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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第23話 灰色の覚醒と名も無き救済者

 闇。

 どこまでも深く、冷たい、絶対的な無の闇。


 死とはこういう感覚なのだろうか。斉藤健太の意識は、底なしの沼に沈んでいく石ころのように、ただ静かに、ゆっくりと落ちていった。


 痛みも、熱も、恐怖も、もはやない。最後に脳裏に浮かんだのは、灰色の天井と、シーツに広がっていく真っ赤な染みの、あまりにも現実的な光景だった。


(……なんだよ、結局……。俺の人生、こんなもんかよ……)


 手に入れたはずの特別な力。色づき始めたはずの輝かしい世界。その全てが幻だったかのように遠ざかっていく。結局、自分は何も変われなかった。調子に乗って、身の程も知らずに非日常に首を突っ込んで、呆気なく死んでいくだけの、ただの馬鹿な高校生。


(……母さん……父さん……)


 家族の顔がぼんやりと浮かんで消える。ごめんなさいとも、ありがとうとも、彼の声は届かない。意識が霧散していく。


 ――終わった。


 だが。

 その全てが無に帰す、まさにその寸前。彼の意識の闇の中に、ぽつりと、一つの小さな光が灯った。


 それは温かい光ではなかった。むしろ、鋭く暴力的で、有無を言わせぬほどの圧倒的な光。まるで暗闇をこじ開けるかのように、その光は急速に彼の意識全体を飲み込んでいった。


「――……ん……」


 健太の唇から、かすれた呻きが漏れた。

 重く、鉛のように固まっていた瞼が、ゆっくりと、しかし確かな意思を持って開かれていく。


 最初に目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の灰色の天井だった。


(……生きてる……?)


 混乱する思考。彼はゆっくりと、恐る恐る自分の身体を起こそうとした。


 ――痛くない。

 脇腹を貫いたはずの、あの灼けるような激痛が嘘のように消え失せている。彼は自分のパーカーに手を伸ばし、それを捲り上げた。そこには、血で汚れてはいるが、傷一つない滑らかな皮膚があるだけだった。突き刺さっていたはずの鉄の杭も、どこにもない。


 一体何が。

 夢でも見ていたのだろうか。だが、ベッドのシーツにべったりと付着した、おびただしい量の黒ずんだ血の痕が、あれが紛れもない現実であったことを雄弁に物語っていた。


「……よう、目が覚めたか坊主」


 その低く、そしてどこか凄みのある声に、健太の身体がびくりと跳ねた。

 彼は声がした方――部屋の隅、学習机の椅子に、いつの間にか腰掛けていた一人の男の姿を、初めて認識した。


「……だ、誰だ……あんた……」


 健太の声は恐怖でかすれていた。部屋には鍵をかけていたはずだ。窓も閉まっている。だというのに、この男は、まるで最初からそこにいたかのように、当たり前の顔で座っていたのだ。


 男は年の頃は三十代半ばだろうか。鍛え上げられた岩のような体躯。くたびれた革ジャンを羽織り、その下には無地の黒いTシャツ。

 そして何より目を引くのは、綺麗に剃り上げられたスキンヘッドだった。その頭には、古いものだろうか、龍の刺青が首筋から頭頂部にかけて這うように彫り込まれている。

 その風貌は、カタギの人間のものではなかった。裏社会の人間か、あるいは――。


 男はそんな健太の警戒など意にも介さず、やれやれと首を振りながら立ち上がった。


「ふぅー……。まあ、ギリギリ間に合ったみてぇだな。たまたま俺がお前さんのSOSを見てなきゃ、今頃お前は冷たくなってたぞ?」


 その言葉に、健太ははっとした。


(……まさか。あの裏サイトの……)


『――座標を送れ。三分で行く』

 あの絶望の淵で見た、たった一筋の光。この男が、あの書き込みの主なのか。


「……説教なんざ俺の柄じゃねぇがな」


 男は健太のベッドの脇まで来ると、仁王立ちになって彼を見下ろした。

 その鋭い目つきは、まるで猛禽類が獲物を品定めするかのように、健太の全身を射抜いていた。


「……一つだけ聞かせろ。なんであんなザマになった?」


 その問いに、健太は何も答えられなかった。ただ俯くことしかできない。悔しさと情けなさと、そして圧倒的な実力差を前にした無力感が喉の奥に詰まって、言葉にならなかった。


「……すいません」


 ようやく絞り出したのは、そんなか細い謝罪の言葉だけだった。


「……油断してました。Tier5の雑魚だからって、完全に舐めてて……。あんな奴らに負けるなんて……」


 彼の声は震えていた。それはもはや恐怖からくる震えではなかった。自らの愚かさに対する、底なしの自己嫌悪からくる悔しさの震えだった。


 男は黙って健太の言葉を聞いていた。やがて彼は、ふっとどこか呆れたように息を吐いた。


「……そうかよ。まあ、誰でも通る道だ」


 意外なほど、その声は穏やかだった。


「で? お前の仲間はどうした。チャットルームで治癒能力者と組んでるって、自慢げに書き込んでたじゃねぇか」


 その言葉に、健太はさらに顔を伏せた。


「……はい。彼女は今日は家の用事で休みで……。俺が、一人で大丈夫だって勝手に……」


「……で、このハメになったと。はっ、笑わせるな」


 男は鼻で笑った。


「良いか坊主。このゲームはな、パーティープレイが基本なんだよ。どんなに強力なSSR能力を持ってようが、たった一人でやれることなんざ、たかが知れてる。特にお前みてぇな、攻撃にしか能のない脳筋アタッカーはな」


「……っ!」


 健太はぐっと唇を噛んだ。反論の余地もなかった。


「油断してっと、こうなるぞ。……いいな坊主。次に会う時も同じようなザマ晒してたら、俺は助けねぇ。そのまま野垂れ死ね」


 その言葉は、突き放すように冷たく厳しかった。だが、その奥に、ほんのわずかだが不器用な優しさのようなものが感じられた気がした。


「……はい。……すみません」


 健太はもう一度、深く頭を下げた。


 男はそれ以上何も言わなかった。ただじっと健太の顔を見つめ、やがて「まあいい」と小さく呟いた。


「……あの!」


 健太は意を決して顔を上げた。聞かなければならないことが、まだあった。


「お代は……。助けてもらったお礼は……。何でも払うって書きました。俺にできることなら……」


「……お代?」


 男は心底おかしいというように片方の眉を上げた。

 そして次の瞬間、腹の底から愉快そうに声を立てて笑った。


「がっはっはっは! 馬鹿野郎、いらねぇよそんなもん」


 彼は健太の頭を、大きな掌でわしわしと、少し乱暴に撫で回した。


「俺はただの気まぐれで、同じゲームのプレイヤーのケツを拭いてやっただけだ。報酬なんざ考えたこともねぇよ」


 その、あまりにも豪快な言葉に、健太は呆気に取られてしまった。


「……ただし」


 男の笑顔がすっと消えた。その目が再び、鋭い光を宿す。


「今後は無茶するな。そして、自分の力を過信するな。……それでいい。それが俺への報酬だ」


 そう言うと男は、健太の頭から手を離し、踵を返した。


「あ、待ってください! 名前……! あなたの名前を……!」


 健太は思わず叫んだ。


 男は部屋の真ん中で足を止めると、振り返りもせずに、ただ一言、ぽつりと呟いた。


「……名乗るほどの者じゃねぇよ」


 そして。

「あばよ」

 と、まるで別れの挨拶のように短い言葉を残した、その瞬間。


 男の身体が何の予兆もなく、すっと。まるでテレビの電源が切れるかのように、その場から掻き消えていたのだ。後には、微かな残像すら残さなかった。


「……瞬間移動……?」


 健太は、目の前で起きた二度目の超常現象に、ただ呆然とするしかなかった。あれは自分が習得した『空間転移』とは明らかに次元の違う、完璧なテレポート能力。


(……あの人、一体何者なんだ……?)


 裏サイトにいた狂人ランカー。月詠が言っていた、このゲームの本当の遊び方を知ってしまった者たち。

 彼はその一人なのだろうか。だとすれば、このゲームのランカーとは、皆あんな化け物じみた力を持っているというのか。


 自分の力が、SSR念動力という最高レアリティの力が、なんてちっぽけで矮小なものに思えたことか。


 しばらく健太はベッドの上で動けなかった。

 やがて彼は、ゆっくりと自分の両手を見つめた。この手で、自分は一体何をしていたのだろう。


 手に入れた力に酔いしれ、神にでもなったかのように錯覚し、そして無様に負けた。


「……クソっ……」


 彼の目から、ぼろりと。熱い雫が一つ、また一つと、血で汚れたシーツの上に落ちていった。それは、痛みからでも恐怖からでもない。ただひたすらに、純粋な悔しさからくる涙だった。


「……俺は……弱いっ……!!」


 絞り出すような慟哭。


「慢心して……! 調子に乗って……! このザマかよ……っ!」


 笑えねぇ。

 全く笑えなかった。


 神様ごっこは、もう終わりだ。

 自分は神でもなければ英雄でもない。ただの力を手に入れただけの、未熟で愚かな、ただの高校生だ。


 彼は泣いた。声を殺し、肩を震わせ、子供のように、ただひたすらに泣き続けた。十七年間の人生で流したことのない量の涙。それは、彼の傲慢で脆かったプライドを全て洗い流していくかのような、浄化の雨だった。


 どのくらいそうしていただろうか。

 やがて涙が枯れ果てた頃、健太はゆっくりと顔を上げた。


 その瞳には、もはや涙の跡はなかった。そこにあったのは、今までの彼にはなかった、冷たく、そして硬質な、まるで鋼のような光だった。


 彼は震える手でスマートフォンを手に取ると、『KA-II HUNTER』のスキルツリー画面を開いた。


 もう迷いはなかった。

 火力特化の攻撃スキルでも、便利な逃走スキルでもない。


 彼が全てのポイントを注ぎ込んだのは、今まで軽視していた、最も地味で、最も基本的な防御系のスキルだった。


念動障壁サイコ・フィールド LV.1】

【身体能力強化(念動アシスト) LV.1】


 彼は決して忘れないだろう。

 あの脇腹を貫かれた時の、焼けるような痛みと無力感を。

 そして、あの名も知らぬ救済者が残していった、厳しい言葉と不器用な温かさを。


 この日から。

 斉藤健太の慢心は死んだ。

 そして、本当の意味での「ハンター」が、灰色の戦場に産声を上げた。


 夜が明け、朝の光が窓から差し込み始める頃。

 健太は、ほとんど一睡もしていなかった。


 彼は裏サイト『奈落の淵』を、食い入るように見つめていた。

 そこは表の攻略サイトとは全く違う世界だった。


 飛び交う情報は、より専門的で、より実践的で、そしてより血生臭い。


『Tier3「怨嗟の老婆」ソロ討伐RTA。記録更新三分十五秒』

『新スキル「因果律干渉」対人戦での有効活用法について』

『速報:新宿エリアランカーチーム「阿修羅」と「ヴァルハラ」が抗争開始。一般プレイヤーは近づくな』


 そこはもはやゲームの攻略サイトなどではなかった。現実の異能者たちが互いの牙を研ぎ、情報を交換し、そして時には殺し合う、無法地帯の戦場そのものだった。


 健太は、その圧倒的な情報の濁流に最初は気圧されていた。

 だが今の彼には、もう後戻りをする気など微塵もなかった。


 彼はこの場所で強くなる。

 どんな敵が現れようとも、決して油断せず、決して慢心せず、確実に勝利を掴むための、本当の「強さ」を。


 そしていつか、あの名も知らぬスキンヘッドの男と再びまみえた時に。

「あんたのおかげで強くなれた」と。胸を張って、そう言えるようになるために。


 灰色の日常は完全に終わった。

 だが、その先に待っていたのは黄金色の楽園ではなかった。

 血と鉄と硝煙の匂いがする、どこまでも無機質で、しかし確かな手応えのある鋼色の戦場だった。


 斉藤健太の本当の戦いは、今この瞬間から始まる。

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