第21話 灰色のアリアと黄金の狂想曲
世界は色を持っていた。
斉藤健太は、夜の闇に紛れ、錆びついた非常階段を駆け上がりながら、そのあまりにも当たり前の事実に、今更ながら打ち震えていた。
眼下に広がる街の灯りは、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、無数の色彩で瞬いている。赤、青、黄色、緑。車のヘッドライトが織りなす白い光の河、コンビニエンスストアの少しけばけばしいネオン、マンションの窓から漏れる温かなオレンジ色の生活の光。
以前の彼にとって、それはただの「夜景」だった。意味のない光の集合体。灰色ではないだけで、彼の心には何の感慨ももたらさない、無機質な風景画。
だが今の彼には、その一つ一つの光が、まるで祝祭の始まりを告げる篝火のように見えた。
ここが自分のステージだ。
ここが自分の「世界」だ。
「……詩織、聞こえるか。ポイントBに到着した。目標は確認できないが、レーダーには明確な反応がある。……ああ、任せろ」
彼は耳につけた小型のワイヤレスイヤホンに、低く、しかし確信に満ちた声で囁いた。数十メートル離れた隣のビルの屋上で、同じように闇に溶け込んでいるであろう相棒の気配を、彼は肌で感じていた。
『KAII HUNTER』。
この神か悪魔か判然としないアプリが、彼の日常を侵食し始めてから一ヶ月が過ぎようとしていた。
つまらないと感じることがなくなった。
朝目覚めるのが楽しみになった。退屈だった授業中は、夜の「狩り」の戦略を練るための貴重な思考時間となった。友人たちのキラキラとしたSNSの投稿を見ても、もはや何の嫉妬も感じない。お前たちの輝かしい日常など、俺の非日常に比べれば、なんてちっぽけで色褪せたものだろう。
彼は選ばれたのだ。
この世界の裏側で繰り広げられる、本当の「ゲーム」のプレイヤーとして。
冒険と探検に満ちた輝かしい日々。灰色だった世界は、黄金色の狂想曲を奏で始めた。
健太は今や、あの攻略サイトのチャットルームの常連となっていた。
夜、親が寝静まった後、自室のベッドの上で、同じゲームをプレイする顔も知らぬ仲間たちと駄弁る時間。それは彼にとって、狩りと同じくらい、あるいはそれ以上に、刺激的で心地よい時間だった。
かつてはただROM(Read Only Member)として、上級者たちの会話を羨望の眼差しで見ているだけだった彼。だが、SSR『念動力』という最強クラスの能力と、詩織という最高のヒーラーを仲間に加えた彼の名は、この狭いコミュニティの中で、瞬く間に知れ渡ることとなった。
龍神:『なあKENTA、ちょっと聞きたいんだが。お前、もうTier4の『鉄甲ムカデ』狩ったことあるか? あいつ全身硬すぎて、俺の『豪腕』でも殴り殺すのにすげぇ時間かかるんだが』
KENTA:『ああ、鉄甲ムカデですか。あれ硬いですよね。俺は念動力で奴の身体を無理やり持ち上げて、裏側の柔らかい腹を地面の鉄骨に叩きつけて殺してますけど』
龍神:『は? 持ち上げる!? あの巨体を!? 馬鹿だろお前……SSR念動力、マジでチートすぎだろ……』
名無しの新人ハンター:『あの、すみません……。さっきアプリがインストールされたばかりの者ですが……。リセマラってやったほうが良いんでしょうか? 一応SRの『火炎放射』が出たんですけど……』
KENTA:『新人さんいらっしゃい。まあ、SR火炎放射なら序盤は十分戦えますよ。でも、もし時間が許すならリセマラしてSSRを狙うのを強くオススメしますね。世界が変わりますから。特に念動力か時間停止あたりが引ければ大当たりです』
月詠:『うわー、KENTA君がすっかり先輩風吹かせてるーw』
KENTA:『いや、だって月詠さん、俺マジで世界変わりましたから! それに俺は運が良かっただけですけど……最近パーティーを組んだ子が、SSRの『完全治癒』持ちだったんですよ。正直、こっちのほうが本当のチートだと思います』
ジャガーノート:『……は? 治癒能力者だと? おい新人、そいつ今どこにいる? 俺と組ませろ。金ならいくらでも払ってやる』
KENTA:『断ります。彼女は俺のパーティーメンバーなんで』
チャットルームでのやり取りは、健太に確かな自信と所属感を与えてくれた。学校の教室では、彼はその他大勢の冴えない生徒Aでしかない。だがここでは違う。誰もが彼の力と知識を認め、頼りにしてくれる。
彼は惜しみなく、自らの経験を新人たちに教えた。効率的なスキルポイントの振り方、Tier5怪異の簡単な倒し方、危険な怪異が出現しやすい場所。それは、かつて自分が先輩プレイヤーたちから受けた恩を、次の世代へと返しているような、誇らしい感覚だった。
彼はこの小さなコミュニティの中で、英雄になりつつあった。
そして夜。
チャットを終えた健太は、まるで仕事に出かけるサラリーマンのように、慣れた様子で身支度を整える。黒いパーカーを羽織り、スマートフォンと、念のためにと購入した小型のLEDライトをポケットに入れる。
「……行ってくる」
誰に言うでもなくそう呟くと、彼は自室の窓の鍵を静かに開けた。彼の部屋は二階にある。だが、彼にとって階段などもう必要ない。
彼は窓枠に足をかけると、ためらうことなく夜の闇へとその身を躍らせた。彼の身体はしかし、地面に落下することはない。念動力によって、まるで柔らかなクッションに受け止められるかのように、ふわりと音もなくアスファルトに着地する。
親に黙って夜の街へと繰り出す。
このほんの小さな背徳感と、誰にも知られていない秘密の冒険。それが彼の心を、最高に昂らせた。
灰色の日常を演じる昼間の自分と、世界の裏側で怪異と戦う夜の自分。二つの顔を持つことが、彼に万能感を与えた。以前の、何も持たなかったつまらない自分とは、もう違うのだと。
健太は夜の住宅街を、まるで猫のようにしなやかに駆け抜けていく。目的地は、レーダーが示す今夜の「狩り場」。
彼と詩織のパーティーは、すでに近隣のTier5怪異をほとんど狩り尽くしてしまっていた。必然的に彼らのステージは、より危険で、より報酬の大きいTier4の領域へと移行していた。
「……詩織。聞こえるか。ポイントC屋上に到着した」
『こちら詩織。私もポイントDで待機完了です。レーダーによると、目標はビルの地下駐車場。数は一体ですが……反応が大きいですね。気をつけてください、健太さん』
「ああ、分かってる」
今夜のターゲットは、Tier4の怪異『瓦礫ゴーレム』。廃ビルなどの瓦礫や鉄屑が寄り集まって生まれた、自律行動する巨大な人形。その硬い身体は、並の攻撃を一切通さない厄介な敵だ。
健太は屋上の縁から下を覗き込んだ。地上まではおよそ二十メートル。彼は迷わず、そこから飛び降りた。彼の身体は夜風を切り裂き、まっすぐに地面へと落下していく。そして、地面に激突する寸前、念動力で自らの身体に強力なブレーキをかけ、すたんと完璧に着地した。
これが今の彼が、最も気に入っている移動方法だった。最短距離を一直線に。
彼は、ビルの地下駐車場へと続く暗いスロープを、ゆっくりと下っていく。ひんやりとした空気が、彼の肌を撫でた。奥から、ゴウンゴウンという重い岩を引きずるような音が聞こえてくる。
――いた。
駐車場の最も広いスペースの中央に、それはいた。
身長は三メートル以上。周囲のコンクリートの破片やひしゃげた鉄骨、錆びついたドラム缶などが、まるで磁石のように寄り集まり、歪な人型を形成している。その巨体は歩くだけで地面を揺らし、圧倒的な威圧感を放っていた。
健太は柱の影に身を隠しながら、冷静に敵を分析する。
(……デカいだけだ。動きは鈍い。だが、あの質量……。まともに食らえば、詩織の治癒が間に合う前に、俺の身体はミンチだろうな)
真っ向から力でぶつかるのは得策ではない。
彼は周囲を見渡した。駐車場の天井を、太い水道管やガス管が縦横無尽に走っている。
(……あれを使うか)
彼は静かに意識を集中させた。ターゲットは、頭上を走る最も太く、そして最も脆く錆びついた水道管。
『――詩織。今から俺が奴の気を引く。お前は俺の合図があるまで、絶対に動くな。いいな』
『……は、はい! 分かりました!』
健太は柱の影から飛び出すと、あえてゴーレムの注意を引くように、足元の空き缶を蹴り飛ばした。カーンという甲高い音が、静かな駐車場に響き渡る。
「ゴオオオオオオッ!!」
ゴーレムが地鳴りのような咆哮を上げた。その顔があるであろう部分の瓦礫が動き、まるで巨大な一つの目が健太の姿を捉えたかのようだった。
ゴーレムがその巨大な腕を振り上げる。コンクリートと鉄骨でできたそれは、もはや凶器というより攻城兵器に近い。それが健太めがけて、凄まじい速度で振り下ろされた。
健太は慌てることなく横へと跳躍し、それを回避する。彼のすぐ横を通り過ぎた拳が、地面のアスファルトに叩きつけられ、轟音と共に巨大なクレーターを穿った。
(……やっぱ威力は馬鹿みてぇだな)
彼はゴーレムの注意を完全に自分へと引きつけながら、巧みに立ち位置を調整していく。そして、ゴーレムが目的の水道管の真下へと差し掛かった瞬間――
『――今だ!』
彼は水道管に込めていた念動力を、一気に解放した。
――目標、接合部のボルト全切断。
ミシミシという金属の軋む音。次の瞬間、巨大な水道管がその接続を失い、重力に従ってゴーレムの頭上へと落下していった。
「ゴッ!?」
予期せぬ頭上からの攻撃に、ゴーレムの動きが止まる。その巨体がぐらりとよろめいた。
だが、健太の狙いはそんなものではなかった。
切断された水道管の口から、凄まじい水圧の水が滝のように噴き出し始めたのだ。その濁流がゴーレムの全身を叩き、その視界を奪う。
粘土が水でふやけるように、ゴーレムの身体を繋ぎ止めていた見えざる力の結束が、わずかに緩んだ。
――好機!
健太は、その一瞬の隙を見逃さなかった。彼の全神経が、ゴーレムの巨体を構成する一つのパーツへと集中する。
――核。
この種の怪異には、必ずその身体を維持するための核となる「物」が存在する。それは瓦礫の中に混じった古びた一体の人形であったり、錆びついた一台のエンジンであったりする。それを破壊しない限り、ゴーレムは何度でも再生してしまう。
健太の『念動力』は、もはや単に物を動かすだけの力ではなかった。それは対象の内部構造、密度、そして霊的な繋がりを、触れずして感じ取る一種の「透視能力」にまで進化しつつあった。
(……あった。胸の中心部。……古びたテディベア……?)
なぜそんなものが核になっているのか。そんな疑問は、一瞬で思考の彼方へと消えた。
彼は足元に転がっていた一本の鋭利な鉄筋へと、その全霊力を注ぎ込んだ。鉄筋が青白い光を帯び、びりびりと震え始める。
「――穿て!!」
彼の叫びと共に、鉄筋は光の槍となって射出された。それは滝のような水流を貫き、水の勢いで僅かに体勢を崩したゴーレムの、がら空きになった胸の中心部へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
グシャッという、何か柔らかいものが潰れるような嫌な音。
ゴーレムの動きが完全に止まった。その巨体を構成していた瓦礫や鉄骨が、まるで磁力を失ったかのように、次々とその結束を失い、がらんがらんとけたたましい音を立てて崩れ落ちていく。
数秒後。そこには、ただの瓦礫の山と、その中心で無惨に串刺しにされた汚れたテディベアだけが残されていた。
テディベアはゆっくりと光の粒子となり、やがて跡形もなく消滅した。
【クエストを完了しました!】
ポケットの中で、スマートフォンがいつも通りの無機質な勝利を告げた。
「……はぁ。終わったか」
健太は大きく息を吐いた。Tier4の敵は確かに骨があった。だが、それも今の自分と詩織のコンビの前では、敵ではなかった。
「……大丈夫でしたか、健太さん!?」
詩織が駐車場の入り口から駆け寄ってくる。その手には、彼女が持つ唯一の攻撃手段である『身体能力強化(弱)』が付与された、小さな護身用のスタンガンが握られていた。
「ああ。問題ない。かすり傷一つ負ってない」
健太はどこか誇らしげに、そう言った。
それは、彼が、彼女が、そして二人が、共に成長している確かな証だった。
灰色の日常は、もはやどこにもない。
あるのは、信頼できる相棒と、スリルに満ちた夜の冒険。そして、自らの手で勝利を掴み取る確かな実感。
斉藤健太は、心から思っていた。
――毎日が、こんなにも楽しいなんて。
彼はまだ気づいていなかった。
その楽しすぎる「ゲーム」が、実は彼の魂そのものを賭けた悪魔のギャンブルであるということに。
そして、高レートのテーブルには必ず、イカサマを仕掛けてくる狡猾なプレイヤーがいるという世の常にも。
黄金の狂想曲は、まだその序章を奏でているに過ぎなかった。




