第17話 灰色の日常と神様の悪戯
灰色。
もし誰かに「お前の世界は何色か?」と問われたなら、斉藤健太はきっとそう答えるだろう。
灰色の空、灰色のコンクリート、灰色のアスファルト。窓の外を流れていく景色は、いつだってコントラストの低い眠たい色をしていた。
電車がガタンと重々しい音を立てて鉄橋を渡る。健太は窓に頬杖をつきながら、ぼんやりと外を眺めていた。河川敷では野球部が朝練をしているのか、小さな人影がいくつも動いている。その声援は、分厚い窓ガラスとイヤホンから流れる退屈なインディーズロックに阻まれて、彼の耳には届かない。
「次は、終点・新宿――」
無機質な女性のアナウンスが、彼の思考を現実に引き戻した。
毎日、つまらない。
心の底からそう思う。
私立K高校二年B組、斉藤健太。十七歳。成績は中の上、運動神経は中の下。容姿も、まあ中の下といったところだろうか。クラスの中では特に目立つわけでもなく、かといっていじめられているわけでもない。数人の、当たり障りのない会話をする友人はいるが、親友と呼べるほどの相手はいない。所属している部活は、週二日の活動しかない文芸部。それも、ただ教室に集まって各自が好きな本を読んでいるだけの、名前ばかりの部活だ。
何も起きない。何も変わらない。
朝起きて、満員電車に揺られて学校へ行き、面白くもつまらなくもない授業を受け、放課後は部活で時間を潰し、再び満員電車で家に帰る。夕食を食べ、風呂に入り、深夜まで特に意味もなくスマートフォンの画面をスワイプし続け、眠りに落ちる。そして翌朝、また同じ一日が始まる。その無限に続くかのようなループ。それが、斉藤健太の「日常」だった。
何か劇的なことが起きないだろうか。
例えば、隕石が校庭に落ちてくるとか、テロリストが学校を占拠するとか、あるいは、ある日突然、自分にだけしか使えない特殊な能力が目覚めるとか。
そんな漫画やアニメで描かれるような非日常を、彼は心のどこかでずっと夢見ていた。だが現実は、非情なほどに凡庸で、残酷なまでに平穏だった。世界は、彼という存在がいようがいまいが、全く同じように回り続けるのだ。
「……はぁ」
ため息が、マスクの中で湿った空気に変わった。新宿駅のホームに降り立つと、人の波が一斉に彼へと押し寄せる。彼はその巨大な流れに逆らうこともできず、ただ流されるままに改札へと向かった。灰色の世界、灰色の人々。その群衆の中で、自分という人間がいかにちっぽけで無個性な存在であるかを、彼は毎日嫌というほど思い知らされていた。
その日の夜も、健太は自室のベッドの上で、いつものようにスマートフォンをいじっていた。SNSのタイムラインには、友人たちのいかにも「充実してます」と言わんばかりの投稿が並んでいる。テーマパークではしゃぐ写真、美味しそうなスイーツの写真、恋人とのツーショット。そのどれもが、彼の灰色の世界とは全く違う、カラフルできらきらとした光に満ちていた。
(……リア充は爆発しろ)
そんな使い古された呪いの言葉を心の中で呟きながら、彼は無意識のうちにアプリストアを開いた。何か面白いゲームでもないだろうか。この退屈な夜を、ほんの少しでも彩ってくれるような、何か新しい刺激を求めて。だがランキングの上位に並ぶのは、どれも見慣れたアイコンばかり。どれもこれも、代わり映えのしない量産型のゲーム。
「……つまんね」
彼は悪態をつくと、スマートフォンの電源を落とし、天井を見上げた。真っ暗な天井のシミが、まるで嘲笑うかのように彼の目に映った。明日もまた同じ一日が始まるのだ。そんな絶望にも似た諦念の中で、彼の意識はゆっくりと眠りの底へと沈んでいった。
翌朝。
健太の意識は、スマートフォンのけたたましいアラーム音によって、無理やり現実に引き戻された。彼は寝ぼけ眼をこすりながら、枕元に置いたスマートフォンを手探りで掴むと、アラームを止めた。まだ頭がぼーっとしている。二度寝の誘惑と戦いながら、彼はいつもの習慣でロック画面を解除し、アプリの一覧画面を表示させた。
その瞬間――彼の眠気は、完全に吹き飛んだ。
「……え?」
思わず声が漏れた。
見慣れたアプリのアイコンが並ぶ三ページ目。その右下の隅に、一つだけ全く見覚えのないアイコンが存在していたのだ。
黒を基調とした禍々しいデザイン。血のような赤い文字で、殴り書きされたかのようにデザインされたアルファベットのロゴ。
『KAII HUNTER』
怪異ハンター……?
なんだこのアプリは。
彼は昨夜、アプリストアで何かをダウンロードしただろうか? いや、していないはずだ。ランキングを眺めて、結局何もインストールせずに眠ったはずだ。だとしたら、一体なぜ?
ウイルスか? それとも、誰かの悪戯か?
健太の胸に、不審と、ほんの少しの好奇心が入り混じった奇妙な感情が湧き上がった。普通なら、ここでアンインストールするのが正解なのだろう。得体の知れないアプリなど、ろくなものではない。だが――
彼の指は、まるで何かに引き寄せられるかのように、その禍々しいアイコンへと伸びていた。
(……なんだこれ……)
ほんの出来心。退屈な日常に差し込んだ、ほんの小さなノイズ。それを確かめたいという抗いがたい欲求。彼はごくりと喉を鳴らすと、意を決してそのアイコンをタップした。
画面が暗転し、血飛沫のようなエフェクトと共にロゴが大きく表示された。重低音の不気味なサウンドエフェクトが鳴り響く。まるで、ホラーゲームのオープニングのようだ。
やがて画面が切り替わり、目の前に一つのメッセージウィンドウが表示された。
『――ようこそ“選ばれし者”よ。これより汝に、世界を変える力を授ける――』
「……うわっ、厨二病くっせぇ……」
思わず素で悪態が漏れた。あまりにもベタで安っぽい演出。だが彼は、なぜかその画面から目を離すことができなかった。
メッセージウィンドウの下に、『同意する』というボタンだけが、不気味に明滅している。
(……まあいいか。どうせただのゲームだろ)
彼はほとんど何も考えずに、そのボタンを押した。
すると、画面が再び切り替わり、新しいウィンドウが開く。そこには二つの大きなボタンが表示されていた。
【怪異レーダーを解禁しました!】
【能力ガチャが解禁されました!】
『まずは能力ガチャで、汝だけの力を得るが良い!』
そんなメッセージと共に、『能力ガチャ』のボタンが強く発光した。
「……能力ガチャ……?」
なんだそれは。普通のゲームなら、キャラクターガチャとか装備ガチャのはずだ。「能力」という単語に、健太は微かな違和感を覚えた。だが、彼の心はすでに、この奇妙なアプリの世界観に引き込まれつつあった。
彼は促されるままに、『能力ガチャ』のボタンをタップした。
画面が切り替わり、目の前に現れたのは、宇宙空間のような背景の中央に巨大な水晶が一つだけ浮かんでいるという、シンプルなガチャ画面だった。水晶の下には『初回無料! 10連ガチャを回す!』というボタンが、これまた誘うように輝いている。
「……初回無料、ねぇ」
この手のゲームのお決まりのパターンだ。どうせ最初はたいしたものは出ないのだろう。彼はもう完全に、これを普通のスマートフォンゲームだと思い込んでいた。彼は躊躇うことなく、そのボタンを押し込んだ。
瞬間。
画面の中の水晶が、まばゆい光を放ち始めた。虹色の光が渦を巻き、激しく明滅する。派手な演出だ。そして一体ずつ、ガチャの結果がポップアップ表示されていく。
『R:発火能力(小)』
『R:身体能力強化(弱)』
『N:ハズレ』
『N:ハズレ』
『SR:氷結の槍』
やはり大したものはない。SRが一枚出ただけでも、マシな方か。彼がそう思い、最後の結果を待っていたその時だった。
今までとは比較にならないほどの凄まじい光が、スマートフォンの画面から溢れ出した。虹色ではない。純粋な、神々しいとさえ思えるほどの黄金色の光。
ゴウッ――とスピーカーから地鳴りのような効果音が鳴り響き、画面が激しく振動する。そしてゆっくりと、最後の一枚の結果が表示された。そこには今までとは全く違う、豪華な装飾が施されたプラチナ色のフレーム。そして、三つのアルファベットが誇らしげに輝いていた。
『SSR:念動力』
「……エスエスアール……」
健太は呆然とその文字を呟いた。最高レアリティだ。まさか初回無料で引き当ててしまうとは。自分の豪運に、彼は少しだけ興奮していた。
ガチャの結果画面が閉じ、再びホーム画面に戻る。するとそこには、新しいメッセージが表示されていた。
『おめでとう! 汝は強大な力を手に入れた! 早速、その力を試してみるが良い!』
「……試すって言われてもな」
ベッドから起き上がり、制服に着替えながら、彼は少しだけ冷めた頭で考えていた。念動力――サイコキネシス。つまり、触れずに物を動かす力ということか。もし本当にそんな力が使えたら、それはすごいことだ。だが、そんな非現実的なことがゲームアプリ一つで手に入るわけがない。
(まあ、ゲーム内でのスキルってことなんだろうな)
彼はもうほとんど、このアプリへの興味を失いかけていた。朝食を食べるために自分の部屋を出て、階段を降りようとしたその時だった。
「あ、やべ」
足を滑らせ、手からスマートフォンが滑り落ちた。それは宙を舞い、硬いフローリングの床へと吸い込まれていく。画面が割れる――そう思った瞬間。
彼の頭の中に、一つの強いイメージが浮かんだ。
(――止まれ!)
それは、ほとんど無意識の、本能的な叫びだった。
その刹那。
床に激突する寸前で、彼のスマートフォンはぴたりと――まるで時間が止まったかのように、空中で完全に静止したのだ。
「…………え?」
健太は目の前の光景が信じられなかった。彼のスマートフォンは、重力という物理法則を完全に無視して、床から数センチの位置にぷかと浮かんでいた。
何だこれ。何が起きた。
彼の頭は完全にパニックに陥っていた。
「……動け」
彼がそう念じた。するとスマートフォンは、彼の意思に応えるようにゆっくりと上昇を始めた。ふわりと、彼の目の前の高さまで浮かび上がってくる。
「……こっちに来い」
スマートフォンがすーっと、彼の掌の上へと寸分の狂いもなく着地した。
ひんやりとした無機質な感触。それは紛れもなく現実だった。
「……うそ……だろ……」
彼はわなわなと震える自分の手と、そこに収まるスマートフォンを交互に見比べた。
『SSR:念動力』
アプリの画面に表示されたあの言葉が、彼の脳裏をよぎる。まさか。本当に――?
彼は試しに、机の上に置いてあったテレビのリモコンへと意識を集中させた。
(――浮け)
リモコンがカタ、と小さく音を立てた。そしてゆっくりと、ぎこちない動きで宙へと浮かび上がる。
「……なにこれ……」
彼の口から、驚愕と歓喜と、そしてほんの少しの恐怖が入り混じった、かすれた声が漏れた。
「すげー……! なんだこれ、すげー! このアプリ、本物だ! 本物だぞ……!」
彼はもはや、自分の部屋に母親が朝食だと呼びに来る声も聞こえていなかった。ただ目の前の超常現象に、子供のように夢中になっていた。彼は次々と部屋の中にあるものを浮かべていった。ペン、教科書、飲みかけのペットボトル、椅子――そのどれもが彼の意思のままに、まるで無重力空間にいるかのように、部屋の中を自由に浮遊し始めた。
灰色の世界が、音を立てて崩れていく。
その代わりに現れたのは、無限の可能性に満ちた、きらきらと輝く新しい世界だった。
斉藤健太はこの日、十七年間の凡庸な人生に終わりを告げた。
それからの数日間。健太の日常は一変した。
学校での授業中、彼は誰にも気づかれないように、足元の消しゴムを念動力で浮かせて遊んでいた。最初は数センチしか持ち上げられなかったが、繰り返すうちに、次第にその動きは滑らかになり、制御も正確になっていった。
彼は、あの謎のアプリ『KAII HUNTER』に完全にのめり込んでいた。
アプリを開くと、そこには膨大な数の「クエスト」が用意されていた。
『デイリークエスト:能力を1回使用せよ』
『デイリークエスト:能力を10回使用せよ』
『デイリークエスト:能力を100回使用せよ』
『ウィークリークエスト:総計1000回能力を使用せよ』
それは、まるで何かの作業をこなすかのように、ただひたすらに能力の使用回数を要求してくる単純なクエストばかりだった。怪異を討伐するといった実践的なクエストもあるにはあったが、今の健太はまだそちらに手を出す勇気はなかった。
彼はまず、手に入れたこの素晴らしい「力」そのものに、もっと慣れたかったのだ。
クエストをクリアすると、報酬として「スキルポイント」が貰える。そのポイントを使うことで、『念動力』のスキルツリーを解放し、能力をさらに強化していくことができるのだ。
【出力強化 LV.1】
【操作精度向上 LV.1】
【同時操作可能数増加 LV.1】
まるで本物のゲームのようだった。いや、これはもはやゲームを超えた「現実」なのだ。
健太は憑かれたように、それらのクエストをこなしていった。休み時間、通学の電車の中、自室のベッドの上。彼は誰にも気づかれないように、ひたすら小さな物体を念動力で動かし続けた。ポケットの中の百円玉、カバンの中のボールペン、靴の中の小石。
その行為は傍から見れば、ただスマートフォンをいじっているだけに見える。だが彼の内側では、凄まじい速度で「力」が成長し、研ぎ澄まされていく実感があった。
クエストをこなし、スキルポイントを得て、能力を強化する――その無限のループ。
灰色の日常は、もはやどこにもなかった。世界は彼を中心に回っているかのような、輝かしい全能感に満ちていた。
退屈な授業も、今は絶好の「レベル上げ」の時間だ。鬱陶しい満員電車も、今は格好の「修行」の場だ。
「――斉藤。おい、斉藤!」
「……え、あ、はい!」
不意に名前を呼ばれ、健太ははっと我に返った。数学教師が呆れた顔で彼を睨みつけている。どうやら授業中に別のことを考えていたのがバレてしまったらしい。クラスの数人が、くすくすと笑っている。
以前の彼なら、ここで顔を真っ赤にして俯いていただろう。だが今の彼は違った。
(……なんだよ)
彼は誰にも聞こえない声で、心の中で悪態をついた。
(何も知らないくせに。俺が、お前らとは違う“特別”な存在になったってことも知らないで、馬鹿みたいに笑いやがって……)
じろりと。彼は自分を笑ったクラスメイトの一人を、冷たい目で見つめた。そして、ほんの少しだけ意識を集中させる。
(――転べ)
その瞬間。クラスメイトが座っていた椅子の脚が、ガタンと不自然に大きく揺れた。
「うわっ!?」
クラスメイトはバランスを崩し、見事に椅子からずり落ち、床に尻餅をついた。教室中が、どっと笑いに包まれる。
「ははは、何やってんだよ田中!」
「だっせー!」
教師の注意も、完全にそちらへと逸れていった。
健太は、そんな光景を冷めた目で見つめていた。彼の口元には、今まで浮かべたことのないような、微かな、そして歪んだ笑みが浮かんでいた。
――面白い。
なんて面白いんだろう。
この力があれば、何でもできる。気に入らない奴を、こっそり不幸にすることもできる。誰も、自分がやったことだとは気づかない。
神様にでもなったような気分だった。
そして彼はまだ知らない。
この、あまりにも都合が良く、甘い蜜のような「ゲーム」が、ただのゲームではないということを。クエストをクリアし、力を強化していくその行為が、見えざるアプリの管理者にとって、一体何を意味するのか。
そして、その規格外の成長速度が、すでに東京の裏側で暗躍する二つの巨大な組織の観測網に、明確なシグナルとして捉えられているということを。
斉藤健太、十七歳。
彼の神様ごっこは、今始まったばかりだった。
そしてその遊びの終わりが、彼が想像するよりも遥かに早く、そして残酷な形で訪れることになるということを、彼はまだ知る由もなかった。




