マッチング ~その3~
「ただいまです」
ハシモトはアパートのドアを開けると、廊下を兼ねたとても狭い台所に立つ、背の高い男に声を掛けた。
「お帰りなさい」
美声としか言えない落ち着いた声と共に、台所からは昆布の出汁のいい香りが漂ってきた。それに刻みたてのネギの放つ、少し刺激的な匂いもする。
「いい匂いですね。いったい何を作っているんです?」
「今日はずいぶんと冷えるからね。湯豆腐にしたよ」
ハデスは口元に僅かに笑みを浮かべると、ハシモトの方を振り返った。相手は男だと言うのに、その動くギリシャ彫刻とでも言うべき顔を見ると、ハシモトは未だに首の後ろが熱くなる気がする。
「もっとも、豆腐はコンビニの廃棄品をいただいてきたものだけどね」
「味はたいして変わらないと思いますよ」
どうやら料理を作るのは楽しいらしく、居候し始めのころは朝食を作るぐらいだったが、今ではハシモトの一日のやるべきことに、料理と言う台詞はいらないぐらいになっている。料理が好きなのかと聞いてみると、
「料理と言うのはある種の調停と、それによる変化とでも言うべきものだよ。それになかなか奥深い。ネギだって、使う部位と切り方一つで、味も香りも全く変わるのだからね」
ハデスはそう答えつつ、満足げに頷いて見せた。
どうやら彼の中では『調停』というのは単なる言葉以上の意味を持つらしい。もっとも、料理に調停を見出す存在自体が多数派とは思えない。ハシモトとしては、料理は生きていくために、毎日しなければいけないものの一つという認識だ。いや、だったというべきか?
この男が自分の世界に侵入、いや世界を破壊しようとし始めてからこの方、色々なことが変わりつつあるような気がする。
ハシモトは何か手伝うことがないかと辺りを見回したが、食卓を兼ねたこたつの上には既に器や箸が置かれている。どうやら何もする必要はないらしい。ハシモトは何年か前に、コロナの在庫整理品として格安で買った薄手のダウンコートを脱ぐと、一刻も早くこたつへと、自分の安住の地へと向かおうとした。
「ピコン!」
その時だ。コートのポケットに入っている携帯から着信音が聞こえた。この時間に連絡をよこす人物は誰もいない。いや、いなかった。今はハデスがコンビニからの戻りの時間を連絡してくるだけだ。
そのハデスはと言うと、何を調停しているのかは分からないが、台所で慎重に味見を繰り返している。
『何の宣伝だ?』
迷惑メールは徹底してブロックしているはず? ハシモトは首をひねりつつ、コートを壁のフックへ掛けようとした。だが羽が生えたメールが飛んで行ったのを思い出す。
『まさか……、もしかして!?』
慌ててコートのポケットに手を入れて、携帯を取り出そうとするが、かじかんだ手はそれを掴むことが出来ない。携帯はハシモトの指の間を滑り落ちると、台所の方まで飛んでいった。湯豆腐が入った鍋を持ったハデスが、足元に来た携帯を一瞥する。
「レナ?」
画面を見たハデスがおやっという顔をした。歯の根が合わなくなるほどに震えていたはずの体が熱くなる。ハシモトは慌てて携帯を床から拾い上げると、それを後ろ手に隠した。
マッチングアプリからの返信を、しかもハデスの様な超イケメンに見られるなんて言うのは、一生もののトラウマになること間違いなしの案件だ。だがハデスは特に何も告げることなく、鍋をこたつの上へと置くと、お玉で慎重に豆腐を掬い始める。
ハシモトはさりげなく床に落ちたコートを拾うと、待ち受けに表示された返信に素早く目を通した。
「えっ!」
ハシモトの口から思わず声が漏れる。そして再び携帯を床に落としそうにもなった。
そこにはメッセージを送ったレナという女性から、返信に関する丁寧な感謝の言葉と、誠実な人に思える事、一度お会いしたい方の一人だという文が表示されていた。まだ続きもあるらしい。
「ネギはどのぐらいいるかい?」
「あ、あのですね。て、適当でお願いします」
「適当か……。なかなか興味深い依頼ですね」
背後でハデスが何かぶつぶつと言っているのが聞こえてくるが、ハシモトはそれを一切無視すると、ロックを解いて続きを読もうとした。だがどういう訳か、こういう時に限って顔認証がうまく働いてくれない。
ハシモトは顔に気合を入れてみたり、笑みを浮かべてみたりと必死に努力をしてみたが、最後は諦めると、ピン番号で携帯のロックを解いた。
「えっ!」
そして再び口から驚きの声を漏らす。
「ハ、ハデスさん!」
「ネギの量が多すぎましたかね?」
「いえ、ネギはどうでもいいです。今は何時ですか?」
携帯の上部に、時間が表示されていることをすっかり忘れたハシモトが、ハデスに問いかけた。
「19時ちょっと前というところですかね」
ハシモトは壁に掛けたコートを手に取ると、再び袖を通した。あと30分ほどしか時間がない。ともかく急いで返信をして、すぐに出かけないといけない。
「ちょっと、出かけて来ます」
ハシモトは仕事では決して見せない、全身全霊をもって返信を書きながら、ハデスに声を掛けた。
「会社に何か忘れものでもしましたか?」
「いえ、違います。じ、自転車の鍵はありますか?」
「ええ、これですが?」
「すいません。湯豆腐は帰って来てからいただきます」
そう告げるや否や、ハシモトはハデスの手からひったくるように自転車の鍵を受け取ると、慌ただしくアパートの扉から飛び出していく。
「おやおや。世界の滅ぼし方についても、このぐらいの意欲をもって、取り組んでもらいたいところですけどね」
ハデスは誰に告げるでもなく呟くと、手にした器から漂うゆずの香りに、とても満足げな表情をして見せた。
「これこそが調和と呼ぶべきものです」
だが箸をつけようとした器をこたつの上へと戻す。そしてこたつの先の廊下へと視線を向けた。
「これが無くても、相手に会えるものでしょうかね?」
そこには慌てて出かけたハシモトのポケットから滑り落ちた携帯が、小さく振動音を響かせていた。
* * *
「もしかして、既読無視!」
麗奈は携帯の画面に向かって怒声を浴びせた。その声に、道行く人たちの幾人かが麗奈の方を振り向く。だが麗奈が顔を上げると、慌てて足早に通り過ぎて行った。
絶対にカモだと思ったんだけど、どこかの商売女にでも横取りされた!? 思わず両手で頭を掻きむしりたくなる。だがそんなことをすれば、せっかくきれいにまとめているツィンテールが台無しになってしまう。
代わりに携帯を投げ飛ばしたくなったのをぐっと我慢すると、麗奈は大きく深呼吸をしながら、辺りの景色を見渡した。通りに面したファストフード店からは甘い声のクリスマスソングが流れ、夕飯時を過ぎた少し遅い時間でも、歩道を多くの人々が行き交っている。
そこに居るのは、麗奈から見ると、まるで金太郎飴の様に同じ姿に見えるサラリーマン達だったり、周りの迷惑を顧みず、大声で話をしながら歩道を歩く大学生。それに家に帰りたくないのか、手を繋ぎながらやたらにゆっくりと歩く、うざったい高校生カップルだ。
「つまんない」
麗奈の口から独り言が漏れた。本当になんてつまらない世界なんだろう。この景色は昨日も今日も変わらない。きっと去年とも変わっていない。こんなつまらない世界なんていらない。
自分に必要なのは自分の魂そのもので出来た世界。自分の情熱の全てを注ぎ込むことが出来る世界だ。それは存在していたはずなのに、今はその破片すら見つけることが出来ないでいる。
麗奈は携帯を持つ手を息で温めると、写真と名前がついたアイコンを押した。そして画面に表示されたピンボケ写真を、それこそ穴でもあけるかの様に見つめてみる。だがどんなに目を細めても、大きく開いて見ても、写真は決して鮮明になってくれたりはしない。
だけど麗奈は彼の姿を、羽田の姿を克明に思い浮かべることが出来た。当たり前だ。彼こそが自分の理想とする姿そのものなのだから。この世界に必要なのは彼と自分だけ。それ以外の全てはゴミ。全部まとめて、ブラックホールとかいうゴミ箱に放り込んでやればいい。
麗奈は自分の部屋の片隅でほこりをかぶっているスケッチブックを思い出した。そうだ。彼にモデルをお願いするのはどうだろう。モデル料はその辺の中年男からでもむしり取ってやればいい。ペンタブで誰かの妄想に付き合うのではなく、自分の書きたいものを自分の手で紙の上に書くのだ。
そう心に決めると、代わりのカモを探すために、麗奈はマッチングアプリの着信タブを押した。そこには掃いて捨てるほどのメッセージがあったが、どれも通り一辺倒の冷やかしだけだ。思わず口からため息が出る。やりたいことが出来たと言うのに、いったい自分は何処で何をしているのだろう。
「な、ない!」
その時だった。麗奈の耳に、中年男の情けない悲鳴の様な声が聞こえた。ファストフードの前に置いてある白髪の人形ほどではないが、それに負けないぐらいの腹回りの中年男性が、薄手のコートのポケットや、ズボンのポケットやらに手を入れて、何かを必死に探している。
そして世界の終わりでも来たかの様な絶望した表情をすると、まるで警官を恐れるコソ泥みたいに、辺りをきょろきょろと見回すのが見えた。
『間違いない……』
その情けない姿に、麗奈は自分の唇の両端が思わず上がるのを感じた。こいつがカモだ。慌てて携帯を落とす、正真正銘、掛け値なしのカモ男だ。