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転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~  作者: パラレル・ゲーマー


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第13話 社畜と雷獣と新しい足

 八咫烏ヤタガラス本部、地下三十階。

 機能美と無機質さが同居する広大な総合訓練場は、今や長谷川蓮にとって第二の我が家となりつつあった。鉄とコンクリート、そして未知のハイテク素材で構成されたこの空間には、彼が育った故郷の温かい木の香りなど微塵もない。だが、ここには彼が求めるすべてがあった。強さへと至る道筋、己の力を受け入れてくれる仲間、そして圧倒的な指標となる二人の先輩。


「――そこだっ!」


 鋭い呼気と共に、蓮の身体が床を滑るように駆け、模擬戦闘用ドローンの懐へと潜り込む。彼の右手に握られていたのは、使い慣れた木工用ののみではなく、八咫烏から支給された硬質チタン合金製のコンバットナイフだった。だが彼の戦い方は我流――木を彫る動きを応用した、予測不能な軌道を描く独特の剣術だった。刃がドローンの装甲の継ぎ目を、まるで木の節を削ぐかのように的確に捉える。火花が散り、甲高い金属音が響き渡った。


 その光景を訓練場の壁際で腕を組みながら見ていた日向葵は、満足げに頷いていた。


「んー、だいぶ様になってきたじゃん蓮君。最初の頃の、ただ振り回してるだけだったのが嘘みたい」


「……葵さんのおかげです」


 訓練メニューの合間、床に座り込んでタオルで汗を拭いながら、蓮は息も絶え絶えに答えた。彼の全身からは湯気が立ち上り、Tシャツはびっしょりと濡れている。だが、その瞳には以前のような焦りや不安の色はなく、確かな自信と充実感が宿っていた。


「いやいやー、私なんて基本を教えただけだって。やっぱ蓮君の才能がすごいんだよ。特に、自分の霊力を物質に流し込んで形状を操作するって能力。あれ、応用範囲が広すぎて普通は制御できないのに、蓮君は息をするみたいにやってのけるもんね」


 先日、公園で怪異の足を拘束した木の根の術。あれ以来、蓮は自らの『物質再構築能力』を戦闘に応用する訓練を重ねていた。床の素材を部分的に隆起させて盾にしたり、槍状に変形させて敵を攻撃したり。その力は、単純な戦闘員である葵にはない、トリッキーで強力な武器となりつつあった。


「……でも、まだまだです」


 蓮は悔しげに唇を噛んだ。「あの人」に追いつくには、まだあまりにも遠い。彼の脳裏に浮かぶのは、たった一人で戦局を支配する、あのぶっきらぼうな先輩の背中。


「ま、焦らず行こーよ、焦らず。あ、そういえばさ」


 葵は何かを思い出したように、きょろきょろと訓練場を見渡した。


「鈴木先輩、今日まだ顔見せてないね。珍しい。いつもならあのへんの壁に張り付いて、やる気なさそーにこっち見てるのに」


「……確かに」


 言われてみれば、いつも訓練が始まる頃には必ず姿を現す上官の姿が、今日に限ってどこにもなかった。サボりか、あるいは何か別の任務か。二人がそんなことを考えていた、その時だった。


 訓練場の最も奥にある、通常は閉鎖されている第一隔壁が、ゴウッと重々しい音を立ててゆっくりと開いていった。その向こう側はさらに広大な空間――あらゆる術式やエネルギー兵器の実験にも耐えうる、八咫烏でも最高レベルの強度を誇る第一訓練フィールドだ。滅多に使われることのないその場所から、ゆらりと一つの人影が現れた。


「――先輩!?」

「鈴木さん……」


 そこに立っていたのは紛れもなく鈴木太郎だった。いつものスーツ姿だが、その雰囲気はどこか違っていた。彼の周囲の空間が、まるで陽炎のように微かに揺らいで見える。それは、彼の内なる霊力が普段とは比較にならないレベルで活性化している証拠だった。


「よう。悪いな、ちょっと準備に手間取った」


 鈴木は気だるげに片手を上げると、まるで散歩でもするかのような足取りで、だだっ広い訓練場の中央へと歩いていく。彼のそのただならぬ様子に、葵と蓮はごくりと息を呑み、黙ってその後を見守った。


 鈴木は訓練場のど真ん中で立ち止まると、ふぅと一つ息を吐いた。そして、何もない空間に向かって静かに右手を差し出した。


「――そろそろ良いか。……『顕現いでよ』」


 呟きは命令だった。世界の理そのものに下される、絶対者の勅令。


 次の瞬間、鈴木の足元の空間が、まるで水面のようにぐにゃりと歪んだ。そこから凄まじい密度の霊力が奔流となって溢れ出し、一つの形を成していく。それは、蓮が自分の能力で行うような既存の物質を組み替える術ではなかった。無から有を、純粋なエネルギーから生命の形を創造する、まさに神の御業。


 渦巻く霊力の中心で眩い光が弾けた。バチッ! バチバチッ! と、空気を引き裂くような放電の音が訓練場全体に響き渡る。葵と蓮は思わず腕で顔を庇った。光と音が収まった時、そこに“それ”はいた。


 鈴木の傍らに、静かに佇む一匹の獣。


 大きさは大型犬ほど。しなやかで力強い四肢を持ち、その全身は深く吸い込まれるような蒼い毛皮で覆われている。いたちのようにも、狼のようにも見える鋭くもどこか気品のある顔立ち。だが何よりも目を引くのは、その全身を常に覆い、パチパチと火花を散らしている青白い雷光だった。それはただの装飾や威嚇ではない。獣そのものが純粋な雷のエネルギーによって構成されていることを示していた。


「……式神……?」


 葵が呆然と呟いた。彼女も式神についての知識はある。術師が霊力を分け与え使役する疑似生命体。そのほとんどは紙や木といった依り代を必要とし、これほどまでに実体化しかつ強大なエネルギーを内包する式神など、文献の中でしか見たことがなかった。


「ああ。式神方面の能力も、少しは強化しておこうと思ってな。昨日からずっと、こいつの設計図を頭の中で組んでたんだよ」


 鈴木はそう言うと、まるで愛犬にするかのように、その獣の顎の下を優しく掻いてやった。獣は気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと雷鳴が遠くで鳴るような低い喉鳴りを響かせた。


「こいつの名は『雷獣』。……まあ、見たまんまだが」


「ら、雷獣……」


 蓮は、伝説上の生き物が目の前にいるという事実に、ただ圧倒されていた。その蒼い獣から発せられる霊圧は、そこらの怪異など比較にならないほどに純粋で、そして強大だった。


「すすご……! すごいですよ先輩! なんですかこれ! めっちゃカッコいいじゃないですか!」


 最初に我に返ったのは、やはり葵だった。彼女は目をキラキラと輝かせながら、恐る恐る、しかし好奇心には逆らえない様子で雷獣に近づいていく。


「わわ、触ってもいいですか……? 感電しません?」


「ああ。こいつは俺の命令下にある。お前らを攻撃対象とは認識していない。……今はな」


「やったー!」


 葵は許可を得るや否や、雷獣の背中にそっと手を伸ばした。その指先が蒼い毛皮に触れた瞬間、パチッと小さな静電気が弾けた。


「……!?」


 葵の手がびりりと痺れる。大した威力ではないが、明確な拒絶だった。雷獣は鬱陶しそうに葵を一瞥すると、ふいとそっぽを向いてしまった。


「えーん、嫌われたー……」


「ははは。こいつはまだ生まれたてで、気位が高いんでな。俺以外の人間には、そう簡単には懐かん」


 鈴木は愉快そうに笑った。その顔は、いつもの面倒くさそうな社畜のそれではなく、自慢の新作を発表するクリエイターのような、僅かな得意気な色を浮かべていた。


「……で」


 鈴木は表情をすっと消すと、葵へと向き直った。その目は完全に上官のそれに戻っていた。


「葵。こいつと戦ってくれ」


「……へ?」


 葵の口から、間の抜けた声が漏れた。


「いやいやいや、無理ですよ! 何言ってるんですか!? こんな見るからにやばそうなのと、私が戦えるわけないじゃないですか!」


 彼女はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。冗談ではない。あの獣が放つプレッシャーは、今まで彼女が対峙してきたどんな怪異よりも強烈だ。勝てるビジョンが一ミクロンも見えなかった。


「安心しろ。それなりに戦闘能力は持たせたが、出力は全体の三割程度にリミッターをかけてある。それに、あくまで模擬戦だ。殺しはしない。……たぶん」


「“たぶん”って言いました!? 絶対言いましたよね!?」


「いいからやれ。これはお前の訓練でもあるんだ。格上の相手とどう戦うか、頭を使え。……それともなんだ? 後輩の蓮に先を越されても良いのか?」


「うぐっ……!」


 鈴木のその一言は、葵のプライドの最も柔らかい部分を的確に抉った。彼女は悔しそうに唇を噛むと、隣で心配そうに自分を見ている蓮の顔をちらりと見た。そうだ。自分は先輩なのだ。ここで怖気付いていては示しがつかない。


「……やります」


 彼女は覚悟を決めたように、一度だけ大きく深呼吸をした。


「やってやりますよ! たかがワンちゃん一匹に、この私が負けるわけないでしょ!」


 強がりを口にしながらも、彼女は戦闘態勢に入った。腰を低く落とし、全身の霊力を練り上げる。その瞳には、もはや先ほどまでのふざけた色はない。八咫烏のTier3エージェント、日向葵の顔だ。


「――始め」


 鈴木の冷たい声が、戦いの開始を告げた。


 最初に動いたのは葵だった。彼女は自らの最大の武器であるスピードを活かし、一瞬で雷獣の死角へと回り込む。だが――。


「――速っ!?」


 葵が回り込んだ先には、すでに雷獣の蒼い瞳があった。獣は葵の動きを完全に先読みしていたかのように、ゆったりとそちらに顔を向けて待っていたのだ。


(……まずい!)


 葵は即座に後方へと跳躍する。その瞬間、雷獣がいた場所の床が、バチィッ! という轟音と共に弾け飛んだ。獣の姿はない。ただそこには、蒼い電光の残滓だけが揺らめいていた。


「どこ……!?」


 葵は周囲の気配を必死に探る。だが、速すぎる。速すぎて目で追うことすらできない。それはまるで雷そのものだった。閃光が走り、気づいた時には全てが終わっている。あの圧倒的な速度。


「――上!」


 観戦していた蓮の鋭い声が飛ぶ。葵は咄嗟に頭上を見上げた。そこには、天井近くの空中から蒼い稲妻と化した雷獣が、牙を剥いて自分めがけて急降下してくる姿があった。


「くっ……!」


 葵は両腕をクロスさせ、霊力による防御障壁を瞬時に展開する。だが、間に合わない。雷獣の速度は、彼女の反応速度を遥かに上回っていた。


 ガァンッ!


 障壁はガラスのように砕け散り、葵の身体はまるでボールのように吹き飛ばされた。訓練場の壁に叩きつけられ、受け身を取ることもできず、ずるずるとその場に崩れ落ちる。


「……っつ……」


 全身を襲う痺れるような衝撃。リミッターがかけられているとはいえ、その一撃は葵の体力をごっそりと奪っていった。


「……どうした葵。もう終わりか?」


 鈴木の挑発するような声が響く。


「……冗談……じゃない……!」


 葵は歯を食いしばり、ふらつきながらも立ち上がった。服はところどころ焦げ、口の端からは血が滲んでいる。だが、その瞳の光はまだ死んでいなかった。


(……無理だ。スピードじゃ勝てない。だったら……!)


 彼女は作戦を切り替えた。足を止め、両の手のひらを地面につける。


「――『地網ちもう』!」


 彼女の霊力が蜘蛛の巣のように訓練場の床下全体へと広がっていく。それは直接的な攻撃術ではない。床全体を自らの感覚器官とすることで、敵の位置と動きを正確に把握するための広範囲索敵術だ。これなら、あの雷速の動きにも対応できる。


 バチッ!


 葵のすぐ右側で、再び雷光が迸る。今度は見えた。床を伝わる微細な振動と霊力の流れで、雷獣がどこに出現し、どう動くかを完璧に予測できる。葵は身体を捻り、紙一重でその突進を回避した。


「……ははっ! 見えたよ、あんたの動き!」


 葵の口元に不敵な笑みが浮かんだ。だが雷獣は構わず再び姿を消した。次々と、前後左右あらゆる方向から電光石火の奇襲が繰り返される。葵は『地網』によってそのすべてを予測し、最小限の動きでかわし続けた。彼女の周囲で何度も蒼い稲妻が炸裂する。それは、まるで嵐の中で舞い踊る蝶のようだった。


「すごい……。葵さん、あの動きに全部対応してる……」


 蓮は固唾をのんでその光景を見守っていた。だが、鈴木の表情は変わらない。


(……なるほどな。敵の土俵で戦うのをやめ、自分の得意なフィールドに引きずり込むか。判断は悪くない。だが……)


 鈴木の目は、葵が気づいていないこの戦いの本質を見抜いていた。


(……こいつは、ただ速いだけじゃねぇんだよ)


 確かに葵は雷獣の動きに対応し始めていた。だが、それはあくまで「防御」に過ぎない。攻撃に転じる隙がまるで見つけられないのだ。回避に全神経を集中させているため、反撃の一手を繰り出す余裕がない。このままでは霊力が尽きて、じり貧になるだけだ。


 そして、その時は思ったよりも早く訪れた。


「――はぁっ、はぁっ……!」


 葵の呼吸が乱れ始める。広範囲索敵術の維持は霊力の消費が激しい。額から玉のような汗が流れ落ちる。


「……そこまでだ」


 鈴木の試合終了を告げる声が響いた。その瞬間、嵐のように吹き荒れていた雷獣の猛攻がぴたりと止んだ。獣は何事もなかったかのように鈴木の足元へと戻り、再び静かに佇んだ。


「……うわー、無理です。早すぎますって……!」


 緊張の糸が切れた葵は、その場にぺたんと座り込んだ。悔しさと、圧倒的な実力差を前にした徒労感で、その表情は複雑だった。


「ははは。まあ、触れられもしなかったな。いい経験になっただろ」


 鈴木はどこか満足げに言った。


「まあな。触れたら感電するようになってるから、触れないほうが身のためだが」


「やっぱりそうなんですか! ひどい!」


「だが、あの状況で『地網』を使った判断は良かったぞ。スピードがダメなら索敵能力で補う。その発想の転換は褒めてやる」


 珍しく上司からストレートに褒められ、葵は少しだけ照れたように「えへへ……」と笑った。


「で、どうだ。こいつのスピードは、なかなかのもんだろう?」


 鈴木は、まるで自分の子供を自慢するかのように、足元の雷獣の背中を撫でた。雷獣は再び気持ちよさそうに喉を鳴らしている。


「すごいなんてもんじゃないですよ……。あれ、移動手段としても使えるんじゃないですか?」


「ああ。そのつもりで作った」


 鈴木はそう言うと、ひらりと手慣れた様子で雷獣の背中に跨った。それは、まるで騎士が愛馬に跨るかのような、自然で美しい動きだった。


「――行け」


 短い命令と共に雷獣が動いた。次の瞬間、鈴木の姿は蒼い稲妻と化し、訓練場の端から端までを瞬きする間に駆け抜けていた。


「……うおっ……!」


 蓮が驚きの声を上げる。あまりにも速く、そして滑らかな移動。風を切る音だけを残して、鈴木は出発点へと戻ってきていた。髪の一筋も乱れていない。


「どうだ。これなら車より速くて、小回りも利く。都内の怪異退治なら、こっちのほうが効率が良いかもしれん」


「ずるい! ずるいですよ先輩! 私も乗らせてください!」


 葵が先ほどの模擬戦の悔しさも忘れ、子供のように目を輝かせながら駆け寄ってきた。その瞳は、新しいおもちゃを欲しがる子供のそれだった。


「……おいおい」


「いいじゃないですかー! ちょっとだけ! ね? ね?」


 葵は鈴木のスーツの袖を掴み、ぶんぶんと揺さぶる。そのあまりのしつこさに、鈴木はやれやれと首を振り、一つため息をついた。


「……分かったよ。雷獣」


 彼は足元の式神に静かに語りかけた。


「――そこの二人、葵と蓮は雷撃の対象外とインプットしておけ。攻撃も、乗せることも許可する」


 グルル――と。雷獣は主の言葉を理解したように低く鳴くと、その蒼い瞳で葵と蓮の姿をじっと見つめた。まるで、二人の霊的パターンをスキャンし記憶しているかのようだった。そして、こくりと小さく頷いてみせた。


「やったー! ありがとう、雷獣ちゃん!」


 許可が出るや否や、葵は喜び勇んで雷獣の背中にひらりと跨った。先ほどとは違い、今度は雷獣も彼女を拒絶する素振りは見せない。


「おおー! ふかふかだ! 静電気も来ない!」


 葵は蒼い毛皮の感触を堪能しながら、子供のようにはしゃいでいる。


「じゃあ、ちょっと行ってくるね! 行けー! 雷獣ちゃん!」


 彼女がそう叫んだ瞬間、雷獣は再び蒼い稲妻と化して走り出した。


「きゃあああああ!? は、早い! 可愛い! でもちょっと怖い! あはははは!」


 葵の恐怖と興奮が入り混じった楽しげな悲鳴が、広大な訓練場に響き渡った。雷獣は彼女を乗せたまま、まるで遊んでやるかのように訓練場内を自在に駆け回っている。その光景は、どこか微笑ましいものがあった。


 しばらくして、すっかり風と戯れた葵が満面の笑みで戻ってきた。


「いやー、最高でした! うちに一匹ください、先輩!」


「やだよ、馬鹿」


 鈴木は即座に、そして心底面倒くさそうに答えた。


「こいつ、結構燃費が悪いんだぞ。常に実体化させとくだけで、俺の霊力をかなり食う。こんなのを常に出しておくのは、さすがに無理だ」


 彼の言葉は半分本当で、半分嘘だった。彼の霊力は実質無限だ。燃費など気にする必要はない。だが、そんな便利なものをホイホイと他人に与えてやるほど、彼はお人好しではなかった。何より面倒くさい。


「えー、そんなー! もっと撫でたいのに! 毛並み最高だったのにー!」


「諦めろ。ほら、帰ってくれ――雷獣」


 鈴木がそう命じると、雷獣は再び主へと忠実に頷いてみせた。そしてその身体は足元から徐々に透き通り、蒼い光の粒子となって静かに霧散していった。後には、微かなオゾンの匂いだけが残されていた。


「あー……。消えちゃった……」


 葵は、まるで大好きなおもちゃを取り上げられた子供のように、名残惜しそうに唇を尖らせた。その様子を見て、鈴木は珍しく本当に楽しそうに笑った。


「ははは。まあ、また今度な。……お前らの訓練に付き合わせるついでに、出してやるよ」


 その言葉に、葵の表情がぱあっと明るくなった。


「ほんとですか!? やった! 約束ですよ、先輩!」


 その日の訓練は、いつもより少しだけ和やかな雰囲気の中で締めくくられた。


 新しい仲間(?)。新しい移動手段。そして、ほんの少しだけ縮まった三人の距離。


 鈴木が手に入れた、自分の城でのささやかな平穏と、騒がしい後輩たちとの面倒で、しかし悪くない日常。


 だが、彼らはまだ知らない。その穏やかな日々のすぐ裏側で、八咫烏の組織の根幹を揺るがす深く暗い影が、着実にその濃度を増していることを。そして、その影が間もなく彼らの日常を否応なく飲み込もうとしていることを――。


 平穏な社畜のスローライフへの道は、まだまだ険しく、そして遠い。

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