が、憎悪に満ちた光で二人を睨みつけている。


 Tier5 の「亡霊生徒」。学校という場所に憑りついた、成仏できない生徒の霊が、他の邪な気を取り込んで怪異と化した、最もありふれた雑魚の一体。


 ――なぜ、こんな場所に? レーダーには何の反応もなかったはずだ。


「……チッ。結界を張って気配を隠していたのか。小賢しい真似を」


 瑠璃が忌々しげに舌打ちした。――その口調は、もはや猫を被った転校生のものではなかった。


 亡霊生徒は、甲高い奇声を発すると、その腐りかけた腕を振り上げ、近くにいた瑠璃へと襲いかかった。


「――神楽坂さん、危ない!」


 健太は叫んだ。彼は咄嗟に、彼女を助けなければという一心で、念動力を発動させようとした。一般人である(と彼はまだ思い込もうとしていた)彼女を危険に晒すわけにはいかない。ここで力を使えば、秘密がバレてしまう。――だが今は、そんなことを言っている場合ではない。


 しかし、瑠璃は少しも慌てていなかった。

 彼女は迫り来る怪異の爪を、まるでスローモーションの映像でも見るかのように、冷静に見据えていた。


 そして、健太にだけ聞こえるような、小さな小さな声で呟いた。


「――どうして、本気を出さないの?」


 その言葉の意味を、健太が理解するよりも速く。

 世界は、瑠璃を中心に、その法則を書き換えた。


 すっと。

 彼女が何もない空間へと差し出した右手に、まるで最初からそこにあったかのように、一本の美しい日本刀が出現したのだ。


 それは物質ではない。青白い半透明の光が、刀の形を成している。常人には決して見ることのできない、純粋な霊力の刃。だが、その刃の存在を、健太の鋭敏になった知覚は、明確に、そして圧倒的な現実として捉えていた。


 瑠璃はその光の刃を、まるで自分の身体の一部であるかのように、滑らかに、そして淀みなく構えた。

 ――そして、一閃。


 彼女の身体が、一瞬だけ淡い残像を描いた。

 次の瞬間、襲いかかってきていた亡霊生徒は、その動きを完全に止め、その身体のちょうど真ん中に、一本の綺麗な光の線が走っていた。


 怪異は抵抗する間もなく、その光の線に沿って左右に真っ二つに分かれ、塵となって、音もなく消滅していった。


「…………」


 健太は、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 あまりにも速く。あまりにも美しく。――そして、あまりにも圧倒的な一撃。


 自分の「物を動かす」だけの、どこか泥臭い戦い方とは、まったく次元の違う、洗練され尽くした「武」の極致。


 光の刃を掻き消した瑠璃は、ゆっくりと健太の方へと向き直った。

 その涼しげな瞳は、もはや何の感情も隠そうとはしていなかった。そこにあるのは、冷徹なまでの「値踏み」の色。――まるで、興味深い観察対象を見るかのような、無機質な光。


「――斉藤健太君、だったかしら」


 彼女の声は、氷のように冷たかった。

「あなたのその『力』。なかなか興味深いわね」


 その言葉は、紛れもなく彼が「プレイヤー」であることを、完全に見抜いた上での発言だった。


「――明日から、よろしく」


 彼女はそれだけを一方的に言い残すと、健太に背を向け、屋上の出口へと静かに歩いていった。


 残された健太は、ただ一人、夕暮れの屋上で立ち尽くすしかなかった。


 灰色の教室に現れた、瑠璃色の侵食者。

 彼女の出現によって、彼の日常と非日常を隔てていた曖昧で心地よい境界線は、もはや完全に崩れ去ってしまったことを、彼は悟っていた。


 ――自分の日常が、もはや後戻りのできない場所まで来てしまったのだ、と。

 そしてこの出会いが、彼の、そして世界の運命を大きく揺るがすことになる「始まりの号砲」であったことを、彼はまだ知る由もなかった。

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