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マッチング ~その5~

「どうして? どうして、ここにいられるの!?」


 麗奈は暗がりの中、錆の浮かんだスクーターのシートに腰を預けた男に声を掛けた。


「あれ、先生から聞いていないの?」


 英二はいかにもとぼけた声で麗奈に答えると、黒い皮のジャケットを羽織った肩をすくめて見せた。その顔にはホスト時代の面影など何処にもない。


 今にして思えば、その時でも痩せ気味のぎらついた目を持つ、下品な顔をした男だった。それが今ではポンプで空気でも入れたのかと思うぐらいに、丸く、そしてむくんだ顔になっている。顔だけではない。腹回りも、今夜の中年男に負けないぐらいだ。


 そのせいか、プライベートでいつも着ていた皮の細身のズボンではなく、裾が擦り切れた、黒いジーンズを履いている。それはそうだろう。もうそんな物が入るような体型はしていない。


 せめてもの矜持なのか、肩にかけている皮のジャケットだけは昔のままだ。それすらもゆるい腹回りのせいで、その裾がとても短く見える。どうして自分はこんな男に嵌ってしまったのだろう。今でも全くもって分からない。


「アクアは手入れを食らって解散したよ。今ではブクロの連中がここも仕切っている。お陰で俺も、この辺を自由に歩けるという訳。ユー、アンダスタンド?」


 謎のカタカナ英語と共に、英二が麗奈に向かってニヤリと笑って見せた。


「あれ? せっかく再会できたと言うのに、ちっともうれしくなさそうだな」


 英二が麗奈に向かって小首を傾げて見せた。その姿に、その言葉の一つ一つに、麗奈の奥歯がギシギシと音を立てそうになる。


「もう私に関わらないで頂戴。どっかに行って!」


 血の味がするぐらいに噛みしめていた口を開くと、麗奈は必死に言葉を絞り出した。


「そうつれないことを言うなよ。こちらとしては、やっと愛しの麗奈ちゃんに会えたと、心の底から喜んでいたんだぜ」


 そう告げた英二が、両腕をわざとらしく前へと差し出す。その姿を見た麗奈の背中に、冬の寒さとは比較にならない、おぞましさに満ちた震えが走った。


『偶然なんかじゃない! この男は私の事をずっと探していたんだ!』


 麗奈は心の内で悲鳴を上げた。麗奈の考えが分かったのか、英二は腕を下ろすと、小さく含み笑いを漏らした。


「麗奈はさ、自分で思っているほど頭よくないよね。そんな恰好で男の袖とか引いたら、目立つとか思わなかったの?」


 そう告げると、偉そうに鼻の下を指でこすって見せる。


「口コミにさ、ゴスロリ姿の女に騙されたという書き込みがあったの。それを見て、すぐにお前だと分かったね。突然に切れて喚き散らすとか、どう見てもおまえじゃん。それで隠れていたつもりだったの?」


 英二が再び麗奈に向かってニヤリと笑って見せた。それは麗奈が色々なものを失っていく過程で何度も見た、そして二度と見ることはないと思っていた笑いだ。


「地方じゃ芸人になった方がいい様な、ベタな奴しか受けないらしくてね。アクアも居なくなって、こうして麗奈ちゃんを頼りに、こちらへと出てきたと言う訳」


「誰があんたなんか!」


「あれ? 昔は愛しているとか、いっぱい言ってくれたじゃん。その証拠だって、ここに山程あるんだけどな――」


 英二はジャケットのポケットから携帯を取り出すと、その画面を麗奈へと向けた。そこには裸の女が裸の男に寄り添っている姿が映っている。


「全部消したはずじゃないの!」


「クラウドとか知らないの? そんなの先生の顔を立てて、消したフリだけに決まっているじゃない。やっぱり麗奈って、自分が思っているほど頭よくないよね?」


「殺してやる!」


 その台詞に麗奈は我を忘れた。そして両手を前に、英二に向かって突進する。


『この手で、この手で殺してやる。そして全てを終わらせてやるんだ!』


 だが麗奈の硬い決意とは裏腹に、両の腕はあっさりと英二によって掴まれた。そして後ろから羽交い絞めにされる。その力に麗奈はあがらうことなど出来ない。


 どうして自分の手は、世界はこんなにも無力なんだろう。麗奈の目じりに涙が浮かびそうになる。だが麗奈はそれをぐっとこらえた。何があろうが、この男に涙など見せる訳にいかない。


「そんな怖い顔はしないで欲しいな。また前と同じく、楽しく愉快にやろうよ」


 そう麗奈の耳元で囁くと、英二は携帯の画面を麗奈に向かって掲げて見せた。そこに映っているピースサインの裸の女。麗奈は携帯の画面から顔をそむけた。


 心の中で必死に蓋をしていたはずの、過去の自分が燃え上がる炎の様に噴き出してくる。どんなに拒絶しても、それは麗奈の心を、後悔と言う名の業火で焼き尽くそうとした。


「適当に絵を書けばいいだけだろう。そうだな、どうせ書くなら、もっと色っぽい奴でも書いてくれよ。俺が色々と教えてやっただろう?」


「適当?」


 麗奈の口から小さく声が漏れた。この男は何も、何も分かっていない……。


「私が一つの物語を、一人の人物を、一つの場面を書くのに、どれだけ命を削る思いをしていたのか、分からないの!?」


「はあ?」


 英二の口からとぼけた声が上がった。麗奈は足元にあった薄汚れたスニーカーを思いっきり踏んづけてやると、英二の体を突き飛ばした。


「あんたみたいな、白いおたまじゃくしをばらまくしか能がない男には分からないだろうけど、こっちは子供を産むのと同じくらいに、命を削って書いているのよ!」


 麗奈はその体に向かって、今度は肩からぶつかってやった。英二の体が、錆びついたスクーターと一緒に地面へと崩れ落ちる。だがすぐに飛び起きると、麗奈の胸ぐらを掴んだ。そしてそのまま首を締め上げていく。


「てめえ、何をふざけたことをしてくれてんだ!?」


「放せ! あんたなんかには、それがどんなに苦しいことか、辛いことかは分からないでしょう!」


 英二はそんな麗奈を見ながら、さもうざったそうに首を横に振って見せた。


「さっぱりだな。絵を描くのが嫌なら、別に接客業だっていいんだぜ」


「殺してやる、絶対に殺してやる!」


 麗奈は叫んだ。だがその叫びも、すぐに英二の手によって抑え込まれた。


「ボケ、お前なんかに殺されるか。そもそもお前は俺の為に生まれて来たんだ」


 何も分かっていない。もっと怒鳴ってやりたいのに、息が詰まって声が出ない。麗奈の目じりに、見せたくなかったはずの涙が浮かんだ。


「分かりますよ。たとえ妄想でも、()を持つ何かを書くのはとっても大変なことなんです」


 麗奈の背後から声が響いた。その声に、麗奈の首を絞めつけていた英二の力が僅かに緩んだ。


「えっ! おっさん、戻ってきたの? いくら女にもてないからって、未練ありすぎじゃね?」


「け、警察を呼びますよ」


 中年男が、おどおどした声で英二に答えるのが聞こえた。麗奈が背後へと顔を向けると、ペットボトルを手に、カモ男が驚いた顔をして突っ立っている。


「おっさん、勘違いしてもらっちゃ困るな。おれはこいつの内縁の夫というやつでね。それよりも、人の女に手を出したんだ。慰謝料を――」


「あんたも何か描いていたの?」


 英二が脅しをかけ始めたのを無視して、麗奈はカモ男に向かって声を掛けた。


「いえ、絵ではないです。投稿小説です。もっとも、ほとんど誰にも読んでもらえていないですけど……」


 男が震える声で答えた。


『そうか、こいつも同じなんだ』


 麗奈は少しだけこの男が抱える孤独が、どんな人生を過ごしてきたのかが分かる気がした。


「人の話を無視して、二人で何の話をしているんだ?」


 英二は麗奈から手を放すと、カモ男に向かって歩み寄った。


「少し痛い目に会わないと、よく分からないらしいな」


「待って――」


 だが麗奈が声を掛けるよりも早く、英二のつま先が中年男の腹へとのめり込んだ。


 ボチャン!


 通路の水たまりに、ペットボトルの転がる音がした。


「うう……」


 その一撃に、中年男は膝を地面につくと、腹を抱えて呻き声を漏らす。


「だ、大丈夫!」


 麗奈はその背中へと声を掛けた。


「だ、大丈夫です。それよりも警察を――」


 そう答えると、男はコートのポケットに手を入れた。


「あ、あれ?」


 だがすぐに情けない声を上げると、慌ててズボンやら上着やらのポケットに手を伸ばす。そして途方に暮れた表情で麗奈の方を見上げた。


「警察?」


 その情けない姿に、英二の口からくぐもった笑い声があがった。


「おっさんさ、少しは法律と言うものを勉強した方がいいんじゃないの。これは民事。だから警察は不介入なの。そのぐらいは常識でしょう?」


 そう告げると、英二が再び足を振り上げる。それは麗奈の目の前で、男の頭を蹴り飛ばした。


「ぐえ!」


 男の体が雑居ビルの薄汚れた壁へと激突する。麗奈は慌てて男の元へと駆け寄った。


「こんなことに手を出すと、ろくなことがないって、よく分かったでしょう。さっさとどこかに行って!」


 麗奈の言葉に、男がうつろな目をして頷いた。だが上体を崩すと、そのまま地面の上へと横たわってしまう。麗奈は慌ててその体を起こそうとしたが、その顔に黒い影が掛かった。


「この人は関係ないでしょう!」


 振り返ると、英二が冷たい目でこちらを見ている。そして麗奈に向かって不思議そうな顔をして見せた。


「おい、麗奈。せっかくのカモなのに、何をふざけた事を言っているんだ?」


 その言葉に、麗奈はいつの間にか自分がこの男と同じになっていたことを思い知った。こうしてこの男に会ってしまったのは、自分への罰だったのかも知れない。


「これ以上は困りますね」


 不意に麗奈の耳に、漫画の主人公みたいな台詞が飛び込んできた。鈴の音のように軽やかでありながら、とても落ち着いていて、理知的にも聞こえる声だ。それにどこかで聞いたことがある声でもある。


 麗奈は声のした方を見上げた。そこでは長身の男性が、麗奈と地面に横たわる男性を見下ろしている。


「えっ、羽田さん!」


 間違いない。麗奈の目の前には、コンビニで見た羽田の姿があった。羽田はコンビニの似合わない制服ではなく、ぴったりとした真っ黒な詰襟の服を着てそこに立っている。


「同業者か?」


 英二が羽田に向かってすごんで見せた。だが羽田はそれを完全に無視すると、倒れた中年男の口元に流れる鼻血へと手をやる。そして手についた血をじっと見つめた。


「耳が聞こえないのか!」


 羽田は飛んできた英二の拳を、僅かに顔を背けて避けると、たたらを踏んだ英二の体に、指についた血を拭くかの様にちょんと触って見せた。触れられた英二の体が鈍い音を立てて、雑居ビルの壁へと激突する。


「ぐふ!」


 今度は英二の口からうめき声が漏れた。そして訳が分からないという顔をして、麗奈の方を見る。


「おい、麗奈。てめぇはいつの間に男なんて作ったんだ。お前は俺の――」


 続けて口を開こうとした英二に向かって、羽田は小首を傾げて見せた。


「男? 私の性別自体にはあまり意味がないんですよ」


 そして指を地面に転がる中年男の方へと向けた。


「それよりも、彼には色々とやってもらわないといけないことがあるのです。なので勝手に壊されたりするのは困るんですよ」


 そう告げると、今度は足元の麗奈の方へと視線を向けた。その漆黒の瞳に、麗奈は心臓の鼓動がまるで小太鼓の様に打ち始めるのを感じる。


「やはり貴方も――」


 麗奈の視線を受けた羽田は、そう呟くと僅かに目を細めて見せた。だがすぐに英二の方へと視線を戻す。そして左腕を抱えながら、壁にもたれて荒い息をする英二の前へと進み出た。


「彼をお願いします。こちらの彼とは、あちらで調停してくることにしましょう」


 そう告げると、英二の襟首を掴んで、まるで猫を捕まえたかの様に、その体をひょいと持ち上げた。


「てめえ、な、なんだ! おい、ちょっと待て、話を、話をしようじゃ――」


 英二が慌てたように叫ぶが、羽田はそれを一切無視して、通路の奥にある非常階段の影の暗闇へと、その体を引きずっていく。麗奈はその闇の先を、身じろぎすることなく見つめた。


 一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。それにどうしたのだろう。闇の向こうからは羽田の声も、英二の声も聞こえては来ない。


「大して壊れてはいないようですね」


 急に背後から声が聞こえた。麗奈が慌てて振り返ると、いつの間にか羽田が背後に立っている。だが英二の姿はどこにも見当たらない。


「彼は私が連れて帰ります」


 そう言うと、羽田は中年男の腕を自分の肩へと回して、その重そうな体をゆっくりと担ぎ上げた。


「あ、あの?」


 立ち去ろうとする羽田に、麗奈は当惑の声を上げた。だが羽田は麗奈の言葉に答えることなく、通路をもと来た入り口の方へ向かって歩き出す。


 麗奈は焦った。彼にお礼を言わないといけない。それに連絡先も聞いていない。だが麗奈の口も体も、まるで氷ついたみたいに動く事が出来ないでいる。


『そうだ!』


 麗奈は上着のポケットに手を入れると、そこにあるガーゼ地のハンカチと()()()()を握りしめた。


「ま、待ってください」


 必死に声を絞り出すと、羽田は肩越しに麗奈の方を振り返った。


「あ、ありがとうございました。それに、こ、これは、彼からお預かりしたものなんです」


 そう告げると、麗奈はハンカチを差し出した。そして羽田の方へ駆け寄って、それを中年男のコートのポケットへとねじ込んだ。


 羽田は麗奈に小さく頷いて見せると、中年男の体を肩に担いで、通路の出口へと歩いていく。麗奈はそれを追いかけたいと、羽田にもっと声を掛けたいと切に願ったが、何があったかを確かめるために、非常階段の裏へと走った。


 だけどどこに行ったものか、英二の姿は見当たらない。麗奈の足音に驚いたのか、一匹のゴキブリが階段の暗がりから飛び出すと、そのまま横に置かれたゴミ箱の影へと走り去って行っただけだ。


 麗奈は階段の影から通路へと戻った。もう羽田の姿は見当たらない。そこからは歩道を行きかう人々が、出口の先に小さく見えるだけだ。


 通路を必死に走って歩道へと出る。そして辺りを見回すが、タクシーでも捕まえたのか、羽田の姿も、中年男の姿も何処にも無い。行き交う車のテールランプと、少し数を減らした歩道を行きかう人の群れだけがある。


「――クリスマスは誰にもやってくる」


 背後のファストフード店からは、相変わらず女性の甘い声に乗せて、クリスマスソングが流れている。その声を聴きながら、麗奈は暮れの夜空を見上げた。そこから小さく白いものが、麗奈に向かって音もなく降ってくる。


 その景色に、麗奈はずっと待っていたものが、やっとこの世界へと降り立ったことに気がついた。間違いない。今日、こうして彼に会うために、私は、この世界はここにあったのだ。


 それに赤い糸なんかより、もっと確かなもので私は彼と繋がっている。麗奈はそう心の中でほくそ笑むと、コートのポケットから携帯を取り出して、そのロックを外した。

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[一言] いいですね!  いいですよ! これが文章です。 これが小説です! 私に褒められたからといって、 何もメリットがないのが非常に残念です。 この展開になると オチがとても気になりますし、 …
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