マッチング ~その2~
ブ~、ブ~、ブ~
夜のとばりが落ちた街を歩く麗奈のポケットの中で、携帯がずっと振動音を響かせている。マッチングアプリからの通知だ。麗奈は足を止め、冷えた手を小さくこすると、携帯の画面に出ているメッセージの山をちらりと眺めた。
「なにこれ、ベテランばっかりじゃない」
携帯の画面を流れていくメッセージは、一緒に食事でもして、気が合ったらカラオケにでも行きませんかとかいう類の、同じ内容ばかりで埋め尽くされている。
狙っていたうぶな中年男なんて相手は引っかからなかったようだ。麗奈は携帯をポケットにしまうと、顔を上げてため息をついた。その視線の先に街路樹につけられたイルミネーションの黄色い光が見える。
「今日はもういいか」
麗奈はそう独り言を漏らすと、自分のアパートに向かって歩き始めた。
商店街から外れると、そこにイルミネーションの明かりはなく、街路樹はただの枯れ木に変わる。そして吹き抜ける木枯らしに、小さく口笛の様な音をたてているだけだ。麗奈は着ている真っ黒なコートの襟を首元に寄せた。
本当の人の温もりを感じられなくなってから、一体どれだけになるのだろう。いや、そんなものは最初から無かったのだ。全ては偽りだ。麗奈は帰ったら冷蔵庫にあるストロング缶を全て開ける事に決めた。
しかしそこで何もつまみになるものがないことに気付く。だが商店街からはもうだいぶ離れてしまっていて、今更戻る気にもならない。そう思って顔を上げた麗奈の目に、青い看板が飛び込んできた。
「あれ、こんなところにコンビニってあったっけ?」
どうやら知らないうちに新しいコンビニが出来たらしい。
「ここでもいいか……」
麗奈はコンビニの入り口の扉を肩で押した。暗くなってはいるが、まだ夕方の時間だというのに、店の中には人気がない。出来たばかりで、まだ知られていないのかしら? 麗奈はそんな事を考えながら、酒のコーナーの横にあるつまみの棚へ足を向けた。
ともかく片づけなんかはしたくない。麗奈はエイひれやドライソーセージといった、乾き物のつまみを手に取ると、そのままレジへと向かう。
だが麗奈の足がそこでピタリと止まった。それだけではない。胸に抱いていたつまみの袋も床に散らばる。だが麗奈はそれを拾うことも、いや動くことも出来ずに、じっと前だけを見つめた。
麗奈の視線の先では長身の黒いくせ毛の男性が、物憂げな表情をしながら、防犯カメラの映像だろうか、カウンター横の何かをじっと見ている。
『嘘でしょう!』
麗奈は心の中で悲鳴を上げた。自分がデビューしたての頃に書いた、聖女に対して表面上は敵対して見せながら、実は陰で密かに手を貸すヤンデレ賢者。それにそっくりの姿が目の前にいた。いや、自分が描きたいと思っていて、書き切れずにいた理想の姿が目の前にいたのだ。
もっと近くに寄って、その顔をよく見たいと思うのだけど、麗奈の足は魔法にでも掛けられた様に動こうとしない。それでも目の前の人物は麗奈の存在にやっと気付いたらしく、視線だけを麗奈の方へちらりと向けた。だが直ぐに再びカウンター横に視線を戻す。
バイトとはいえ、店員の接客とは思えないほど冷淡な態度だ。麗奈は背筋を何かがぞくぞくと這い上がってくるのを感じた。このつれない態度……
「なんて完璧なの……」
麗奈の口から思わず声が漏れた。この冷淡としか言えない態度。まさに孤高の大賢者「ハデス」その人としか思えない。自分が主人公の「レナ」になったのではないかと錯覚しそうなぐらいだ。
男性が再び麗奈の方に顔を向けた。そして床に落ちたエイひれの袋へ視線を向けると、首を僅かに傾げて見せる。
その仕草に麗奈の体の呪縛が解けた。麗奈は慌てて床に落ちたつまみを拾い上げると、それをカウンターの上へと置く。そして高いヒールを履いているにも関わらず、頭のはるか上にある男性の顔を見上げた。
そこにある漆黒の瞳が自分を見ている。その事実に麗奈は自分の鼓動の高鳴りを、それが自分の耳に直接響いて来るのを感じた。その音は今にも爆発するんじゃないかと思うぐらいに激しく脈打っている。
「袋はいりますか?」
レジを打つ男性の声が耳に届いた。透き通った深みのある声音だが、あくまで事務的な言葉に我に返る。
「あ、お願いします」
「1342円です」
麗奈は携帯で払おうとして、ポケットに手を伸ばしたが、すぐにその手をひっこめた。ここでマッチングアプリのメッセージが表示された携帯を出す訳にはいかない。
「カードでお願いします」
「差し込みをお願いします」
「レシートはいりますか?」
「いえ、いりません」
男性が出てきたレシートを不要の籠へと入れる。それを見てから麗奈は心の底から後悔した。必要だと言えば彼の手に触れられたかもしれないのに、どうして断ってしまったのだろう。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
男性の事務的な答えに、麗奈は思わず丁寧に頭を下げてしまった。自分の間抜けな行動に、麗奈は首の後ろが燃えているのではないかと思う程の暑さを感じる
「おや、どうやらあなたも闇を――」
麗奈の耳に男性が小さく呟くのが聞こえた。慌てて顔を上げるが、男性はすでに顔を横に向けていて、防犯カメラの映像をじっと見ている。
麗奈はその胸元にある名札に目をやった。そこには「羽田」と小さく書いてある。外国人かその血を引いていると思っていた麗奈にとって、その名前は意外だった。
もしかしたらハーフなのかもしれない。麗奈はそんなことを考えながら、まるで夢でも見ているような、ふわふわした感じに包まれつつ、コンビニの扉を開けた。
開けた瞬間に、木枯らしが麗奈の黒いコートの裾を叩く。だが入る前に感じていた、身を切るような寒さは何も感じられない。
そうだ。彼の写真を一枚撮らせてもらおう。麗奈はガラスの外から目いっぱいに拡大して、その横顔の写真を撮った。拡大しているので荒くはあるが、ばっちりとその秀麗としか呼べない顔が映っている。
これは完璧なおかずだ。これを見ているだけで間違いなく幸せな気分になれる。
「羽田さん、羽田さん、羽田さん」
麗奈はまるで呪文のようにその名を唱えながら道を歩いた。気が付くと、いつの間にか自分のアパートの前まで来ている。だが麗奈は二階へと登る階段の前で立ち止まった。
この出会いこそ運命の出会いではないの? このまま階段を上がって、部屋に入ってしまってもいいの? そんな思いが頭をよぎる。麗奈は頭を横に振ると、もと来た道を駆け戻った。もう一度あの人に会うのだ。会って何か話をするのだ。
普通の人にとってはさほどの距離ではないのかもしれないが、不健康そのものな生活をしている麗奈にとって、僅かな距離を走るだけでも体が悲鳴を上げる。
しかし麗奈にとって足に感じる痛みも、冬なのに背中を流れる汗も今は関係ない。ただあの人にもう一度会いたい。その一心で手と足を動かす。
そしてコンビニの青い看板がやっと見えた。入り口に入ろうとして一瞬足を止める。こんな荒い息をしてあの人の前に出る訳にはいかない。必死に深呼吸をして息を整えた。
だが深呼吸をしながら、麗奈はコンビニの前にいくつか自転車が止めてあるのに気がついた。高校生らしい客が、雑誌売り場の前にたむろしているのが見える。さっきは誰もいなかったのに――
「邪魔!」
麗奈はそう毒づくと、頭の悪そうな高校生たちを、心の中で数回トラックで轢いてやった。だが彼らが雑誌売り場の前から動く様子がないのを見ると、あきらめて店のドアを押して羽田の姿を探した。
「店長、唐揚げの追加はまだですよね」
「そうだね。もう少し減ってからでいいかな」
レジには店長らしい中年の男性と、女子大生らしいアルバイトの女の子しかいない。
羽田の側で働けるという一点で、麗奈の心にその女子大生に対する強烈な殺意が湧き上がってくる。それを感じ取ったのか、麗奈の方を振り向いた女子大生が「いらっしゃいませ」と言いかけて、すぐに麗奈から視線を避けて俯いた。
「あの、何かお探しでしょうか?」
代わりに店長らしき中年の男性が麗奈に声を掛けてきた。だが麗奈の殺気を感じたのか、その声は微かに震えている。
「羽田さんはどちらでしょうか?」
麗奈はレジ前に足を進めると、店長に問い掛けた。その勢いに、店長がカウンターの向こうで一歩後ろに下がりそうになっている。
「羽田? うちのバイトの羽田ですか?」
「ええ、さっきまでこちらにいたと思うんですけど?」
「彼が何かご迷惑でもお掛けしましたでしょうか?」
そう告げると、店長は困ったような表情を浮かべて見せた。
「えっ?」
「彼はどうも愛想がない男でして、もしお客様の気分を害すような態度がありましたら、私の方から謝らせていただきます」
そう告げると店長がぺこりと頭を下げた。その横にいる女子大生のバイトも麗奈に向かって頭を下げる。
「あの、別にそういうわけじゃないんですが――」
「ぼっとしたところはありますが、別に悪気があるわけじゃないんです」
何を勘違いしたのか、店長は麗奈に向かって詫びの言葉を続けている。麗奈は店長に向かって頭を横に振って見せた。
「いえ、高校の時の先輩にそっくりだったので、彼がまだここにいるかどうか聞きたかっただけです」
「高校の先輩ですか?」
店長が今度は訝し気な表情をすると、隣の女子大生と顔を見合わせた。
「ええ、あんな素敵な方をそうそう見間違えたりはしないと思いまして――」
その言葉に何がおかしいのか、女子大生が口に手を当てて含み笑いを漏らした。もしかして、この女は彼と私がとても釣り合わないとでも思って、笑っているのだろうか?
麗奈は頭の中で石を手にすると、それで女子大生の顔を連打してやった。だがどうやらこちらを馬鹿にした訳ではないらしい。見ると店長も笑いをかみ殺すようなおかしな表情をしている。
「羽田さんがですか? これと言って特徴がない人ですから見間違い――」
「これ、お客様に失礼だよ」
「あ、すいませんでした!」
女子大生が慌てて麗奈に頭を下げた。どういう事だろう。
「何か彼に伝えておくことがありましたら――」
「いいえ、なんでもありません。多分私の見間違いです」
麗奈はそう答えるとコンビニを飛び出した。ガラスの向こうで高校生たちが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。麗奈が睨むと、彼らは慌てて店の奥へと姿を消した。
一体どういうことだろう。あんな完璧な容姿の男性に対して、店長もあの女子大生も、まるで彼が彼でないような扱いをしている。もしかして、自分は夢でも見ていたのだろうか?
いや、そんなことはないはずだ。麗奈はポケットから携帯を取り出すと、邪魔なマッチングソフトの通知の山をかいくぐって、写真のアイコンを押した。そして羽田の写真を開く。
「あれ?」
さっき見た時は間違いなくはっきりと映っていたと思っていたのに、画像はぼんやりと男性の姿を映しているだけだ。その顔ははっきりしない。自分は夢を、幻を見ていたのだろうか?
背後を振り返ると、店長が女子大生のアルバイトと何やら二人で話し込んでいる。間違いなく自分の事だろう。扉越しに麗奈の視線に気が付いた女子大生が、慌てて店長の袖を引っ張った。その姿が麗奈の心に黒い怒りの炎をつける。
「なんなの!」
ともかくこんな気分のままで一人、アパートに帰る訳にはいかない。それに絶対にあれは見間違いなんかじゃない。
ブゥ~~
携帯にぼんやりと映っている写真に必死に目を凝らしていた麗奈の前に、振動音と共にメッセージが表示された。マッチングアプリからの通知だ。
「邪魔!」
麗奈はそれをフリックで消そうとして指を止めた。
「趣味は読書に料理? 年齢は30台後半?」
まちがいない。40過ぎのすれていないおっさんからのメッセージ、間違いなくカモだ。麗奈はそれにいいねをつけると、返信を書き込んだ。画面を閉じる間もなく返信が入る。
麗奈は口元にゆがんだ笑みを浮かべると、手にしたコンビニの袋を入口横のゴミ箱に突っ込む。そして鼻歌を響かせると、駅へ向かっておもむろに歩き始めた。