第20話 灰色の相棒と鉄屑の盾
世界は驚くほど単純なルールで出来ていた。
――強い者が勝ち、弱い者は淘汰される。
斉藤健太は、夜の闇に包まれた廃工場の屋根の上から、眼下に広がる灰色の工業地帯を眺めながら、そんな陳腐な結論にたどり着いていた。
彼が桜井詩織という奇妙な相棒とパーティーを組んでから、一週間が経過した。その一週間で二人は、都内に巣食うTier5クラスの怪異を、文字通り「狩り」尽くさんばかりの勢いで討伐して回った。
夜の公園、閉鎖された地下鉄の駅、打ち捨てられた倉庫街。かつては足を踏み入れることすら躊躇われたであろう、世界の淀みが溜まる場所が、今や彼らにとっては格好の「狩り場」であり、「経験値稼ぎ」のフィールドとなっていた。
「――健太さん、次来ます! 右斜め前方、距離三十!」
背後から、凛とした、しかし緊迫感を帯びた詩織の声が飛ぶ。健太は振り返りもせずに、「分かってる」と短く応えた。
彼の研ぎ澄まされた感覚は、すでにその気配を捉えていた。闇の中から、四足歩行の獣のような影が複数、高速でこちらへ接近してくる。野犬が変異したかのような下級の怪異の群れだ。数は五体。
「……雑魚が」
健太は吐き捨てるように言うと、すっと右手を前に突き出した。彼の意思に応え、足元に転がっていた鉄骨の残骸や錆びついたドラム缶が、まるで磁石に吸い寄せられた砂鉄のように、ごとりごとりと音を立てながら宙へと浮かび上がる。
「――まとめて潰れろ」
呟きと同時に、浮遊していた鉄の塊が砲弾となって射出された。それは夜の闇を切り裂く黒い流星となり、寸分の狂いもなく、疾走してくる怪異の群れへと突き刺さっていく。
ギャインッ! という獣の悲鳴と、肉が潰れる鈍い音。先頭を走っていた三体は抵抗する間もなく、巨大な鉄屑の下敷きとなって絶命し、光の粒子となって消滅した。
だが、残りの二体は巧みにそれを回避し、さらに速度を上げて健太へと迫る。そのうちの一体が大きく口を開いた。その喉の奥で、粘液質の緑色の塊が形成されていく。
「健太さん、飛び道具です!」
詩織の警告。だが健太は動じない。
「――遅い」
緑色の粘液弾が吐き出される、まさにその寸前。健太は先ほど射出した鉄骨の一つを念動力で再び操作した。地面に突き刺さっていた鉄骨が、まるで生き物のように跳ね上がり、横薙ぎの一閃で二体の怪異の胴体をまとめて薙ぎ払った。
二体の怪異は声もなくその場に崩れ落ち、やがて塵となって消えていった。
静寂が廃工場に戻ってくる。後には微かなオゾンの匂いと、地面に突き刺さった歪な形の鉄骨だけが残されていた。
「……ふぅ。お疲れ様でした、健太さん」
柱の影から姿を現した詩織が、安堵のため息をつきながら駆け寄ってきた。
「ああ。これで今日のノルマは終わりか」
健太のポケットの中のスマートフォンが、ぶぶっと小刻みに振動し、連続でクエスト完了の通知を知らせていた。
【デイリークエスト:Tier5の怪異を5体討伐せよ(5/5)】
【ウィークリークエスト:怪異を30体討伐せよ(30/30)】
【称号を獲得しました:『ゴブリンスレイヤー』】
「『ゴブリンスレイヤー』……。だせぇ名前だな」
「あはは……。でも、これでまたスキルポイントが貯まりましたね」
詩織は屈託なく笑った。彼女の存在は、この殺伐とした「狩り」において、健太にとって唯一の癒やしとなりつつあった。
彼の戦い方は苛烈だ。いや、苛烈というよりは、あまりにも合理的で効率的すぎた。SSR『念動力』。その力はTier5クラスの怪異にとっては、もはや天災にも等しい。健太は敵に一切の接近を許さず、常に遠距離から周囲にある「物」を武器として一方的に敵を殲滅する。その戦い方は、さながら戦場の支配者。あるいは冷酷な処刑人だった。
だが、その完璧に見える戦い方にも、一つだけ明確な弱点が存在した。
その弱点が露呈したのは、三日前のことだった。
その日彼らが対峙したのは、蝙蝠が変異したかのような、飛行能力を持つ怪異の群れだった。奴らは超音波のような不可視の刃を、遠距離から無数に放ってきたのだ。
健太はいつものように瓦礫を操って迎撃しようとした。だが、敵の攻撃は彼の予想を遥かに超えて速く、そして精密だった。彼は攻撃用の瓦礫を操作することに意識を集中させるあまり、自らの防御を疎かにしてしまったのだ。
一瞬の隙。一体の蝙蝠怪異が放った見えない刃が、彼の防御網を掻い潜り、その左腕を浅く切り裂いた。
「ぐっ……!?」
灼けるような痛み。パーカーの袖が裂け、そこから鮮血が滲み出す。十七年間、喧嘩一つしたことのなかった彼にとって、それは初めて味わう本物の「痛み」だった。
思考が一瞬だけ白く染まる。その隙を怪異たちが見逃すはずがなかった。集中が途切れ、宙に浮かんでいた瓦礫が、がらんがらんと音を立てて地面へと落下する。好機と見た怪異の群れが、一斉に彼へと襲いかかった。
――その絶体絶命の窮地を救ったのが、詩織だった。
「――健太さんっ!」
彼女の悲鳴にも似た叫び声。その小さな身体が、健太の前に立ちはだかるように飛び込んできた。そして彼女は、両の手のひらを自らの前でかざした。
「『癒しの光壁』!」
彼女の掌から、温かく、そして柔らかな光の壁が展開される。殺到した不可視の刃がその光の壁に触れた瞬間、まるで春の雪のように、すうっと音もなく消滅していった。
「……なんだこれ……」
「私の治癒能力の応用です! でも長くは持ちません! 早く!」
詩織の額には玉のような汗が浮かんでいた。光の壁が少しずつひび割れていく。
その光景に、健太ははっと我に返った。
「……チッ!」
彼は悪態をつくと、痛みと怒りを、純粋な破壊の力へと変換した。彼は自らが立っている地面――その足元のコンクリートを、念動力で強引に引き剥がした。直径数メートルにも及ぶ巨大なコンクリートの円盤が、轟音と共に浮上する。
「――全部まとめて死ね!!」
咆哮と共に、巨大な円盤が、まるでフリスビーのように高速回転しながら射出された。それは蝙蝠怪異の群れを、虫をすり潰すかのように飲み込み、蹂躙し、工場の壁に激突して、けたたましい破壊音と共に砕け散った。
「……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返す健太。詩織が展開していた光の壁も、役目を終えたかのように掻き消えた。
「……大丈夫ですか、健太さん!? 腕の怪我、見せてください!」
詩織が涙目のまま駆け寄ってくる。健太は、まだじんじんと痛む左腕を抑えながら、無言で彼女に差し出した。
詩織はその傷口に、そっと両手をかざした。彼女の掌から、先ほどの光の壁と同じ、温かい光が溢れ出す。
「『応急治癒』」
光が健太の傷口を優しく包み込む。すると不思議なことが起こった。灼けるような痛みが、すうっと引いていく。裂けていた皮膚が、まるで早送り映像のように、みるみるうちに塞がっていく。数秒後、そこには傷跡一つ残さず、元の綺麗な皮膚が再生されていた。
「…………」
健太は、自分の腕を信じられないというように見つめていた。
「……すげぇな、お前の能力」
それは、彼の偽らざる本心だった。
「よ、良かったです……。間に合って……」
詩織はその場にへたり込み、安堵のため息をついた。
この一件以来、健太は詩織の能力を、ただの「保険」としてではなく、チームにとって不可欠な「生命線」として、明確に認識するようになっていた。そして同時に、彼は自らの戦い方に重大な欠陥があることを、痛感させられていたのだ。
***
喫茶店の窓際の席。
いつものように作戦会議(という名の反省会)を開いていた二人の間には、どこか気まずい沈黙が流れていた。テーブルの上には、飲み干されたコーヒーカップと、クリームソーダのグラスが、ぽつんと置かれている。
「……順調だな」
最初に沈黙を破ったのは、健太だった。
「ここ数日でTier5はほとんど狩り尽くした。スキルポイントも、かなり貯まったはずだ」
「はい……。そうですね」
詩織は、どこか歯切れの悪い返事をした。
健太は、先日の戦闘のことを言っているのだと、すぐに察した。
「……あの時は悪かった。助かったよ」
彼にしては珍しい、素直な感謝の言葉だった。
「いいえ! 私なんて、あれくらいしかできませんから……!」
詩織は慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。
「正直、詩織がいなかったら結構やばかったかもしれん」――と健太は続ける。
「あの後、家に帰って親に腕の怪我のことをどう説明するか、そればっかり考えてた。……病院に行くわけにもいかんしな。そういう意味でも、お前の能力は本当に助かる」
彼の言葉には嘘はなかった。この「ゲーム」をプレイする上で、現実世界との整合性をどう取るかというのは、常に付きまとう問題だったのだ。怪我をしても、それを説明する手段がない。その最大のリスクを、彼女の治癒能力は完璧にカバーしてくれていた。
「……それでだ」
健太は本題を切り出した。彼はスマートフォンの画面を詩織に向けた。そこには『KAII HUNTER』のクエスト一覧が表示されている。
「次のステップに進もうと思う。――Tier4狩りだ」
その言葉に、詩織は息を呑んだ。
「……Tier4ですか……?」
「ああ。いつまでも雑魚狩りばかりしていても効率が悪い。攻略サイトによれば、Tier4の敵がくれるスキルポイントは、Tier5の奴らとは桁違いらしい。俺たちの力を、もう一段階上げるには、リスクを取るしかない」
「でも……! この間の蝙蝠みたいな、飛び道具を使ってくる敵も増えるんですよね……? 大丈夫でしょうか……」
詩織の不安はもっともだった。あの時ですら健太は怪我を負ったのだ。Tier4ともなれば、さらに厄介な能力を持つ敵が出てくることは想像に難くない。
「ああ。分かってる」
健太は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「お前の言う通りだ。今の俺の戦い方じゃマズい。攻撃に意識を集中させすぎると、防御が疎かになる。あの蝙蝠野郎に飛び道具を食らったのも、それが原因だ」
彼は苛立たしげに自分の頭を掻いた。
「瓦礫でも何でも、常にいくつか防御用として自分の周りに浮かせておけば良いだけの話なんだがな。……でも今の俺じゃ、それをやると攻撃に回せる数が減っちまう。操作できる数に、まだ制限があるからな」
彼はスキルツリーの画面を開いて、詩織に見せた。
【同時操作可能数増加 LV.3】
現状、彼が同時に、かつ精密に操作できる物体の数は五つが限界だった。攻撃に五つ全てを使えば、防御は無に等しい。防御に回せば、攻撃力が落ちる。悩ましいジレンマだった。
「……スキルポイントの振り方が悩みどころなんだよな」
彼は真剣な顔で唸った。
「『同時操作可能数増加』に振って、攻防のバランスを取れるようにするか……。でも、それだと火力が上がらない。『出力強化』に振って、多少の攻撃は無視できるくらいの圧倒的な火力で、一撃で終わらせる方が結果的に安全かもしれん……! でもそうすると、やっぱり防御が……!」
「うーん……悩みますね……」
詩織も真剣な顔で腕を組んだ。
「私の治癒で、健太さんの怪我は治せると思います。でも、回復できるダメージにはやっぱり限界があります。防御を疎かにするのは、絶対にダメだと思います……!」
「……だよな。あー、それはそうなんだよな……」
健太は再び頭を抱えた。最強のSSR能力を手に入れたはずなのに、その運用方法一つで、これほどまでに頭を悩ませることになるとは。
灰色の日常を送っていた頃には決して経験することのなかった、充実した、そして贅沢な悩み。
彼はそんな自分の変化に、まだ気づいていなかった。
ただ、目の前の相棒と真剣に「次の一手」について語り合える――その時間が、彼にとって何よりも貴重なものになりつつあることを、彼はまだ自覚していなかった。
「……よし」
しばらく考え込んだ後、健太は顔を上げた。その瞳には、迷いを振り切った強い光が宿っていた。
「決めた。次のポイントはまず、『同時操作可能数増加』に振る。話はそれからだ」
その決断は、火力で押し切る彼のプライドよりも、隣にいる相棒の安全を、無意識のうちに優先した結果だったのかもしれない。
「……はい!」
詩織は、彼の決断に力強く、そして嬉しそうに頷いた。
二人の小さなパーティー。
最強の矛と、最高の癒し手。
彼らは互いの弱さを補い合いながら、少しずつ、しかし確実に、この狂った世界の階段を登り始めていた。
その先に待ち受けるのが、どんな絶望的な強敵であろうとも、もはや彼らは一人ではなかった。
灰色の戦場に灯った二つの小さな光。
それはやがて、この世界の闇を照らす大きな炎となるのかもしれない。
……などという壮大な未来を、彼ら自身はまだ想像すらしていなかったのだが。




