マッチング ~その4~
「ハシモトさん、ですよね?」
麗奈の言葉に、中年男は電気ショックでも受けたかのようにビクリとして見せた。まさにカモ。ここまで完璧なカモはそうそういない。麗奈はこの男からむしり取った金で、羽田にモデルを頼みにいく自分の姿が目に浮かんだ。
ついそのまま羽田との妄想に浸ってしまった麗奈の前で、男が壊れた機械仕掛けのおもちゃさながらに、頭を上下に振って見せる。その謎な動きに、麗奈は現実の世界へと引き戻された。
「そうだと思いました。はじめまして、レナです。メッセージを読んでくれたんですね?」
麗奈は相手が警戒心を抱かないように、首を小さく横に傾けると、いかにもうれしそうな表情を浮かべてやった。
「あ、はい。ハ、ハシモトです」
男は麗奈に向かってそう告げると、そのまま硬直する。その情けない姿に、麗奈は心の底から呆れ果てた。自分の倍は生きているはずなのに、この男は一体毎日何をして生きてきたのだろう。
それにカモとはいえ、ここまでくるとむしろ扱いに困る。いきなりホテルに行こうなどと言う、がっついたスケベ親父もそうだが、会話が通じない相手も論外だ。
「す、すいません」
どうやって料理しようかと思案していた麗奈の前で、男が今度は水のみ人形さながらに、頭をぺこぺこと上げ下げし始めた。そのあまりに奇怪な動きに、道行く人たちが足を止めて男を見る。だが麗奈が視線を向けると、慌てて前を向いて立ち去って行った。
『モブのくせに、こっちの邪魔をするな!』
麗奈はその背中に向かって、心のなかで悪態を浴びせると、歩道に突っ込んできたダンプカーで数回轢き殺してやる。そして眼の前の不気味なペコちゃん人形もどきに向かって声を掛けた。
「あの、何も謝られるようなことはないと思うのですが?」
「携帯を忘れてきたらしく、返信が出来なくてすみませんでした」
男は顔を上げると、いかにも済まなさそうな顔をして麗奈に答えた。とりあえず会話は成立するらしい。麗奈は心の中で安堵した。会話が通じない相手はカモにすらならない。単なるゴミだ。
「外はとても寒いですから、とりあえずは暖かいところで、お話をしたいと思いますが、ハシモトさんのご都合は大丈夫ですか?」
「は、はい。完璧に大丈夫です!」
ぷよぷよしたスライムみたいな顔の上の、かろうじて認識できる小さな目を輝かせながら男が答えた。
「では、そちらでお話をさせていただきましょう」
そう告げると、麗奈は男に向かって、青い看板を掲げた、入り口にギリシャ風の彫像が置かれたビルを指さした。
* * *
「二人は枯れすすき~~♪」
「パチパチパチパチ……」
ハシモトは痛みを通り越して、にぶい熱さしか感じなくなっている手のひらで必死に拍手をした。もう何曲目なのかはよく分からない。
最初は若いのに、どうして昭和の歌をよく知っているのだろうと思ったが、どうやらこの娘は昭和の歌が好きな訳ではないらしい。ともかく暗い、救いようのない歌が好きなのだ。そして昭和の歌には演歌だけでなく、アニソンを含めてそんな歌が一杯ある。
「ふ~~」
レナと名乗った女性は手の甲で額に浮かんだ汗を拭うと、テーブルの上に置かれたレモン杯を一気に飲み干した。まだ若いが、この子は決してアルコールに弱いわけではないらしい。そして次の曲の前奏に、素早くマイクを口元へと持っていく。
「拍手、それとレモン杯のお替り!」
レナの言葉に、ハシモトはタブレットの上の本気のレモン杯というボタンを押すと、再び全力で拍手を鳴らした。だが心の底の理性というやつが、『何でこんなところで、こんなことをしているのだ?』と言う声を上げ始めてもいる。
そもそも、カラオケボックスに入ってからこの方、お話は一切していない。拍手をし、彼女の妙にこぶしの効いた歌を聴き続けているだけだ。
「なんにもない、なんにもない……」
ハシモトは再び額に気合を入れると、こぶしを回して熱唱し始めたレナを見上げた。その姿は真っ黒なゴスロリの衣装に、長い髪を赤いリボンでツィンテールにまとめて、アニメやライトノベルに出てくるキャラを地でいっている。
その普通とは言えない姿についつい目を奪われるが、素の彼女はと言うと、とても整った顔をしていて、美人と呼んでも何の差支えもないぐらいだ。切れ長の目が少し気が強そうな印象を与えもするが、これは単に気合を入れて歌っているせいなのかもしれない。
ゴスロリの衣装を着ていなくても、間違いなく辺りの目を引くだろうし、学校にいたら、隣のクラスにいても話題になりそうな娘でもある。
「風が吹いてる~~~」
そんな事を考えているうちに、彼女の歌がもう終わりかけていた。ハシモトは多少うんざりした気分になりながらも、拍手の準備をする。
「本気のレモンサワー、お待たせしました!」
レナが歌い終わると同時に、部屋の外から店員の声が聞こえた。
「は〜い!」
マイクを持ったレナが機嫌よく答える。大学生のアルバイトらしい店員が、グラスの乗った銀の盆を片手に部屋の中へと入ってきた。そしてテーブルの上に、何が本気なのかはよく分からない、透明な飲み物が差し出される。ハシモトは拍手が一回分減った事に、心の底から安堵した。
飲み終わったグラスを片付けながら、店員がゴスロリ衣装のレナと、地味な色のユニクロで固めたハシモトの姿をちらりと見る。そして一瞬、はは~~んという表情をしてみせた。その表情がハシモトを一気に現実へと引き戻す。
衣装のせいで正確には分からないが、レナがまだ相当に若いのだけは確かだ。まだ二十歳を超えてすぐぐらいだろう。自分とは親子ぐらいに年齢が離れている。そんな二人がカラオケボックスに居れば、世間が自分たちをどう見るのかを思い出した。
そして心の中に抱いていた期待感とでも言うべき何かは、自分が書いている投稿小説の筋よりも、よほどに荒唐無稽な話であることに気付かされもする。
「あら、もうこんな時間ですね」
あっという間に本気のレモン杯を飲み干したレナが、急に何かに気付いたように声を上げた。
「そうですね。あっという間でしたね」
ハシモトはしばしの間、若い女性と同じ空間にいられただけで十分に幸せだったのだ。そう自分に言い聞かせると、レナに向かって頷いて見せた。
「ハシモトさんは夕飯を食べられました?」
「えっ、夕飯ですか? まだですけど」
ハシモトの脳裏に、こたつに入りながら、ハデスが一人で湯豆腐をつついている姿が浮かんだ。それと共に後悔の念もふつふつと湧き上がってくる。あんな羽根のついたメールなど出さずに、うちで湯豆腐をつついていた方がどれだけ平和だったことか……。
まさか、これにブチ切れて、世界をいきなり滅ぼしたりはしないだろうか? そんな恐怖もふつふつと湧いてくる。
「丁度よかった。私もまだなんです。いっぱい歌ったので、小腹が空いてしまいました」
そう告げると、レナは慣れた手つきで、タブレットのメニューをフリックした。
「やっぱりろくな料理がないですね。そうだ。近くにおいしい小籠包を出す店があるんですよ。まだ色々とお話ししたいこともありますし、そちらに行きませんか?」
そう提案するや否や、レナは早くも衣文掛けからコートを外すと、それに袖を通し始めた。だが実はそれなりに酔っぱらっているのか、上体をふらつかせると、ソファーの背もたれに手をつく。
「大丈夫ですか? だいぶ酔っぱらっているみたいですが……」
慌てて声を掛けたハシモトに、レナがてへっと照れ笑いをして見せた。
「ちょっと袖が引っ掛かってしまって。もちろん大丈夫ですよ。まだ若いですから!」
レナは若いという所に少し力を込めて答えた。その言葉に、ハシモトは彼女から見たら、自分がどれだけおじさんに見えるのかと恐れおののく。
レナはそんなハシモトに気付いているのかいないのか、酔いに高揚した顔に笑みを浮かべながら、少しふらふらとした足取りで部屋から出ていった。どうやらトイレへと向かったらしい。
「はあ」
ハシモトの口からため息がもれた。ハシモトの頭の中では、『出会い』とかいう妄想は既に跡形もなく消えており、さっさとこの場を立ち去りたい気分で一杯だ。だが今は酔っ払いの若い娘をほったらかしに出来ないと言う大人の良識だけが、ハシモトをこの場へと留めていた。
* * *
麗奈は洗面台の鏡に向かって口紅を引き直すと、そこに映る自分の姿に満足した。もともと色白な上に、外出をほとんどしないその肌は、少し回った酔いに桜色に染まっている。そして僅かにうるんだ目。
向こうがこちらの体目当てなのは分かり切っているが、あまりにガードを固くしすぎても、あきらめて去って行くだけだ。
今夜は相手が安パイ過ぎて、少し飲みすぎた様な気もするが、カモ男がこちらを心配する様な素振りを見せ始めたことを考えれば、これで丁度よいぐらいだろう。
あの手の自分に自信がない中年男と言うのは、誰かに頼られたり、褒められたりするのに飢えている。保護者の様な気分にさせて、そこから泣き落としを掛けるのが一番だ。そうすればこちらの体が汚れることもないし、向こうも出すものを出して、気分よく家に帰れる。
もっとも、明日の朝には手を出せなかったことを後悔して、布団の中で悶絶するかもしれないが、こちらの知ったことではない。商売女や、下手なキャッチ商法なんかに引っかかるよりはよほどにましなはず。
麗奈は鏡に向かって、いかにも純情そうな笑みを浮かべて見せた。鏡の向こうにいる女性が、まるでアニメのヒロインさながらにほほ笑んでいる。
「完璧……」
満足そうにつぶやくと、麗奈はトイレの外へ向かおうとした。だが左わき腹に少し痛みを感じて、腹部に手をやる。
「サンドイッチぐらい、食べておけば良かったかな――」
酒豪と言う訳ではないが、麗奈は酒に弱いわけでもなかった。年齢を考えれば、強いと言ってもいい。だがすきっ腹に、立て続けで濃い目のサワーを飲んだのはかなりきいた。でも相手はあのカモ男だ。力づくでこちらをどうこう出来るタイプではないし、何の心配もいらない。
麗奈は自分自身に対して頷くと、受付横のトイレを出た。視線の先では支払いを済ませたらしいカモ男が、安っぽいコートを手に、所在なさげに立っている。ここからが本番だ。麗奈は顔に気合を入れ直す。
「お待たせしてすいません!」
相変わらずのおどおどした態度で、男がこちらを見た。自分の二倍近くを生きているはずなのに、なんて情けない生き物なのだろう。麗奈は男に向かって店の外を指さすと、先に外へと出た。
その途端、木枯らしがこれでもかと背中に吹き付けてくる。ストッキングを履いていても、足がすぐに震えそうになるぐらいだ。JKの時には何も履かずに、生足で冬を越せたのが、今でもとても信じられない。
「とっても美味しいんですよ。こんな寒い夜でも、間違いなく体を温めてくれると思います」
体という台詞を強調しつつ、麗奈は背後に続くカモ男に声を掛けた。
「ですが……」
だが麗奈の問いかけに、男が少し口ごもって見せる。
『まずい!』
男の妄想が消えかかっている。麗奈は男が続けて何かを口にする前に、素早く自分の腕を男の腕に絡めた。このぐらいは我慢だ。本当は近づくのも嫌なぐらいだが、ここで逃げられてしまったら、単なる時間の無駄になってしまう。
「丁度通りの反対側なんです。道沿いに行くと少し距離がありますが、ビルの隙間を抜ければすぐですよ」
普通に考えれば、見知らぬ男とビルの間を抜けるなんてのは、危険極まりない行為だ。だがこのカモ男相手なら大丈夫だろう。それよりも、長く歩かせて、気が変わられる方がよほどに面倒な事になる。
麗奈は男の腕をなるべく自分の体の方へ寄せないように、慎重に腕を組みながら、男を雑居ビルの脇へと引きずって行った。狭い路地の中を覗き込むと、運がいいことにいちゃつくカップルの姿もなく、誰も居ない。
「ここを抜ければすぐです」
麗奈は中年男の腹が、自分の腕にたぷたぷとぶつかるのが気になったが、さらに腕に力を込めて男の腕を引っ張った。
「ふ、普通に道沿いに――」
男が何かもごもごと喋っているのが聞こえたが、麗奈としてはここで逃がすつもりなど毛頭ない。ところどころにある謎の水たまりを避けながら、麗奈は男の腕を引きつつ、通路の奥へと進んだ。だがみぞおちの下に違和感を感じて、途中で足を止めた。
「やば!」
胃から喉の方へ、何かが逆流しようとしている。麗奈は男の体を突き飛ばすと、雑居ビルの塗装が剥げかかった壁に手をついた。胃からこみ上げてきたものが、通路の横にある側溝へと流れ落ちていく。
「大丈夫ですか!?」
背後から男の慌てた声が聞こえた。そして目の前に白いハンカチが差し出される。麗奈はハンカチを素直に受け取ると、汚物に汚れた口元にそれを当てた。それは中年男のものとは思えない、ガーゼ地のハンカチだった。
「だ、大丈夫です」
麗奈はまだ胃から何かがこみ上げて来ようとするのを、必死に抑えながら答えた。
『油断しすぎた』
あの人に会えて、知らないうちに舞い上がっていたのかもしれない。何かに舞い上がって、足元をすくわれる。自分が失敗するときはいつもそうだ。
「何か、飲み物でも買ってきましょうか?」
背後から、再び男の声がした。
「大丈夫って、言っているでしょう!」
その男の台詞に、麗奈は思わず声を張り上げた。こちらが弱っている時に声を掛けてくるなんて、そんなものは全て偽善、いや、偽善ですらない。単なる打算だ。
『そんなものはいらない。こんな世界もいらない!』
自分が打算ずくめで、男を嵌めようとしていた事など全て忘れて、麗奈の心が叫んだ。
「飲み物を買ってきます!」
男の声に続いて、路地を駆け去る足音が耳に響く。麗奈は口元にハンカチを当てながら、小さく笑い声を漏らした。失敗だ。だがその事以上に、こうして狭い路地の影で、汚物を吐いている自分の姿が、笑うしかないぐらいに情けなかった。
「ざまあねえな」
暗がりから、不意に男の声が響いた。それは中年男のおどおどして裏がえった声とは全く違う、もっと軽薄で、仄暗い邪悪さを感じる声だ。麗奈は壁についた手を離すと、声がした方を振り返った。
「英二……」
麗奈の口から驚きの声が漏れる。そこには麗奈がこの世でもっとも会いたくない男、いや、この世に存在を許していないはずの男の姿があった。