マッチング ~その6~
ハシモトは携帯のアプリを開くと、「家族と一緒のクリスマス」、「恋人と過ごすクリスマス」等々、山ほど出てきたリストの中から、「スタンダードクリスマス」という無難なプレイリストを選んだ。
「サンタのおじさんが――」
携帯からいきなり子供の歌声が響き渡る。まあ、確かにスタンダードと言えば、スタンダードだ。甘ったるいラブソングばかりを流されるよりはよほどにましだろう。ハシモトはそう納得すると、湯煎した缶詰の蓋に手をかけた。そこには「焼き鳥 たれ味」の文字がある。
「あちち!」
だが蓋は思ったより熱く、ハシモトは思わず声を上げてしまった。
「まだ痛むかい?」
台所から声がかかった。この場にそぐわない、無駄に透き通った声だ。
「いえ、蓋が熱かっただけです。もう大丈夫ですよ」
ハシモトはそう答えると、焼き鳥の缶をこたつの上の皿へと空けた。だが言葉とは裏腹に、未だに脇腹の辺りは打ち身で痛むし、こめかみも痛い。
ストリートファイターに襲われるとか、なんてとんでもない厄介事に巻き込まれたのだろう。もっとも、この件については気の迷いとはいえ、マッチングアプリの羽が生えたメールなんかを送ってしまった自分にも、原因があったのかも知れない。
「ついてないですよね」
イブの夜だと言うのに、ハシモトの口から大きなため息が漏れた。
「鍋敷きの準備は大丈夫かな?」
厄介事と言えば、今年一番の厄介事が、土鍋を抱えて台所から部屋へと入ってきた。
「鍋敷きはと…」
ハシモトは積み上がっていた週刊誌の山から、一冊を取り上げると、それをこたつの上へと置いた。だがその表紙に「世界を滅ぼす呪文大全」という文字を見つけると、慌ててそれをどけて別の雑誌を敷いた。
見当たらなくて困っていたのだが、いつの間にか雑誌の山の中に埋もれていたらしい。
「熱いから気をつけてください」
そう告げると、ハデスは土鍋を鍋敷き代わりの雑誌の上へと置いた。土鍋からは白い湯気がもうもうと立ち上がり、その向こうには白菜と白滝、豆腐、それに山盛りのネギの間から、肉がほんの僅かだけ顔をのぞかせている。
世の人たちはローストした鶏のもも肉を食べているとは思うが、この家では今夜はすき焼きだ。理由は単純で、この時期は鶏がとても高くなり、相対的に牛肉が安くなるからにすぎない。もっとも、高いすき焼き用の肉などは論外で、肉はアメリカ産の徳用切り落としを使っている。
「これで準備完了です。本当は丸鶏のローストも手に入るはずだったんですけどね……」
小さな皿の上に乗った缶詰の焼き鳥を見ながら、ハデスが少し残念そうに呟いた。
実はハデスがバイトしているコンビニから、お安く予約品のローストチキンが手に入るという話があったのだが、キャンセル品でもいいという客がいたとかで、ご破算になってしまったのだ。
「たとえ缶詰でも、鶏であることに違いはないですよ」
「そうだね」
ハシモトの答えに、ハデスが素直に頷いて見せた。そして今度は慎重に、小鍋に入れた割り下を器へと注ぎはじめる。
「割り下というのは実に微妙だね」
真剣な表情をしたハデスがハシモトに告げた。
「はあ?」
「わずかな砂糖の量で味がとても変わるんだよ。それに煮詰めて水分が飛ぶことまで考慮すれば、まさに調味料の調停とでも言うべきものだな」
「そう言うものですか?」
「そう言うものだよ。世界を滅ぼすなんかより、余程に難しいものだ」
「そうですね。とりあえず頂きましょう」
ハシモトはこの会話をこれ以上続けることに危険を感じて、慌てて話題を変えた。二人は箸を手に両手を顔の前で合わせる。
「メリー、クリ――」
ピンポーン!
ハシモトが声を上げた瞬間、インターフォンの呼び出し音が部屋に響いた。クリスマスイブのこんな時間に一体誰だろう? もし新聞の勧誘だとしたら、あまりにも仕事熱心と言うべきだ。ハシモトはそれを無視することに決めると、再び両手を顔の前で合わせた。
「メリー、クリ――」
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
今度は何処かのクレーマーでも来たかと思う程の連続音が鳴り響いた。ハシモトは諦めてこたつから出ると、台所の先の扉へと向かう。扉の向こうから足元へと流れてくる冷気に、スリッパを履く事で防御を固めると、扉の把手に手を掛けた。
その間も、呼び出し音はまるで嵐の様に鳴り続けている。そのあまりのしつこさに、ハシモトは鍵を回そうとした手を止めた。
「まさか……」
ハシモトの脳裏に、妙に顔色のよくない小太りの男の顔が浮かんだ。そしてこめかみの辺りがずきずきと痛むのも感じる。もしかして、あのストリートファイターが自分を探しに来たのではないだろうか? そんな恐怖が頭をよぎる。
あの夜は男に頭を蹴り飛ばされて、すぐに気を失ったらしく、気が付くとアパートで寝ていた。どうやって探し出したのかは分からないが、ハデスがタクシーでアパートまで連れ帰ってくれたらしい。
レナと言う娘がどうなったか気になりはしたが、マッチングアプリは速攻でアンインストールした。あの男がレナに聞いたとしても、ここが分かるはずはない。ハシモトは思い出したくもない記憶を追い払うと、鍵を回して扉を開けた。
「どなた――」
ハシモトの口がそこで凍り付く。目の前には髪をツィンテールに赤いリボンでまとめた、真っ黒なゴスロリの服を着た女性が、大きな紙袋を両手に立っている。
ハシモトは慌てて扉を閉めようとしたが、麗奈は素早く足を差し出すと、扉の隙間へとそれをねじ込んだ。その姿に、ハシモトは思わず映画「マルサの女」で、国税が査察に踏み込むシーンを思い出す。
「モブのくせに、何を人を待たせているのよ。それに『ようこそ、いらっしゃいました』とか、『荷物をお持ちしましょうか?』ぐらいも言えないの?」
あの夜、ハシモトにレナと名乗った麗奈は「フン」と鼻を鳴らして見せると、ハデスがバイトしているコンビニのマークが入った紙袋を、ハシモトへと差し出した。そしてその肩越しに部屋の中を伺う。
「やっぱりいた!」
麗奈は部屋の中にハデスがいるのを見つけると、嬉しそうに声を上げた。そしてハシモトの体を突き飛ばして、玄関の中へと入り込む。
「ちょ、ちょっと――」
ハシモトは当惑の声を上げたが、麗奈はそれを無視して速攻で靴を脱ぐと、そのまま部屋の中へと突進した。ハシモトも慌ててその後を追う。
「羽田さん!」
麗奈の声に、器に卵を入れ終えたらしいハデスが顔を上げた。
「あなたは?」
「はい。麗奈と申します。この間は助けて頂きまして、本当にありがとうございました。本日はそのお礼にお伺いさせていただきました」
そう言うと、ハデスに向かって丁寧に頭を下げた。ハシモトはその姿を呆然と眺める。間違いない。あの晩の娘だ。どうしてあの娘がここに? それに――
「麗奈? レナじゃ無くて?」
そう呟いたハシモトの耳に、麗奈が「チッ!」と小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「細かい事を気にする男ね」
麗奈はきれいにまとめたツィンテールの髪を振り上げて、ハシモトの方へ視線を向けると、まるで車で曳かれた蛙を見る目つきでその顔を眺めた。そしてハシモトの手から、自分が持ってきた紙袋をひったくって、ハデスにそれを差し出す。その顔にはハシモトを見た時とは違う、満面の笑みが浮かんでいる。
「大したものではありませんが、こちらはそのお礼です」
そう言うと、紙袋の中から白い箱を取り出した。そして焼き鳥が乗った皿を邪魔そうに持ち上げると、ハシモトへと押しつける。
「じゃーん!」
謎の効果音と共に、麗奈が上箱を持ち上げて見せると、その下から、金の縁取りの赤いリボンが巻かれた、丸鶏のローストが顔を出した。
「これは?」
「はい。予約品だそうなんですけど、羽田さんのバイト先のコンビニで、キャンセル品があったとかで、たまたま手に入れました」
麗奈の台詞に、ハシモトは思わずハデスと視線を交わした。
「なるほど。これはある種の調停、運命のようだね」
「はい。もちろん運命です。いえ、宿命です!」
ハデスの言葉に、何を勘違いしたのか、麗奈は両手を顔の前で握り締めると、目を輝かせた。さらに袋から酎ハイを出して、こたつの上へと並べる。それを終えると、焼き鳥が乗った皿を片手に、呆然と立ち尽くすハシモトに向かって、顎で玄関の方をしゃくってみせた。
「ちょっと! 少しは気を使いなさいね」
「はあ?」
「見れば分かるでしょう。私はこれから羽田さんと大事なお話があるの。席を外すとか、そのぐらいの気は使えないの?」
「あ、あのですね。ここは私の家なんですけど! それよりも、どうしてここが分かったんです!」
「なるほど、そう言うことですか……」
不意にハデスが二人の会話に割り込んだ。
「これはそう言うものなのですね」
そう告げたハデスの指には、白と黒の二色のバッチの様な物がつままれている。それを見た麗奈がぎょっとした顔をした。
「あ、あれ? どうしてこんなところに――」
麗奈の口から慌てふためいた声が漏れた。そしてその視線を何もない壁の方へと泳がせる。
「あーー!」
それが携帯のオプション品として売られている、紛失防止トラッカーだと分かったハシモトの口からも、驚きの声が上がった。
「ぜ、是非に、お礼をと思いまして――」
しどろもどろになりながらも、麗奈は何か言い訳を答えようとしたが、ハデスは片手を上げてそれを制すると、こたつの上に置かれた土鍋を指さした。
「冷えてしまうと、味が変わってしまいます。ともかくこちらを、皆で先に頂くことにしましょう」
ハデスの言葉に、麗奈はハシモトに対して小さく肩をすくめて見せると、膝を折ってこたつに入ろうとした。だが自分が着こうとした席に、一冊の本があるのに気が付く。
「『世界を滅ぼす呪文大全』、なにこれ?」
それを見た麗奈が、小さく声を漏らした。
「え、あ、あの」
うろたえるハシモトの目の前で、麗奈は本のページをぱらぱらとめくって見せる。
「なろう系? 小説を書いていると言っていたけど、こういうのを見て書いているの? でもこんなのに頼るなんてだめね。なに、この落書き?」
最後のページで手を止めた麗奈が、呆れた声を上げた。
「図書館の本に落書きをするなんて、非常識じゃないの? 真の破滅は言葉などではなく、真の魂の闇のみが引き寄せる? ハデス、エイト、アニム――」
ハシモトは慌てて麗奈の手から本を取り上げた。この娘がハデスを召喚したりしたら、間違いなくすぐに世界は滅びてしまう。
「ちょっと、何をするのよ!」
本を取り上げられた麗奈が、むっとした顔をしてハシモトの方を見たが、ハシモトはこたつに座るハデスの方を指さした。
「ハデス、もとい羽田さんが待っていますよ」
「すいません! どうでもいいことに、気をとられてしまいました」
麗奈はそう声を上げると、こたつの中へと入った。そしてハデスの座る角の方へとにじり寄る。
「メリー・クリスマス!」
麗奈がハデスに向かって、満面の笑みで声を上げた。その姿に、ハシモトは心の中で安堵のため息をつく。あの晩も、その前にも、色々と大変な事があったのだろう。でも今夜は彼女にとって、とても幸せなクリスマスを迎えられたらしい。
「メリー・クリスマス!」
ハシモトもハデスと共に声を上げた。そしてすき焼きの白菜に箸を伸ばす。
今日もまだ、世界は続いている。