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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第2話 ハイハイよりも先に覚えたこと

 地鳴りのような歓声と熱狂に包まれた「天命拝覧の儀」から、季節は二度ほど巡っただろうか。土御門晴明と名付けられた赤子――その精神の持ち主である元サラリーマン、鈴木太郎は、今、人生(二度目)で最大の壁に直面していた。

 それは、圧倒的なまでの「退屈」と「無力感」である。


(クッソ眠い……。そして暇だ……)


 赤ん坊の身体とは、かくも不自由なものか。まず、一日の大半を支配する抗いがたい睡眠欲。前世で三日徹夜した後の会議中に襲ってきた眠気すら、生温い午後の微睡みに思えるほど、本能的で強烈な睡魔が周期的に彼を襲う。意識を保っていられる時間は、まだ日に数時間程度。その貴重な覚醒時間でさえ、彼は天井の木目を眺めるか、意味のない声を発することしかできない。


 手足は短い上に、神経がまだ繋がっていないのか思うように動かせない。寝返りすら打てず、世界は常に仰向けの視点から更新されない。意思の疎通も不可能だ。「腹が減った」「おむつを替えろ」「ちょっと静かにしてくれ」といった、人間としての基本的な要求すら、すべて「泣く」という単一の出力方法に集約されてしまう。これは、前世でどんなに無能な部下と仕事をした時よりも、遥かにストレスフルなコミュニケーション環境だった。


 彼の周囲は、相変わらず過剰な期待と熱気に満ちている。儀式の一件以来、彼はもはやただの赤ん坊ではなく、「神の子」「晴明公の再来」として、神聖不可侵の偶像のように扱われていた。土御門の分家や、日本退魔師協会に連なる名家の者たちがひっきりなしに彼への拝謁を求め、その顔をひと目見ては感涙にむせび、五体投地で平伏していく。


(やめてくれ……。そんなキラキラした目で見ないでくれ……。中身はただの疲れ果てたおっさんなんだ……)


 彼の世話は主に、母親である美咲と、「小雪こゆき」と名付けられた式神によって行われていた。小雪は、あの儀式の日に彼が目にした、人間と見紛うほど精巧な式神だった。腰まで届く艶やかな黒髪に、雪のように白い肌。感情の読めない硝子玉のような瞳を持つ彼女は、一切の無駄口を叩かず、ただ完璧な所作で彼の世話を焼いた。


 最初は不気味に感じていた小雪の存在にも、彼は次第に慣れていった。体温のない彼女の腕は、夏場にはひんやりとして心地よく、その完璧すぎる所作は見ていて飽きることがなかった。何より、彼女は他の人間のように彼に過剰な期待を向けてこない。それが、彼にとっては唯一の救いだった。


 そんなある日の昼下がり。晴明は、いつものように天井の木目を眺めながら、自らの置かれた状況について改めて思考を巡らせていた。


(それにしても俺は一体何なんだろうな……)


 儀式での出来事は、彼にとっても衝撃だった。砕け散った霊石、周囲の熱狂。どうやら自分は、この世界においてとんでもないポテンシャルを秘めた存在であるらしい。その自覚はあった。


 彼は、貴重な覚醒時間を使って、自らの内側を探ることを日課としていた。目を閉じ、意識を内側へ、さらに深くへと沈めていく。すると感じるのだ。自らの魂の中心に、熱くも冷たくもない、静かでそれでいて絶対的な「何か」が存在しているのを。それは、前世の身体では決して感じることのなかった、世界の法則とは異なるもう一つのことわり


 彼が聞きかじった情報と自らの感覚を統合した結果、この世界の術師たちが使う「霊力」とは、PCのメモリ(RAM)に近い概念だと結論づけていた。容量が大きければ大きいほど、複雑で大規模な術式プログラムを複数同時に展開できる。


 だが、彼の内にある「何か」は、それとは少し違っていた。彼の魂は、まるで陰と陽の気が完璧な調和を保つ太極図のように、自己完結したエネルギー循環システムを形成している。それは、無限のCPUコアと、瞬時にキャッシュをクリアする機能を併せ持った、一種の量子コンピュータに似ていた。どれだけ複雑な処理(術)を要求されても遅延なく無限に実行できる。そして処理が終わった瞬間に、使用された霊力(メモリ領域)は完全に解放され、精神的な負荷が一切残らない。


 あの儀式で霊石が砕け散ったのは、彼の霊力の「最大容量」が大きすぎたからではない。計測という処理を行ったそばから、その負荷が瞬時にクリアされ、また次の計測処理が流れ込むという無限のループに、計測器が耐えきれず、情報処理の限界を超えて焼き切れたのだ。


(……とまあ理屈は分かった。俺がとんでもないチートスペックの持ち主だってことは、よーく理解した)


 だが、それがどうしたというのか。宝の持ち腐れとは、まさにこのことだ。どれだけ高性能なCPUを積んでいようと、身体というインターフェースがこの有り様では、何もできない。


(ああ暇だ……。暇すぎる……。ソシャゲのスタミナが溢れていく時くらい、無為な時間を過ごしている……)


 前世の記憶があるせいで、精神年齢と肉体のギャップが彼を苛む。赤ん坊にとっては見るもの聞くもの、すべてが新鮮なのだろうが、三十五年分の記憶を持つ彼にとって、この刺激のない日常は拷問に等しかった。何か、何かできることはないか。この退屈を紛らせる、何か新しい娯楽は。


 その時、彼の視界の端を小さな蝶がひらひらと舞いながら横切っていった。開け放たれた縁側から迷い込んできたのだろう。彼は目でその蝶を追った。右へ左へ。ふわりと上昇し、すとんと下降する。その自由な軌跡を眺めているうちに、彼の胸にある単純な欲求が芽生えた。


(……動きたい)


 寝返りも打てないこの身体で、あの蝶のように自由に。その漠然とした願いが、彼の魂の中心にある「何か」を、初めて明確な目的意識を持って揺り動かした。


(動く……。そうだ、浮いてみればいいんじゃないか?)


 突拍子もないアイデアだった。だが今の彼にとっては、最も現実的な目標に思えた。彼は目を閉じ、再び意識を集中させる。まず、自分の身体という「オブジェクト」を認識する。その重さ、形、空間における座標。次に、自分の内なる力に命令する。この身体を「下」から「上」へ。


 しかし、何も起こらない。ただ念じるだけではダメらしい。


(そうか、プログラムだ。術式を組まないと……)


 彼は、己の能力を無意識のうちに覚醒させようとしていた。


 一つ目の力『天理のてんりのまなこ』。それは、世界のあらゆる事象を構成する「霊力」の流れや「因果の繋がり」、そして「術式の構造」を情報として視認し、瞬時に完全理解する究極のデバッガー。彼は、その魔眼を自分自身の内側へと向けた。


 すると見えた。自らの身体の周りを、大気中の微細な霊力が川のように流れているのが。そして、自分自身の魂から、それとは比較にならないほど高密度の霊力が、オーラのように発せられているのが。彼は、その二つの流れを「観測」した。


(なるほどな……。外の力を取り込んで、内の力で指向性を与え、特定の現象を引き起こす。これが、この世界の術の基本原理か……)


 説明書を読むように、彼は世界の法則を理解する。


 次に、二つ目の力『五行創元ごぎょうそうげん』。それは、世界の万物を構成する五つの要素「木・火・土・金・水」の根源に直接アクセスし、自在に操る森羅万象のAPIライブラリ。彼は「重力」という現象を打ち消すための術式を、頭の中で「構築」し始めた。


 五行思想において「土」は、万物を引きつける引力を司る。ならばその逆。「木」の持つ上昇と成長のエネルギーを、自らの身体に適用すればいい。彼は、自分の周囲に流れる霊力の中から「木」の性質を持つものだけを抽出し、自らの魂から発する力で、それを身体の下に集めるイメージを描いた。


(……よし。これでいけるか……?)


 目を開ける。相変わらず、視界には見慣れた天井が広がっていた。失敗かと彼が諦めかけたその瞬間。


 ふわり。


 彼の身体が、ほんの数ミリ、敷布団から浮き上がった。ほんの一瞬。すぐに、どさりと音を立てて落下したが、その感覚は確かにあった。無重力。身体の芯が軽くなる、あの独特の浮遊感。


(……うお、マジか。できたぞ……!)


 彼の心に、歓喜の波が押し寄せた。それは前世で、難易度の高いプロジェクトを成功させた時の達成感にも似ていた。いや、それ以上だ。自分の力で物理法則を捻じ曲げたのだ。興奮で心臓が早鐘を打つ。もう一度だ。


 彼は再び意識を集中させ、先ほどのプロセスを繰り返す。今度は、より精密に、より強力に。すると今度は、先ほどよりも高く長く、彼の身体が宙に浮いた。地上からおよそ十センチ。時間は五秒ほど。


「……あうー」


 思わず意味のない声が漏れる。楽しい。退屈だった世界が、一瞬にして色づいて見えた。彼は夢中になった。何度も何度も浮遊を試みる。最初は数秒しか保たなかったが、繰り返すうちに次第に滞空時間は長くなり、高度も安定していった。まるで、初めて自転車に乗れた子供のように。あるいは、初めてゲームでレアアイテムを手に入れた時のように。彼は純粋な喜びに満たされていた。


 そして一時間後。彼は、ついに空中浮遊の術を完全にマスターした。地上五十センチほどの高さで、まるで水に浮かぶように、ぷかぷかと安定して浮遊できるようになったのだ。


(うお便利……! これは便利だぞ……!)


 寝たきりの彼にとって、視点の高さが変わることは革命的な変化だった。いつも見上げていた天井が少しだけ近くなる。部屋の隅に置かれた調度品も、違う角度から見ることができる。世界が、ほんの少しだけ広がった。


(ふふふ……。ハイハイ覚える前に空中浮遊覚えたよ……。順番がおかしいだろ、どう考えても……)


 彼は自らの異様さに内心でツッコミを入れながら、一人悦に入っていた。

 その時だった。すっと襖が開き、母親の美咲が部屋に入ってきた。


「晴明、お昼寝の時間ですよ……あら?」


 彼女は部屋の中の光景を見て、その場に凍りついた。無理もない。彼女の愛しい息子が敷布団の上ではなく、宙にぷかぷかと浮かんでいたのだから。しかも本人は「あーうー」などとご機嫌な声を上げている。


 美咲は数秒間、瞬きを繰り返した。夢でも見ているのではないかと。だが、目の前の光景は変わらない。


「…………え」


 か細い声が彼女の唇から漏れた。その声に、晴明ははっと我に返る。


(やべっ、見られた!)


 しまったと焦った彼の集中が途切れ、術が解ける。彼の身体は重力に従って、ふわりと布団の上に着地した。だが、もう遅い。


 美咲はわなわなと震える指で晴明を指さした。


「あ……あ……あなた……! い、今……!」


 彼女は言葉を失い、そのまま廊下に向かって、屋敷中に響き渡るような声で叫んだ。


「た、大変です! お義父様! 泰親様! 晴明が! 晴明が宙に!!」


 その後の騒ぎは凄まじいものだった。母親の叫び声を聞きつけて、父・泰親が、祖父・泰山が、そして屋敷中の人間たちが、彼の部屋に殺到した。


「美咲! 何事だ!」

「若様が宙に浮かれたと申すか!?」


 大人たちは口々に叫びながら、布団の上でキョトンとしている(フリをしている)晴明を取り囲む。晴明は内心で頭を抱えていた。


(最悪だ……。また面倒なことになる……。ただの暇つぶしだったのに……!)


 だが、一度火がついた周囲の期待を、もはや彼に止める術はなかった。


「晴明、もう一度、もう一度見せておくれ!」


 祖父・泰山が、興奮で顔を紅潮させながら彼に懇願する。その目は、もはや孫に向けるものではなく、神の奇跡を目の当たりにした信者のそれだった。


(ええ……マジかよ……)


 断るわけにもいかず、彼は仕方なく再び意識を集中させた。

 ふわり。彼の身体は、先ほどよりも滑らかに、そして高く宙へと舞い上がる。


 うおおおおおおっ!!


 それを見た大人たちから、地鳴りのような歓声が上がった。


「天才だ!」

「これぞ神の子!」

「印も祝詞もなしに浮遊の術を……! しかも、生後半年にも満たぬ赤子が!」


 誰もが歴史の目撃者となった興奮に打ち震え、彼のことを褒め称えた。その熱のこもった賞賛の嵐を浴びながら、晴明はふと、ある感情が芽生えていることに気づいた。


(……あれ? そう言われると……悪い気はしないな……)


 前世では、彼が誰かからこれほどまでに手放しで褒められることなど、一度もなかった。営業成績は常に中途半端。上司からは叱責され、後輩からは侮られ。彼がどれだけ努力しても、誰も彼を認めはしなかった。


 だが今はどうだ。ただ少し浮いて見せただけ。それだけで誰もが彼を「天才だ」と褒め称え、尊敬の眼差しを向けてくる。それは、彼の乾ききった自己肯定感を、じんわりと満たしていくような、不思議な心地よさがあった。


(……まあ、たまにはこういうのも……いいかも……)


 彼がそんなことを考えていたその時だった。急激に意識が遠のいていく。興奮と、慣れない術の連続行使による精神的な疲労。そして、赤ん坊本来の生理的な眠気。それらが一気に彼を襲った。


(……あ、やば……。ねむ……)


 彼の意識はぷつりとシャットダウンした。周囲の歓声が、遠い潮騒のように聞こえる。晴明は宙にぷかぷかと浮いたまま、すうすうと安らかな寝息を立て始めた。


「「「…………」」」


 熱狂していた大人たちは、目の前のシュールな光景にぴたりと動きを止めた。宙に浮いたまま無防備に眠る赤ん坊。その、あまりにも常識外れで、それでいて愛らしい姿に、誰もが言葉を失う。


 やがて、誰かがくすりと笑い声を漏らした。それを皮切りに、儀式場は先ほどの熱狂とは違う、温かく和やかな笑いに包まれた。


「はっはっは、これは敵わんわい」


 祖父・泰山が、目尻に涙を浮かべながら愉快そうに笑う。

 その時、すっと静かな動きで式神の小雪が前に進み出た。彼女は、いつの間に用意したのか柔らかな毛布をその手に持っている。


 小雪は、眠る晴明の真下まで来ると、その身体を傷つけないよう細心の注意を払いながら、そっと毛布で彼を包み込んだ。まるで貴重な宝物を扱うかのように。そして、その小さな身体を、優しく、しかし確実な動きで捕獲する。その一連の所作は、まるで洗練された舞のように静かで美しかった。


 小雪は毛布にくるまれた晴明を腕に抱き、静かに一礼すると、騒がしい大人たちを残して、彼の寝室へと戻っていく。その光景を、誰もがただ微笑ましげに見送っていた。


 その夜。土御門邸の最も奥にある当主の書斎。そこには、重厚な黒檀の机を挟んで二人の男が座っていた。現当主、土御門つちみかど 泰山たいざん。そして、その息子であり晴明の父である、土御門 泰親やすちか


 部屋に満ちるのは、濃密な沈黙と、年代物の線香の香り。先に沈黙を破ったのは、泰山だった。


「……見たか、泰親」


 その声には、昼間の興奮の残り香と、それとは質の違う、冷徹な当主としての響きが混じっていた。


「はい、父上。しかとこの目に」


 泰親は厳格な面持ちで静かに頷いた。彼の表情は、息子の非凡な才能を喜ぶ父親のものではなく、重大な案件に直面した組織の幹部のそれだった。


「空中を浮遊する術なぞ術の初歩。術師であれば誰もが通る道じゃ」


 泰山は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。


「なれど……」


 彼は言葉を続ける。


「あの歳で、印も祝詞も一切の予備動作なく、ただ念ずるだけでそれを成し遂げる者など、この泰山、千二百年の土御門の歴史を紐解いても、寡聞にして知らぬ」


 その声は、かすかに震えていた。喜びか、あるいは畏れか。


「まるで呼吸でもするかのように、当たり前に理を捻じ曲げる……。あれはもはや、我らと同じ術師の枠には収まらぬ。全く新しい次元の存在じゃ」


「はい」


 泰親は同意した。


「今日の昼間の一件で、屋敷中の者たちが改めて晴明様の異常性を確信いたしました。もはや誰もが、彼を『神の子』と信じて疑っておりません」


「うむ……」


 泰山は深く頷き、組んだ指に力を込めた。


「して、外の様子はどうじゃ」


 泰山の問いに、泰親は表情をさらに厳しくして答えた。


「……芳しくありませぬ。あのお七夜の儀式より、噂は瞬く間に広がっております。『土御門に麒麟児生まれたり』と。退魔師協会に連なる者たちは皆、祝着に存じておりますが……問題はそれ以外の者たちです」


「……続けよ」


「まず、政府筋の連中が嗅ぎ回っております。内閣情報調査室、特殊事象対策課……コードネーム、八咫烏ヤタガラス。彼らが、晴明様の情報をしきりに求めているとの報告が」


「あの老獪なカラス共めが」


 泰山は忌々しげに吐き捨てた。


「晴明を国家の戦略資源として管理下に置こうという腹積もりであろう。許せるものか。この子は、土御門の、いや日の本の至宝ぞ」


「はい。ですが父上。問題は国内だけでは収まらないやもしれませぬ」


 泰親は懐から一枚の和紙を取り出した。そこには流麗な筆文字で、いくつかの単語が記されている。


「海の向こう……アメリカの MAJESTIC-12(マジェスティック・トゥエルブ)。そして欧州のオルド・クロノス。彼らのセンサーが、晴明様の誕生を告げたあの日の霊的衝撃波を捉えていないと考える方が、不自然かと」


「……血に飢えた猟犬と、時代遅れの貴族共か」


 泰山は目を細めた。その瞳には、世界の裏側で繰り広げられる熾烈なパワーゲームを知る者だけが持つ、険しい光が宿っていた。


「いずれ何らかの形で接触を図ってくるでしょう。あるいは、その力を確かめるため、非公式な“調査”を送り込んでくる可能性も」


「……つまり、晴明の身が危険に晒されると」


「はい。もはや時間の問題かと存じます」


 書斎に再び沈黙が落ちる。それは、昼間の和やかな雰囲気とは似ても似つかぬ、氷のように冷たい沈黙だった。やがて、泰山は決意を固めたように顔を上げた。


「……警護を最上級レベルに引き上げよ」


「はっ」


「屋敷の結界は、わしが自ら張り直す。一寸の隙も無い神域級のものをな。小雪だけでは足りぬ。晴明の側には、常に十二天将のうち二将を影として随伴させよ」


「……よろしいのですか? 十二天将を赤子の護衛にと?」


 泰親が驚きに目を見開く。十二天将とは、土御門家に代々仕える最強の式神たちのことだ。一体一体が国家転覆級の力を持つとされる伝説の存在。それを、まだ赤子である晴明の護衛に二体もつけるという。前代未聞の破格の待遇だった。


「構わぬ」


 泰山は断固として言い放った。


「良いか、泰親。晴明は、もはや我ら土御門家だけの宝ではない。あの子はこの国の、いやこの星の未来そのものを左右しかねん、巨大すぎる力を持って生まれてきた。その力が正しく育ち、正しく使われるまで、我らは何者からもあの子を護り通さねばならんのだ」


 その言葉には、土御門家当主としての揺るぎない覚悟が込められていた。


「……御意」


 泰親は深く、深く頭を垂れた。


 何も知らず、何も気づかず。

 その頃、土御門晴明は自らの寝室で、穏やかな寝息を立てていた。彼の周りで世界が静かに、しかし確実に動き始めていることなど露ほども知らずに。

 ただ、夢の中で、前世では決して叶うことのなかった、穏やかで平穏で退屈なだけのスローライフを思い描いていただけだった。


 そのささやかな願いが、この世界で最も叶え難いものであることを、彼はまだ知らなかった。

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