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サイコパス ~その10~

「お手洗いはこちらです」


 看護師の言葉に、麗奈は小さく頷いて見せた。


「入ってすぐ左手のところに、照明のスイッチがあります」


 そう言葉を続けた看護師に対して、麗奈は廊下の奥の暗がりへ視線を向けると、何かに怯えた表情を作って見せた。ともかくこの男をここに引き留めないといけない。


 ハシモトが(羽田)を連れて出てくるまでに、どれだけの時間が必要だろうか? 一、二分ではとても足りないのは間違いない。


「すいません。昔から暗い所が苦手でして――」


「暗所恐怖症は、子供の頃のトラウマが原因の場合が多いんですよ。でも10%以上の人が、何らかの恐怖症を持っているという話ですから、別に珍しいことではありません」


 そう告げた看護師に向かって、麗奈は頷いて見せた。同時に話に乗ってきたとも思う。


「何か克服する方法はありませんでしょうか? 夜に部屋の電気をつけっぱなしにしているので、電気代がかさんで仕方がないんです」


「セロトニン増加剤などの、薬剤による治療方法もありますが、催眠治療も効果がありますね」


「催眠で治るんですか? あれって五円玉で――」


「もっとちゃんとした治療ですよ。恐怖症はその原因となったトラウマと向き合う事が大事ですので、それを探る方法の一つなんです」


「トラウマですか……」


 看護師の言葉に麗奈は再び頷いた。そして心の中で、そんなものは掃いて捨てるほどあるとも呟く。むしろトラウマこそが自分の人生そのものであり、それを自分にもたらしたこの世界こそが、呪うべき存在なのだとも思う。


「もしかして――」


 思わず考え込んでいた麗奈は、看護師の呼び掛けに顔を上げた。暗がりの中で、看護師が自分をじっと見つめている。麗奈はそれが、男が女に向ける視線とは違うのに気が付いた。


「あなたはここの元患者さんですか?」


「えっ?」


 看護師の言葉に、麗奈は思わず驚きの声を上げた。同時に何かまずいことが起きていることにも気づく。


「私たちはこれでも人間観察のプロなんですよ。それもどちらかと言えば、何か問題を抱えている人達のです」


「何を仰っているのか、よく分からないのですけど?」


「ずっと私の方ばかりを見ていましたね。それも友好的とは思えない視線でです。正直、あなたの抱えている闇は、とても人のものとは思えませんよ」


「私はあなたの様なマッチョな方がタイプで、つい――」


 そう声を上げた麗奈に対して、看護師が首を横に振って見せた。


「そもそも暗所恐怖症の人は、深夜の病棟なんかに足を踏み入れたりはしません」


 看護師の台詞に、麗奈は一歩後ろへ下がった。通路の奥には非常階段の扉があるだけで、行き止まりになっている。


 もしかしたら、そこから外へ出られるかもしれない。出られなくても、火災報知器を鳴らすことで、彼が外に出るチャンスを作れる。最初から小細工なんか抜きで、そうするべきだったのだ。


「本当にマッチョが好みなだけなんですよ!」


 今だ。麗奈は一瞬苦笑して見せた看護師の隙をついて、非常扉へと走った。だがすぐに何かが自分の横を通り過ぎると、目の前に立ちはだかる。


「舐めてもらっては困ります。私たちは普段から普通じゃない人たちの相手を、朝から晩までしているのですよ」


 麗奈は反対のエレベーターホールへ走ろうとしたが、背後から腕を押さえつけられてしまう。それは女の力では到底振りほどくことが出来ない、強固な意志と力強さに満ちていた。




 ハシモトが扉の横のリーダーにカードをかざすと、小さな金属音と共に、シリンダ錠が回転する音が聞こえた。ともかく音がしないように、ゆっくりと扉を開ける。


 先ほどのスイッチが効いたのか、特に警報の音はしない。背後の暗闇からは、麗奈と看護師の靴音だけが響いている。他には物音が特にしないのを確認すると、ハシモトは扉の先へ体を滑り込ませた。


 注意深く辺りを覗くと、正面と左手に向かって廊下が伸びており、左手奥にある扉の隙間からは、明かりが微かに漏れている。病棟を見回っている看護師が、患者の世話をしているらしい。


 看護師に出会い頭に出くわすのを避けるため、ハシモトは先に明かりがついている方の廊下へ向かった。そこは全て相部屋らしく、部屋の入り口には、複数の名前のネームプレートがあるのがうっすらと見える。


 ハシモトはその名札に目を凝らしながら、廊下を奥へと進んだ。そこには羽田らしき名前はない。もっとも無断離棟した男が、相部屋に収容されているとも思えなかった。


「飯倉さん、もう遅いですから寝ましょうね」


 明かりがついていた一番奥の病室で、男性看護士が患者に語り掛けているのが聞こえた。それに対して患者が何か答えているがよく聞こえない。だがしばらくは患者の相手が続きそうな気がする。ハシモトは踵を返すと、入り口から別の廊下へと進んだ。


 そちらは誰かの寝息が聞こえることもなく、ひっそりと静まり返っている。部屋の扉の間隔は狭く、名札が掛かっていても一枚しかない。つまり羽田がいるとすれば、この廊下に面する部屋のどれかだ。


 だが廊下の突き当りまで行っても、羽田と言う名札はどこにもない。ハシモトは見落としたのかもしれないと思いつつ、ネームプレートを確認しながら、入り口近くまで戻った。やはり羽田の名前は見当たらない。


 そこでハシモトは、自分がとてつもなく間抜けな存在であることに気が付いた。


『羽田、今回はそう名乗っていたみたいですが――』


 伊藤と名乗った刑事と、瀬須と名乗った医師が自分に告げた言葉だ。ハシモトはそれを思い出しながら、部屋の扉の横にあるネームプレートを見つめた。


 ハシモトは羽田の本名を知らない。見つけるには全ての部屋のドアを開けて、明かりをつけるか、呼び掛けるしか方法がない。しかもこの部屋の向こうには、どんな人物がいるのかも分からないのだ。悲鳴の一つも上げられた時点で、万事休すとなる。


 その時だった。ハシモトのイヤフォンから声が聞こえてきた。


「いや、離して!」


 それだけじゃない。バタバタと足を床に打ち付ける音もしている。


『まずい!』


 間違いない。麗奈があの看護師に捕まっている。ハシモトは誰かに心臓を鷲掴みにされている気がした。慌ててドア横のリーダーにカードをかざすが、それはすぐには反応しない。それが緑に変わるまでの一瞬が、あまりにも長く感じられる。


 自分はいい。どうせこのまま生きていても、大したこともない人生を過ごすだけだ。だが麗奈は違う。彼女はまだ若い。そしてその人生には多くの可能性が残っている。


 前科者になるのは自分だけでいい。ともかく麗奈を助け出さないといけない。


 ガチャ!


 ハシモトにとっては何分もの時間が過ぎたように思えた後に、シリンダ錠が開く音が響いた。ハシモトは音など気にせず扉を開けると、その先へと体を飛び込ませる。


「モブ!」


 ハシモトの姿を見た麗奈が叫んだ。その両腕は背後でガタイのいい看護師に、きつく締め上げられているのが見える。


「彼女を離せ!」


 ハシモトは麗奈の所に突進しようとした。だが右手から差し出された腕がハシモトの体を遮る。


「これ以上の騒ぎは困りますよ」


 ハシモトの体は、あっけなくそのまま上から押さえつけられた。必死に力を入れても、全く身動きが出来ない。顔を上げると、看護師の足を踏みつけようとしている麗奈の姿と、自分を覗き込む制服姿の若い男の顔が見える。それは通用口にいた、あの若い警備員だった。


「3F、不審者の身柄を確保」


 ハシモトの腕を完全に決めながら、警備員がトランシーバーに向かってそう話すのが聞こえる。やはり自分には無理だったのだ。ハシモトはそう思った。


 自分の周りが変わったからと言って、勝手に自分が別の何かに変わることなどない。パソコンの画面を見て、自分の投稿にPVが全くつかないことに、そして多くのPVや感想をもらえている他の投稿者に、人知れず呪詛の言葉を履いていた存在から、自分は何も変わってなどいなかったのだ。


「あんた達、すぐに羽田さんを解放しなさい!」


 思わず体の力を抜いたハシモトの耳に、麗奈がそう叫ぶのが聞こえた。その声に向かって、「すまない」とハシモトは心の中で懺悔する。


「何をしているの?」


 誰だろう? 不意に廊下の奥から女性の声が響いた。そしてこちらへと歩いて来る靴音も聞こえる。


「私はこの方達とお話がしたいの。それが可能なようにしてもらえるかしら?」


 女性の台詞に、警備員はハシモトの体を持ち上げると、まるで猫を掴むかのように立たせた。看護師も麗奈から腕を離したのが見える。そしてハシモトの視線の先には、アパートの前で話をした、あの瀬須医師が立っていた。


「彼らは侵入者でして、規定により――」


 警備員の返答に、瀬須医師はまるで彫像が動き出したかの様な美貌に、少し怪訝そうな表情を浮べて見せた。


「規定の施行については、私の専任事項のはずだけど、それについて何か疑問でもあるのかしら?」


 ハシモトは似たような台詞をどこかで聞いたことがあると思ったが、それを思い出す前に麗奈が口を開いた。


「ちょっと、おばさん。あんた誰?」


 腕をさすりながら麗奈が声を上げた。


「坂本麗奈さんね。私はここで彼の主治医を担当している瀬須と申します」


「あんたが羽田さんを閉じ込めている、張本人ってわけ!」


 瀬須医師に向かっていこうとした麗奈の腕を、看護師が掴んだ。


「ここには他の患者さんもいるから、静かにお願いします。それに静かに出来ると約束するなら、彼のところに案内してあげるわ」


 そう言うと、瀬須医師は看護師に再び押さえつけられた麗奈の顔を覗き込んだ。その顔には有無を言わせぬ迫力がある。それに気圧されたのか、麗奈は小さく頷いて見せた。


「では、話はついたようね」


「ですが、瀬須先生――」


 そう声を上げた看護師に向かって、瀬須が小さく首を傾げて見せた。


「そこのハシモトさんには、彼の件でここにカウンセリングを受けに来るようにお願いしていたの。彼らはそれに応じて私の所に来てくれただけよ。何か問題でも?」


「いえ、何でもありません」


「では、一緒に来てくれるかしら」


 やはり羽田は、ハデスはこの扉の向こうにいたのだろうか? ハシモトは背後の金属製の扉を振り返った。


「そっちじゃないわ。彼はそこにはいないの」


 瀬須医師はそうハシモト達に声を掛けると、白衣を翻し、業務用エレベーターに向かって、真っ暗な廊下を歩き始めた。

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