第18話 灰色の攻略サイトと神々の黄昏
神になった、と本気で思った。
斉藤健太は、通学の満員電車の中、吊り革に掴まりながら心の中でそう確信していた。
彼の視線の先、数メートル離れた場所で、いかにも粗暴そうなサラリーマン風の男が、女子高生のすぐ後ろに立ち、執拗に身体を密着させようとしている。女子高生は怯えたように身を縮こませているが、周囲の大人たちは見て見ぬフリだ。以前の健太なら、彼もまたその「見て見ぬフリをする大人」の一人になっていただろう。憤りを感じながらも何もできずに俯いているだけの、無力な存在。
だが、今の彼は違う。
健太は、誰にも気づかれないようポケットの中のスマートフォンを軽く握りしめた。そして、そのサラリーマンの男が履いている、少し汚れた革靴へと意識を集中させる。
(――解けろ)
次の瞬間、男の革靴の靴紐がするりと、まるで意思を持ったかのようにひとりでに解けた。男はそれに気づいていない。電車が次の駅に到着し、ドアが開く。人々が一斉に動き出したその時、男は自分の解けた靴紐を踏みつけ、盛大にバランスを崩した。
「うおっ!?」
男は無様に前のめりに倒れ込み、ホームの床に醜く這いつくばった。周囲から、くすくすという嘲笑が漏れる。女子高生は、その隙にさっと人混みの中へと紛れていった。
健太は、その光景を冷めた目で見つめていた。彼の口元には満足げな笑みが浮かんでいる。指一本、声一つ発することなく悪を裁いた。これぞ神の御業。誰も、この冴えない高校生がやったことだとは夢にも思うまい。
――『KAII HUNTER』。
あの日、彼のスマートフォンに突如として現れた悪魔のアプリは、彼の退屈な日常を、万能感に満ちた刺激的な毎日に塗り替えてしまった。
あれから一週間。彼は憑かれたように能力を使い続けた。デイリークエスト、ウィークリークエストをただひたすらにこなし、スキルポイントを貯め『念動力』のスキルツリーを解放していく。
【出力強化 LV.5】
【操作精度向上 LV.7】
【同時操作可能数増加 LV.3】
彼の力は日に日に、そして確実に増大していた。今では、ポケットの中にスマートフォンを入れたままでも、意識を集中させるだけで、半径十メートル以内の人間一人分くらいの重さのものなら、自在に動かすことができるようになっていた。教科書をカバンの中から直接机の上に出したり、リモコンを手元に引き寄せたり。その気になれば、もっと大きなことだってできるだろう。
だが同時に、健太は一つの疑問と、ほんの少しの恐怖を感じ始めていた。
――このアプリは一体何なんだ?
――自分以外のプレイヤーは、本当に存在するのだろうか?
夜、自室のベッドの上で、健太はいつものようにアプリを開いた。だが彼の目的は、クエストの達成ではなかった。彼は初めて、このアプリについて本格的に調べてみることにしたのだ。
彼はもう一台の古いタブレット端末を取り出し、検索ウィンドウにその名前を打ち込んだ。
『KAII HUNTER アプリ』
エンターキーを押す。表示された検索結果は、しかし彼の期待を裏切るものだった。
大手IT企業のニュースサイトや、有名なアプリレビューサイトには、その名前は影も形も存在しない。あるのは個人のブログや匿名掲示板の断片的な書き込みだけ。
『スマホにKAII HUNTERとかいう謎アプリが勝手に入ってたんだが…誰か知ってる?』
『ああそれ俺も入ってたわ。気持ち悪いから速攻でアンインストールしたけど』
『これ新手のウイルスじゃないの? 個人情報とか抜かれそう』
『能力ガチャとかいうのが出たけど怖くて押せなかったw』
ほとんどが、健太が最初に感じたのと同じ、不審感や恐怖を綴った書き込みばかりだった。彼のように好奇心からアプリを起動し、さらに能力ガチャまで回した人間は、ごく少数派であるらしかった。
(……やっぱりヤバいアプリなのか……?)
健太の背筋に、冷たい汗が流れた。もしかしたら自分は、とんでもないものに手を出してしまったのではないか。この力と引き換えに、何か大事なものを失ってしまうのではないか。
彼は諦めずに、さらに検索を続けた。キーワードを変え、検索エンジンの設定を変え、情報の海のさらに深い場所へと潜っていく。そして数十分後――彼はついに、一つのウェブサイトへとたどり着いた。
それは、まるで2000年代初頭の個人ホームページを彷彿とさせるような古臭いデザインのサイトだった。黒い背景に、毒々しい緑色のテキスト。チープなMIDI音源のBGMが、か細く流れている。サイトのタイトルは、こう書かれていた。
【怪異ハンター非公式攻略@wiki】
「……攻略サイト……」
健太は思わず呟いた。あったのだ。自分以外にも、この狂ったゲームを「攻略」しようとしている人間が。彼は、まるで暗闇の中で同じたいまつを持つ仲間を見つけたかのような、安堵感と興奮を覚えた。
彼は震える指で、サイトのコンテンツを一つずつ確認していく。
『リセマラ当たり能力ランキング』
『効率の良いスキルポイントの稼ぎ方』
『怪異別弱点・ドロップアイテム一覧』
そこには、健太が求めていた情報が体系的にまとめられていた。間違いなくここは、このゲームのプレイヤーたちが集う場所だ。
サイトのトップページには、小さなバナーが一つだけ貼られていた。『初心者向け情報交換チャットルーム』。健太は迷わず、それをクリックした。
画面が切り替わり、シンプルなチャット画面が表示される。すでに数人のハンドルネームのユーザーたちが、雑談を交わしているようだった。
龍神:
『なあ、誰か都内のTier3怪異「赤マント」のソロ討伐成功した奴いる? あいつ物理攻撃ほぼ効かないからキツすぎだろ』
月詠:
『龍神さん、まだそんなこと言ってるんですかw あれは状態異常系の能力がないと無理ですよ。私は氷結系のスキルで動きを止めて、じわじわ削りましたけど』
名無しの新人ハンター:
『おお、二人はすごいですね……。僕はまだデイリーの雑魚狩りだけで精一杯です……』
(……本物だ)
健太は確信した。彼らは自分と同じように、このアプリによって力を与えられた「プレイヤー」なのだ。彼は大きく息を吸い込むと、緊張しながら自らもキーボードを叩き始めた。
KENTA:
『はじめまして。最近このアプリが勝手にインストールされてたんですけど……』
彼の書き込みは、すぐに他のユーザーたちの目に留まった。
月詠:
『お、新人さんだ。いらっしゃーい』
龍神:
『おう新人か。そのパターン一番多いよな。歓迎するぜ』
KENTA:
『あ、ありがとうございます。ちょっと聞きたいんですけど、今SSRの念動力っていうので、ひたすら能力使って遊んでるだけなんですけど……。やっぱり怪異退治とかしないとダメなんですかね?』
彼は今一番気になっていることを、正直に打ち明けてみた。アプリの名前は「怪異ハンター」。やはり怪異を狩ることが本来の目的なのだろうか。だとしたら、いつまでも遊んでばかりではいられない。だが、まだ現実の化け物と戦う覚悟は彼にはなかった。
月詠:
『あー、念動力かー。大当たりじゃないですか、おめでとう!』
龍神:
『SSR念動力とかクソ羨ましいな。俺なんてリセマラ十回やって、ようやくSRの「豪腕」だぞ。まあ怪異退治は人それぞれって感じかなぁ』
KENTA:
『人それぞれ、ですか?』
月詠:
『うん。まあクエストに怪異討伐系が多いから真面目にやってる人もいるけど、大半は能力を手に入れたことに満足して、あとは自分のために好き勝手使って遊んでる人ばかりじゃないかなぁ』
月詠の言葉に、健太は少しだけ安堵した。自分と同じような人間もいるらしい。
名無しの新人ハンター:
『ていうか、戦闘系の能力じゃなきゃ怪異退治なんて無理ですよ……。僕なんかハズレのSR「植物会話」だったから、公園の花と喋るくらいしかできません……』
龍神:
『植物会話www クソワロタwww まさにハズレSRの筆頭だなそれ』
月詠:
『まあでも、新人さんの念動力なら戦闘も全然いけると思うけどね。遠距離から一方的に攻撃できるし。でも、あんまりオススメはしないかなー』
KENTA:
『オススメしない、というと?』
月詠の、その少し含みのある言い方に、健太は首を傾げた。次の瞬間、チャットルームに今までとは全く質の違う、乱暴な書き込みが割り込んできた。
ジャガーノート:
『たりめーだろ。怪異退治なんて馬鹿がやることだ』
突然現れた攻撃的なユーザー。チャットルームの空気が、わずかに緊張した。
月詠:
『あ、ジャガノさん。お疲れ様です』
龍神:
『ジャガノさん、ちーっす』
どうやらこの「ジャガーノート」というユーザーは、このチャットルームの古株で、かなりの有名人らしい。
ジャガーノート:
『新入りか? よく聞け。このアプリは、俺たちに力を与えてくれる神様からのプレゼントだ。だがな、神様は別に、俺たちに化け物退治のボランティアをやれなんて言ってねぇんだよ。遊びに命かける馬鹿がどこにいる? ゲームじゃねぇんだぞ、現実で死んだら終わりなんだよ』
その言葉は、あまりにも剥き出しの真実だった。健太はぐっと言葉に詰まる。そうだ。自分はずっとこれをゲームだと思い込もうとしていた。だが違う。この力は本物で、そして怪異もまた本物なのだ。
KENTA:
『……じゃあ、皆さんはこの力を何のために……?』
ジャガーノート:
『決まってんだろ。自分のためだ。俺はこの力で、俺を馬鹿にしてきた奴ら全員に復讐してる。まあ合法的な範囲でな。お前もその便利な力で、せいぜい女のスカートでもめくってろ。そっちのほうがよっぽど有意義だぜ』
ゲラゲラと笑うAAと共に、ジャガーノートはそれだけ書き込むと、すぐにチャットルームから退出してしまった。後に残されたのは、どこか気まずい沈黙だけだった。
月詠:
『……ごめんね、新人さん。あの人、ちょっと口が悪いんだけど、言ってることは間違ってないから』
KENTA:
『……いえ』
月詠:
『まあ、このサイトに集まってるのは、私みたいにたまに雑魚狩りして小遣い稼ぎ(※怪異は倒すと稀に換金アイテムをドロップすることがある)してるライト層か、ジャガノさんみたいに現実世界で力を使ってるアングラ層がほとんどだよ。本当にガチで怪異退治やってるようなディープな奴らは、こんな表のサイトにはいない』
KENTA:
『……裏サイトとかあるんですか?』
健太のその問いに、月詠は少しだけ返信をためらった。
月詠:
『……あるけど。オススメはしないな。あそこにいるのは、このゲームの“本当の遊び方”に気づいちまった本物の狂人たちだから。新人さんが関わるとロクなことにならないよ』
そう言うと彼女も、「じゃあそろそろ落ちるねー」という言葉を残して、チャットルームから退出していった。
健太は一人、がらんとしたチャットルームのログを、ぼんやりと眺めていた。
――様々な人間がいる。自分と同じように力を手に入れ、戸惑い、そしてそれぞれの使い方を見つけているプレイヤーたち。
だがその誰もが、このアプリの「本質」にはまだたどり着けていないようだった。
一体、誰が何のために、この恐るべきシステムを作り上げたのか。
そして月詠が言っていた「裏サイト」と「狂人」とは、一体何なのか。
健太の心には、新たな疑問と、得体の知れない世界への抗いがたい好奇心が、まるで渦のように巻き起こっていた。
彼はまだ、自分が足を踏み入れた世界の、ほんの入り口に立ったばかりなのだ。
その先にあるのが、神々が戯れる玉座なのか、それとも血に飢えた悪魔が待ち構える地獄なのか。
――灰色の日常を捨てた少年は、まだそのどちらでもない、薄暗い踊り場に一人佇んでいた。




