第11話 神の子の新人研修
土御門晴明、三歳。彼にとっての「仕事」は、その日、新たなステージへと移行した。これまでの、意味もなく笑い、ぐずり、時折天才の片鱗を見せて大人たちを狂喜乱舞させる、いわば「広報・IR活動」中心の業務から、ついに本格的な「技術研修」のフェーズへと、彼のキャリアパスは進んだのだ。
場所は、土御門邸の広大な敷地の最も奥にある、結界で閉ざされた修練場。清められた白砂が敷き詰められたその空間には、父・泰親、祖父・泰山をはじめとする一族の重鎮たちが、固唾をのんでその様子を見守っていた。今日の研修担当は、土御門家に古くから仕える高名な術師の一人。白髪を後ろで束ねた、厳格な顔つきの老人だ。
「――では、晴明様。まずは基本中の基本、『招来の術』よりご指導申し上げます」
老術師は恭しく一礼すると、流れるような所作で複雑な印を組んでみせた。
「まず、天の気を両の手に集め、地の気と練り合わせ、真言を唱えることで、万象の根源たる五行の理にアクセスいたします。――オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ! 来たれ、紅蓮の顎!」
彼の掌から、ぼっと、人頭大の火球が出現した。それは見事な術だった。霊力の制御、術式の構成、そのどれもが長年の修練に裏打ちされた一級品。だが、晴明の『天理の眼』には、その全てが、全く違う情報として映し出されていた。
(……うわ、なんだこの無駄に長いソースコードは……。変数宣言も滅茶苦茶だし、インデントも揃ってない。よくこんなんでコンパイルエラー起きないな……)
彼の視界には、老術師が紡いだ術式が、まるで古臭いプログラミング言語のように、その構造を丸裸にして見えていた。あまりにも非効率、あまりにも冗長。
「さあ晴明様。どうぞこのジジの真似をして……」
「ほのお」
老術師が優しい笑みで促した、その言葉を遮るように。晴明は、ただぽつりと、そう呟いた。印も真言も何もない。三歳児のたどたどしい発音で、ただ一言。次の瞬間――。
老術師が放った火球の遥か上空に、ゴウッ、と、家屋ほどもある巨大な灼熱の塊が、何の前触れもなく出現した。それは、もはや「火球」などという可愛らしい代物ではなかった。凝縮された小さな太陽。修練場の空気が一瞬で陽炎のように揺らめき、周囲の者たちの額に、玉の汗が噴き出す。
「「「…………え?」」」
その場にいた誰もが、時が止まったかのように硬直した。老術師は、自らの掌の上のちっぽけな火球と、天に浮かぶ絶望的なまでの熱量とを交互に見比べ、やがて白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
(……ん? ちょっと出力上げすぎたか?)
晴明は首を傾げた。彼にとっては、ただCPUのメモリを少しだけ多く割り当てた、という程度の認識だったのだが。
「おお……! おおおお……!」
最初に我に返ったのは祖父・泰山だった。彼は、わなわなと震える指で天の太陽を指差し、感涙にむせびながら叫んだ。
「これぞ神の御業! 印も祝詞も、理屈すらも超越する! ただ在れと念じれば在る! 晴明様こそ、生ける言霊そのものにあらせられるぞ!」
その言葉を皮切りに、修練場は、熱狂的な賞賛と崇拝の渦に包まれた。『招来雷』の術の研修では、彼が「かみなり」と呟いた瞬間、修練場の上空に、彼の意思通りに複雑な幾何学模様を描く、美しい雷の網が形成され、重鎮の半分が腰を抜かした。
(……すげぇチートボディだなぁ……)
彼は改めて、自らの身体の異常なまでのスペックを実感していた。努力も修練も必要ない。ただイメージするだけで、この世界の理は、いとも容易く彼の足元にひれ伏すのだから。
その後の対人修行も同様だった。「晴明様の御身に、万が一のことがあってはならぬ」という泰山の鶴の一声で、攻撃ではなく、防御の術に重点が置かれることになった。対戦相手は、十数名の、土御門家が誇るエリート術師たち。彼らは晴明を円形に取り囲むと、一斉に術を放った。無数の式神が紙の鳥となって空を舞う。鋭い氷の矢が、灼熱の炎の槍が、空間を切り裂き、中央に立つ幼い三歳児へと殺到する。だが、晴明は一歩も動かなかった。
(……はいはい、面倒な書類の束が来た来た)
彼は内心でそんなことを考えながら、先日自ら開発した、あの術を起動させた。『金剛結界』。次の瞬間、殺到した全ての攻撃が、彼の身体に触れる、まさにその寸前で――ぴたり、と。まるで時間停止系の映画のワンシーンのように、空中で完全に静止した。音も衝撃も、何もない。ただ、そこにあるはずの見えない壁に阻まれ、それ以上、一ミリたりとも進むことができない。やがて、術式を維持する霊力が尽きたのか、全ての攻撃は、ぱらぱらと力なく地面へと落ちていった。
「…………な」
「……馬鹿な……」
術師たちは、目の前の光景が信じられなかった。自分たちの全力の術が、三歳児の、ただそこに立っているだけの幼子の前で、完全に無力化された。
「……天衣無縫の理……」
泰山が、震える声で呟いた。「いかなる攻撃も受けず、流さず、ただその存在の前で意味を失わせる……。古の文献にのみその名が記された、究極の防御術……! まさか、それをこの目にする日が来ようとは……!」
(いや、そんな大げさなもんじゃないんだけどな……)
晴明は内心でツッコミを入れた。彼にとっては、ただ害意のある運動エネルギーを自動でキャンセルする、便利ツールという程度の認識だったのだが。この家の人間は、どうやら彼のやる事なす事、全てを伝説や神話に結びつけないと気が済まないらしい。
(まあ、性能はなかなか良いと思うけど)
彼は、自作のプログラムの優秀な出来栄えに、少しだけ満足した。
最後の研修は体術だった。
「晴明様、このジジの胸に飛び込んでくるのじゃ!」
泰山が両腕を広げて待ち構える。晴明は、初めてこの赤子の本体で、本格的にあの術を発動させた。『身体能力強化』。次の瞬間、彼の内から、式神ボディの時とは比較にならないほどの、膨大で純粋な力が、その小さな四肢へと駆け巡った。
(……うおっ!? なんだこの出力……!?)
まるで軽自動車からF1マシンに乗り換えたかのような、圧倒的なパワーの差。これが、オリジナルとコピーの、絶対的な性能差か。彼は床を軽く蹴った。――ただそれだけで。彼の身体は、もはや人間の目では捉えることのできない残像と化していた。気づいた時には、彼は泰山の目の前にいた。そして、その広げられた胸に、ぽすん、と。三歳児らしい、可愛らしい勢いで飛び込んだ。
「おお、よしよし晴明……。ん?」
孫を抱きしめようとした泰山の身体が、ぐらりと傾いた。彼の背後、修練場の分厚い壁に、まるで隕石でも衝突したかのような、巨大な亀裂が放射状に走っていた。晴明が床を蹴った、その余波だけで、神域級の結界が施された壁が半壊していたのだ。
(……いやー。強い身体に生まれて良かったなぁ……)
祖父の腕の中で、彼はしみじみとそう思った。前世のような、苦しい努力も根性も必要ない。ただそこにいるだけで、全てが手に入る。そして何より楽なのは――。
(……周りが全部、肯定してくれるってことだよな)
彼がどんなに規格外の、常識外れの力を見せようとも、この家の人間は決して彼を「化け物」だとか「気味が悪い」だとか言わない。ただ一言、「さすがは神の子。当たり前ですな」。その、絶対的な肯定感。それは、彼の怠惰で平穏を愛する魂にとって、この上なく居心地の良い環境だった。
◇
研修の締めくくりとして、彼は一体の生きた怪異と対面させられた。鉄の檻の中に捕らえられた一本角の小鬼。地方遠征で見たものと同種の、下級怪異だ。
「晴明様。これが『怪異』にございます」
泰親が厳かな口調で説明を始める。怪異とは何か。どこから生まれ、何を為すのか。その生態と危険性。
(ああ、この話か。ヤタガラスの新人研修でもう聞いたんだよな……。内容は寸分違わず一緒だ。面倒だから割愛割愛)
彼は、さも興味深そうにうんうんと頷きながら、内心では完全に聞き流していた。そして、話はやはり、あの階級の話へと移っていった。
「……そして、我々日本退魔師協会も、八咫烏が制定したこのティアー・システムを、公式に採用しております」
泰親が示したタブレットには、見慣れたあの階層図が表示されていた。
「晴明様。貴方様は間違いなく、このTier 1:『国家戦略級』に該当いたします」
その言葉に、周囲の重鎮たちが、ごくりと息を呑んだ。
「そして願わくば……。いえ、貴方様ならば、必ずやその先のTier 0。神々の領域にさえ、到達なされることでしょう!」
その言葉は、もはや期待ではなく、狂信に近かった。
「流石は神の子……!」
「おお……! 我らが土御門より、現人神がお生まれになるのか……!」
周囲が再び、熱狂的な崇拝の空気に包まれていく。
(……いやいや、流石にそれは無理じゃねーか……?)
彼は内心で冷静にツッコミを入れた。神になるなんて冗談じゃない。そんな面倒なこと、誰がやるか。俺がなりたいのは、神ではなく「最強のニート」だというのに。だが、そんなことを口に出せるはずもない。この、あまりにも言いづらい空気をどうしてくれる。
(……まあ、いいけど)
彼は諦めて、愛想笑いを浮かべた。この家の人間には、何を言っても無駄なのだ。それよりも――。
(……個人的には、本体の将来より、分身の方の将来が気になるんだよな……)
彼の意識は、すでにここにはなかった。今頃、八咫烏の本部で新人の蓮は、葵のスパルタ指導に悲鳴を上げている頃だろうか。あの知性型怪異の「本体」は、今どこで何をしているのか。そして、あのやかましくて裏表のない後輩は――。
(……あっちを、どうしようかなぁ)
彼は考える。最強の力を持ち、全てが約束された、この土御門晴明としての人生。そして、記憶喪失で無一文で、それでも自分の足で立ち、ささやかな自由を謳歌する、鈴木太郎としての人生。どちらが本当の自分なのか。彼自身にも、もう分からなくなっていた。
――まあ、いいや。彼は思考を打ち切った。
本体は本体で、この居心地の良いぬるま湯に浸かりながら、最強のニートを目指す。分身は分身で、面倒な社畜生活を送りながら、世界の謎でも追ってみるか。そんな彼の奇妙で歪なデュアルライフは、今日も何事もなく続いていく。三歳児の業務内容は、思った以上に多忙だった。




