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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第14話 社畜と野良猫と不可視の観測者

 八咫烏ヤタガラス本部、作戦指令室。

 その部屋は常に冷たい静寂と、高性能サーバーの低い駆動音に満たされている。壁一面を埋め尽くす巨大なモニターには、日本全土の霊的エネルギーの流れを示す複雑怪奇なマップが、リアルタイムで表示されていた。青く穏やかな霊脈の河、都市部に澱むように存在する赤黒い瘴気の溜まり場、そして時折、警告のように明滅するオレンジ色のシグナル――それは常ならざる者たちの活動の兆候。


「……それで? 面倒ごとってのは、一体何の話ですか」


 鈴木太郎は、自販機で買ったばかりのぬるい缶コーヒーを片手に、全くやる気のない声で言った。彼の視線の先、指令室のコンソールデスクに腰掛けるのは、直属の上司である烏沢係長。眼鏡の奥の瞳は、いつものように感情を読み取らせない鋭い光を宿していた。


「まあ、そう面倒臭がるな、鈴木特務官。君たちにとっては、散歩程度の軽い任務になるはずだ」


 烏沢はそう言って、手元のタブレットの画面をスワイプした。壁のメインモニターに、東京都 K 市の衛星写真といくつかのデータファイルがポップアップ表示される。


「ここ最近、この K 市西部、特に多摩川沿いのエリアで、小規模な『怪異消滅反応』が断続的に観測されている」


「怪異消滅反応……。誰かが怪異を討伐したってことですか」


 隣に立っていた日向葵が、真剣な表情で問いかける。手には、支給されたばかりのお茶のペットボトルが握られていた。


「その通りだ。だが、問題はそこじゃない」


 烏沢は指でモニター上の一点をタップした。


「我々のデータベースに記録されている、このエリアを担当するエージェント、および近隣に在住する日本退魔師協会所属の術師による活動記録は、この期間中、一切ない。つまり――」


「――つまり、記録にない誰かが、勝手に怪異退治をして回ってるってことか」


 鈴木が、烏沢の言葉を引き継ぐように言った。その声には、面倒ごとに対する明確な嫌悪感が滲んでいた。


「まあ、国内ではわりとある事例だろう? 力に目覚めちまった素人が、正義感に駆られて夜な夜なパトロールってか。あるいは腕試しで、そこらの雑魚を狩ってるだけか。どっちにしろ、放っておきゃそのうち痛い目見てやめるだろ」


「通常であれば、君の言う通りだ」


 烏沢は静かに頷いた。


「未登録の能力者が増長して、手に負えないレベルの怪異に手を出して自滅する。あるいは力を悪用し始めて、我々の討伐対象となる。そのどちらかのパターンがほとんど。わざわざこちらから積極的に介入するほどの事案ではない。だが――」


 彼は再びモニター上のデータを指し示した。そこには消滅反応が観測された日時のリストが表示されている。間隔は、ほぼ二日おき。そして反応レベルは、常に怪異の中でも最下級とされる Tier4 で安定していた。


「――今回は少し様子が違う。この未登録能力者……我々はコードネームで『K 市のゴースト』と呼んでいるが、彼は非常にクレバーだ。自分の実力で確実に処理できる相手しか狙わず、深入りもしない。そして、討伐後の痕跡処理も素人とは思えないほど手際が良い。まるで、誰かから戦闘の基礎を学んでいるかのようだ」


「へぇ……」


 葵が感心したように声を上げた。隣では長谷川蓮が、真剣な眼差しでモニターの情報を食い入るように見つめている。彼もまた、つい先日まで「素人」の側にいた人間だ。この「ゴースト」の存在に、何か思うところがあるのかもしれない。


「で、俺たちにその『ゴースト』を捕まえてこいと? ご冗談でしょ。もっと暇な部署に回してくださいよ。俺たちは今、先日手に入れた新しいソファの感触を確かめるので忙しいんだ」


「もちろん捕獲しろとまでは言わん。ただ接触し、その素性と目的を確認してほしい。もし有望な『原石』であれば、蓮君のようにスカウトするのも良い。逆に、危険な思想を持つ人物であれば、早期に芽を摘んでおく必要がある。……一番厄介なのは、例の知性型怪異の一味が、新たな戦力を育成するために裏で糸を引いているパターンだがね」


 烏沢の言葉に、部屋の空気がわずかに緊張した。


「……なるほどな。まあ、言いたいことは分かりましたよ」


 鈴木は観念したように息を吐くと、缶コーヒーの最後の一口を飲み干し、近くのゴミ箱へと正確に投げ入れた。カランと乾いた音が響く。


「K 市か……。ここからだと、まあまあ近いな」


「うむ。電車で行くのもいいが、君たちの装備もある。車を出そう。葵特務官、運転は頼んだぞ」


「はいっ! お任せください!」


 葵が、待ってましたとばかりに元気よく敬礼した。


 こうして鈴木班の新たな任務――『K 市のゴースト』追跡調査は、うららかな初夏の昼下がり、実にのんびりとした雰囲気の中で開始されることとなった。


 八咫烏が手配した黒いセダンが、高速道路を滑るように走っていた。ハンドルを握るのは上機嫌な日向葵。助手席には、早くも退屈そうに窓の外を眺めている鈴木。そして後部座席では蓮が、タブレット端末で現場周辺の地図や過去の事例を、真剣な表情で確認していた。


「それにしても能力者かー。どんな人なんですかね?」


 葵が鼻歌交じりに言った。


「やっぱ蓮君みたいに若い人なのかな? 力に目覚めて、正義感に燃えちゃった的な!」


「……俺は別に、正義感で動いていたわけじゃ……」


 後部座席から、蓮がぼそりと反論する。


「あるいは、すごいお爺ちゃんとか! 長年、人知れず町の平和を守ってきた隠れた達人みたいな!」


「ねぇよ、そんな漫画みたいな展開」


 助手席から鈴木が、即座にそれを否定した。


「十中八九、厨二病拗らせたガキだろ。動画サイトか何かでヒーローごっこしてる奴の動画でも見て、『俺もやれるんじゃね?』とか思ったクチだ。賭けてもいい」


「もー、先輩は夢がないんですから! 記憶喪失なのに、そういうとこだけ、やけに現実的ですよね!」


「記憶がなくても、人間の行動パターンの基本は変わらん。承認欲求と自己顕示欲。それが暴走する、一番面倒な時期の人間が、一番それっぽいって話だ」


 そんな、いつも通りの他愛ない会話を続けているうちに、車は目的の K 市へと到着した。都心のような喧騒はなく、かといって蓮の故郷のような長閑さとも違う、どこにでもある穏やかな郊外の住宅街。


「それで先輩。どこから当たります? 反応があった場所、結構広範囲に点在してますけど」


 葵が車を路肩に止め、尋ねた。


「一番新しい反応があった場所でいい。そこからだ」


 鈴木はタブレットの地図を指差した。それは多摩川の河川敷に隣接した古い公園だった。平日の昼間ということもあり、公園には人影はまばらで、数人の子供が遊んでいるだけ。三人はごく普通の私服姿で車を降りると、何気ない様子で公園内を歩き始めた。一見すると、散歩に来た若者グループにしか見えない。


「……ここで間違いないようだな」


 鈴木は、公園の一角、大きな木の根元で立ち止まった。そこには素人目には何も見えない。だが彼の『天理の眼』は、その場所に残された微細な霊力の痕跡――数日前に二つの異なる霊的エネルギーが衝突し、そして一方が完全に消滅したという事実を、正確に読み取っていた。


「うん、間違いないですね。確かにここで怪異が消滅してます。霊力の残滓から見て、そんなに強い個体じゃなかったみたいだけど」


 葵も、自らの索敵能力で周囲を探りながら同意する。


「だが、これだけじゃ『ゴースト』の手がかりは掴めんな。さて、どうしたものか」


 鈴木は腕を組み、少しだけ考える素振りを見せた。そして、葵へと向き直った。


「葵」


「はい、先輩」


「状況再現結界、頼む。日時は最後に反応があった三日前の夜だ。何か映像として捉えられるかもしれん」


「了解です! やってみます!」


 葵は頷くと、公園の中でも特に人目につかない、木々が密集した場所へと移動した。そして両の手のひらを、地面から数センチ離した位置でかざし、目を閉じて意識を集中させる。


「――『光陰遡行・限定投影リプレイ・フィールド』」


 掌から淡い翠色の霊力が波紋のように広がり、周囲の空間に染み込んでいく。これは、その場所に残された記憶の断片――残留思念や霊力の痕跡を読み取り、過去の出来事を映像として再現する高度な索敵・調査系の術だ。彼女の Tier3 という等級は、単純な戦闘能力だけでなく、こうした多彩な補助能力も含めての評価だった。


 数秒後、目の前の空間が、まるで陽炎のように揺らめき始めた。景色そのものは変わらない。だがその上に、まるで古いフィルム映画の映像が重ねられるように、半透明の光景が浮かび上がってきた。


 時刻は夜。公園の街灯がぼんやりと周囲を照らしている。そこに一匹の怪異がいた。下水溝のヘドロが意思を持ったかのような、不定形の醜い姿。それは飢えたように蠢きながら、何かを探していた。


 そこへ、一人の少年が歩み寄ってくる。服装は近くの高校のものと思われる制服。歳は十六、七歳といったところか。平凡な顔立ち。少し猫背気味で、どこか頼りなげな印象すら受ける。


「――学生か」


 鈴木がぽつりと呟いた。


「力に目覚めて、ちょっと力試しって感じか? それとも、ここが心霊スポットとかいう噂でも聞いて、肝試しに来たら偶然、怪異と遭遇しちまったパターンか……」


 映像の中の少年は、怪異を前にして怯む様子はなかった。彼はやおら制服のポケットから、何かを取り出した。それは一見すると、ただのスマートフォンのようだった。画面を数回タップする。すると彼の周囲の空間から、まるでゲームのエフェクトのように青白い光の粒子が立ち上り、その手に収束していく。光が形になった時、そこには一振りの光り輝く剣が握られていた。


「……武器生成の能力?」


 蓮が、驚きと興味が入り混じった声で言った。彼の能力とも少し似ている。だが蓮のように、既存の物質を組み替えるのではなく、霊力そのものを直接、物質化させているようだった。


 少年は慣れない手つきながらも、しかし迷いのない動きで剣を構え、怪異へと斬りかかった。怪異もヘドロの触手を伸ばして反撃するが、光の剣がそれに触れた瞬間、触手は音もなく蒸発していく。浄化の力が宿っているらしい。数合の斬り合いの後、少年は大きく踏み込み、渾身の一撃で怪異の胴体を真っ二つに切り裂いた。怪異は断末魔の叫びを上げる間もなく、光の中に溶けるようにして消滅していった。


「……見事なもんだな」


 鈴木はどこか感心したように言った。動きは粗削りで無駄が多い。だが、その剣筋には一切の躊躇いがなかった。そして何より、彼は自分の能力の特性をよく理解して戦っている。


 怪異を倒した後、少年は光の剣を再び光の粒子へと還すと、何事もなかったかのようにスマートフォンをポケットにしまい、公園を立ち去っていった。その背中には、達成感も高揚感も見られなかった。ただ、まるでそれが日課であるかのように淡々としていた。


 やがて過去の光景は陽炎のように掻き消え、公園は元の穏やかな昼下がりの姿へと戻った。


「……どう思います、先輩?」


 葵が興奮冷めやらぬ様子で尋ねた。


「うーん……。思ったより手強いっていうか、しっかりしてますね、あの子。『ゴースト』君」


「ああ。確かに、ただの厨二病のガキってわけじゃなさそうだ」


 鈴木も同意した。あの落ち着き払った様子は、とても初めて怪異と戦った人間のそれではない。ある程度の戦闘経験を積んでいる。そして何より、彼は自らの力を誰かに見せびらかすでもなく、ただ淡々と人知れず怪異を狩っている。――その動機が、まだ見えなかった。


「……事情を聞きたいところだが、下手に接触して警戒されても面倒だな。どうやって補足したものか……」


 力尽くで捕まえるのは簡単だ。だがそれでは、彼の情報を引き出すことは難しいだろう。それに、もし彼が本当に有望な『原石』だった場合、八咫烏に対する最初の印象を、最悪なものにしてしまう。


 鈴木は数秒間、顎に手を当てて思考を巡らせた。そして、一つの結論に達した。


「……まあいい。とりあえず、ここら辺一帯に網を張るぞ」


「網ですか?」


「ああ」


 鈴木はそう言うと、スーツの内ポケットから一枚の何の変哲もない白い紙を取り出した。そしてその紙を、両手の指先で器用に折り畳んでいく。それはあっという間に、一羽の精巧な紙の鳥の形になった。


「――『飛燕ひえん』」


 短くそう呟き、紙の鳥に微量の霊力を吹き込む。すると紙の鳥は、まるで命を宿したかのようにぱさりと翼を広げ、指先からふわりと飛び立った。それは音もなく空へと舞い上がり、あっという間に青空の中に溶けて見えなくなった。


「これをあと百羽ほど、このエリア一帯に放つ」


 彼は事もなげに言った。


「こいつらは俺の目であり耳だ。上空からこの周辺の霊力の動きを二十四時間体制で監視する。例の『ゴースト』が再び現れて能力を使えば、即座にこいつらが反応し、俺に知らせてくれる手筈だ」


「ひゃ、百羽もですか!?」


 葵が目を丸くする。一度に百体以上の式神を、これほど広範囲に展開しかつ精密にコントロールするなど、常人には到底不可能な芸当だった。


「すごい……。これなら確実に、相手の尻尾を掴めますね」


 蓮も、鈴木の規格外の能力に改めて感嘆の息を漏らした。


「ああ。だからしばらくは、網にかかるのを待つ。それまでは――」


 鈴木はふっと表情を緩め、どこか楽しげな悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「――俺たちは、この平和な町で休暇でも楽しむとしようじゃないか」


「えっ!? きゅ、休暇ですか!?」


「先輩、それ本気で言ってます!?」


 突然の提案に、葵と蓮は目を白黒させる。だが鈴木は、すでに踵を返し、車を止めた方へと歩き出していた。


「おい、いつまで突っ立ってる。この辺に美味いラーメン屋でもあるか、さっさと調べろ。経費で落ちるうちに、美味いもんでも食うぞ」


 その背中はもはや厳格な上官のものではなく、仕事をサボる口実を見つけて少しだけ浮かれている、ただの面倒くさがりな男のそれだった。


 こうして『K 市のゴースト』を巡る、鈴木班の奇妙で、そして少しだけのんびりとした追跡調査が、その幕を開けた。


 彼らはまだ知らない。この平凡な学生『ゴースト』との出会いが、やがて彼らを、この町の穏やかな日常の裏側に潜む、より深くそして根深い闇へと引きずり込んでいくことになるということを。

 そして、彼らが張った広域監視網――無数の鳥型式神が上空から見下ろすその景色の中に、学生『ゴースト』だけでなく、全く別の得体の知れない“何か”が、同じように『ゴースト』を“観測”していることに、まだ誰も気づいてはいなかった。


 空はどこまでも青く、高く、澄み渡っていた。

 社畜のささやかな休日(という名のサボり)が、今、始まろうとしていた。


 その日の午後。

 鈴木班の三人は、地元の情報サイトで高評価を得ていた、昔ながらの中華料理屋で遅い昼食をとっていた。


「んー! このチャーハン、美味しい! パラパラだけど、ちゃんとシットリしてて!」


 葵はレンゲを持つ手が止まらないといった様子で、山盛りのチャーハンを頬張っている。


「この餃子も……。皮はカリッとしてるのに、中は肉汁がすごい……」


 蓮も、初めて食べる本格的な餃子の味に、静かな感動を覚えていた。


 そして鈴木は――。


「……まあ、悪くない」


 大きな丼になみなみと注がれた、昔ながらの醤油ラーメンのスープを一口すすると、短く、しかし確かに満足げな表情でそう呟いた。


 仕事の合間(という大義名分)に、経費で美味いものを食べる。これぞ社畜が享受できる、数少ない幸福の一つである。前世の記憶が、彼の身体の奥底でそう告げていた。


「でも、本当に良かったんですかね? こんなのんびりしてて」


 餃子を頬張りながら、蓮が心配そうに尋ねた。


「いいんだよ、これで。下手に動き回って相手に警戒されるより、向こうから動くのを待った方が確実だ。それに、敵がどういう相手かも分からんうちに手の内を晒すのは、三流のやることだ」


 鈴木はラーメンの麺をすすりながら、もっともらしい理屈を並べた。実際、その言葉には一理ある。だが口調の端々から、「単純に働くのが面倒くさい」という本音が、隠しきれずに滲み出ていた。


「それにだ」


 ふと何かを思い出したように顔を上げた。その目は、少しだけ真剣な色を帯びていた。


「お前らも、たまにはこういう普通の飯を食って、普通の空気に触れとけ。俺たちはこういう『普通』を守るために、面倒な仕事をしてるんだってことを忘れねぇためにな」


 その言葉は、彼の口から出たとは思えないほどまともで、そして深みのあるものだった。葵と蓮は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった後、慌てて背筋を伸ばした。


「は、はいっ!」


「……心に刻んでおきます」


(……よし、上手くまとまったな)


 鈴木は内心でガッツポーズをしながら、再びラーメンへと向き直った。たまにこういうもっともらしいことを言っておけば、部下からの尊敬も得られるし、サボっていることへの罪悪感も薄れる。前世で培われた、巧みな中間管理職スキルだった。


 昼食を終え店を出た三人は、特に当てもなく川沿いの遊歩道を散策していた。うららかな陽光が水面に反射し、きらきらと輝いている。穏やかな時間が流れていた。


「……あ」


 不意に葵が短い声を上げた。彼女の視線の先――遊歩道のベンチに、一人の少年が座っていた。


 黒い制服。少し猫背気味の姿勢。スマートフォンを熱心に見つめている。先ほど状況再現結界の中で見た『ゴースト』と、全く同じ姿だった。


「……ビンゴだな」


 鈴木が、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。さすがにこんな偶然はないだろう。おそらく彼は、この河川敷を拠点の一つにしている。


「ど、どうします先輩!? 声かけますか!?」


 葵が小声で、興奮気味に尋ねる。


「馬鹿、やめろ。今話しかけてどうする。『あなた、昨日怪異倒してましたよね?』とでも言うのか。ただの不審者だろ」


「で、ですよね……」


「泳がせるしかない。あいつがどこに住んで、どこで何を考えているのか。しばらくは、ただ見ているだけだ」


 鈴木の冷静な判断に、葵と蓮は頷いた。三人は少年に気づかれないよう、ごく自然な距離を保ちながら、彼を視界の隅に捉え続けた。


 少年はしばらくベンチに座ってスマートフォンをいじっていたが、やがて立ち上がると住宅街の方へと歩き始めた。三人も気配を殺しながら、その後を追う。それはさながら、探偵ごっこのようだった。


 少年がたどり着いたのは、ごく普通の一軒家。表札には「高橋」と書かれている。彼は慣れた様子で玄関のドアを開け、中へと入っていった。


「……なるほどな。高橋君か」


 物陰からその様子を窺っていた鈴木は、納得したように頷いた。


「家も割れた。学校も、あの制服から調べりゃすぐに分かるだろう。今日のところはこれくらいで十分だな。撤収するぞ」


「了解です!」


 これ以上ないほど順調な調査の滑り出しに、葵も満足げだった。


 だがその時。

 鈴木はふと、言いようのない違和感を覚えていた。


(……なんだ?)


 ――視線。

 誰かに見られているような、奇妙な感覚。


 彼は何気ない様子を装いながら、鋭く周囲を観察した。『天理の眼』が、空間を流れる霊力の微細な乱れをスキャンしていく。葵や蓮はまだ、何も気づいていない。


(……気のせいか……?)


 敵意も殺気も感じられない。だが確かに、そこに“いる”。まるで高みの見物を決め込んでいるかのような、不可視の観測者の存在。


 鈴木は、先ほどまで高橋少年が歩いていた道――その遥か上空の一点に意識を集中させた。そこには物理的には何もない。だが彼の魔眼は、その一点だけ空間がレンズのように微かに歪んでいるのを捉えていた。光学迷彩。あるいは、空間そのものを屈折させる高度な隠蔽系の術。


(……面白い。俺の『飛燕』以外にも、高橋君を観察している奴がいるとはな)


 そいつは一体誰なのか。例の知性型怪異の一味か。あるいは、八咫烏とも退魔師協会とも違う、全く別の第三勢力か。


 鈴木は、あえて気づかないフリをした。ここで下手に視線を向ければ、相手にこちらの索敵能力の高さを知らせてしまうことになる。それは得策ではない。


「……先輩? どうかしました?」


 彼の奇妙な沈黙に、葵が不思議そうな顔で尋ねた。


「……いや、何でもない。さて帰るか。今日の報告書、どう書くかな……。『ラーメンが美味かった』とでも書いておくか」


「そんなんで通るわけないでしょ!」


 いつもの軽口を叩きながら、鈴木の思考はすでに次のステージへと移行していた。


 ただの素人能力者だと思っていた高橋少年。

 だが彼の周囲には、すでに複数の勢力の思惑が渦巻いている。


 これは思ったよりも面倒で、そして面白いことになってきたのかもしれない。


 鈴木は、誰にも気づかれぬよう、口の端に微かな笑みを浮かべた。

 社畜の退屈しのぎには、ちょうど良い謎解きになりそうだった。

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