ろくじゅうろっかいめ ひとの悪口
人の悪口で盛り上がろうと思ったら、きっといくらでも盛り上がれると思う。
だけど、あまりいい盛り上がり方じゃないと、私は思う。
いやなところ、言動に疑問を持ってしまうところ、自分とは全く違う人なのだから、差異はたくさんあって、似たような生活を送っていても観点が違い、捉え方が違うのだから同じ思考には至らない。
その違う部分を鬼の首を取ったように晒しあげて、そこから更に違う場所を探しては盛り上がる。
なんだか、聞いているだけで嫌な気分になる。
だけど、私もついつい人の嫌だな、と思ったところや相手の言動に疑問を思ったこと、価値観が違ったものを誰かと共有したがるところがある。
だからあまり人のことは言えないのだけれど、それでも「そこまで言う必要のあることなんだろうか」と思う瞬間が多々ある。
家族との会話の中、友達との会話、SNSの中。
SNSは、見るだけで酷く心が落ち込んで、嫌になってしまうのでなかなか開かないのだが、少し見るだけでも罵詈雑言の嵐が広がっているように思えた。
見るものが悪いのかもしれないが。
ただ、いつまでも思うところがあるものを、心の中に溜め込んでいくと、いずれ爆発してしまいそうになる気持ちは分かる。
だから私もついつい誰かに聞いて欲しくなってしまうのだが、延々と盛り上がり相手に悪意を向けることではなく、自分との価値観の差異、相手を鏡像にして自分を見つめ返す。
そんなふうに思うところがあっても捉えるようにしている。
それでも、SNSに関しては話が少し変わってくる。
簡単に送れて、少しの誤字や脱字で捉えられ方や、捉え方が変わる。
言われてる方の表情、言っている方の表情が一切見えないから尚更言いたい放題で、簡単に話題がすれ違っていく。
そうじゃないことも多いのだろうが、対面して話していても話題のすれ違いや、言いたいことがよく伝わらないことがあるのに、それらを慮らずに容易く人を殺してしまう言葉が行き来している。
SNSの中には人を救う言葉があることも、もちろん理解はしているが、それでも悪意の方が目に付いてしまう。
だけど、他者の言動に口を出すというのもなんだか違う気がする。
結局、自分がどうするか、どんな言葉をいいたいか、どう生きたいかに繋がる。
人の悪口は一時的に快楽を得られるが、投げっぱなしだといつまでも止まらないし、際限がない。
自分とは何もかもが違う人なのだから、それを受け入れるために私は悪口を使おうと思う。
だけど、人への悪口というものを介して私の像を作られたくはないと思ってしまうし、人の像を作りたくない。
だからひっそりと紙に書いて、破り捨てるくらいが私にはちょうどいいのかもしれない。
今度、無性に誰かの悪口や、受け入れきれない価値観に相対した時に実践してみようと思う。




