サイコパス ~その6~
「やっぱりそうなりますよね」
ハシモトは麗奈にそう告げると、大きくため息をついた。ため息をついたハシモトに対して、麗奈がイラついた顔をして見せる。
「そんなの毎日太陽が東から昇ってくるのと、同じくらいに当たり前の事じゃない」
「でも精神科の閉鎖病棟が、どれだけ厳重な場所なのか、麗奈さんは知っています?」
「はあ? そんなの知ったことじゃないわよ!」
麗奈がさらにいらついた顔をして見せる。
「やっぱりそうなりますよね」
心神喪失において、その罪が問われないからと言って、それは決して自由を意味する訳ではない。その治療のための施設が存在し、そこは刑務所並みに厳重に管理されている。
「もしかして、私にあきらめろとか言っているの?」
そう問いただした麗奈に対して、ハシモトは首を横に振って見せた。そしてポケットから一枚の名刺を取り出すと、それを麗奈に向かって差し出す。
「なにこれ?」
「彼が収容されている病院です」
「ここに行けばいいのね」
「そうです。それにどうやらこの病院は、私の仕事先と関係があるみたいなんです」
「どういう事?」
「うちの会社は医療材料の卸をやっていて、この病院もうちの卸先なんです」
それも都合がいいことに、丁度システムの入れ替えをやっており、ハシモトがそこに、しかも夜間に尋ねたとしても、何か理由をこじつけることが出来るかもしれない。
ハシモトの言葉に麗奈が目を輝かせる。その目を見ながら、ハシモトは自分は一体何をしているのだろうかと、自問自答した。
自分がやろうとしていることは、間違いなく犯罪の類だ。仮にそれでハデスと会う事が出来たとして、そこから得られるのは、ハデスに対するいくつかの質問と、それに対する回答だけだろう。
その代償はとてもそれに引き合うものではない。いや、自分だけではなく、課長の美鈴を始め、会社にとんでもない迷惑をかける事だろう。それは間違いなくハシモトにとっての「世界の終わり」を意味している。本当に自分はそれをやるつもりなのか?
「モブ、さっさと行くわよ!」
そう告げた、麗奈の何の迷いもない顔を見て、ハシモトは覚悟を決めた。人様に迷惑を掛けるのは心苦しいが、でもこれをしなければ、自分が何のためにこの世に生きて来たのかすら、分からなくなりそうな気がする。
「そうですね。では玄関から靴を持ってきてください」
「はあ?」
「やっぱり刑事ドラマの見過ぎですかね。どうも私たちは監視されている様な気がするんですよ」
麗奈にそう告げると、ハシモトはパソコンの電源を入れた。画面のロックを外すと、そこには書きかけの投稿小説が映し出される。その最後は、赤毛の少女が王子様に啖呵を切るところで止まっていた。
ハシモトはそのウィンドウを最小化すると、以前にエロサイトからダウンロードした動画を開く。画面一杯に、二人の男女が絡み合うシーンが映し出された。
「いきなり何をしてるのよ。あんたはロリコンなだけでなくて、本物の変態?」
麗奈が驚いたというより、心底呆れた顔をしてハシモトを見ている。
「ロリコンじゃありません! ともかく私たちがまだ部屋にいるように思わせる為です」
「な、ななな、なんで私があんたなんかと――」
「別にこれを見ながら、麗奈さんをどうこうしようと言う訳じゃありません。声を借りるんです。それに間違っても、そんな気なんて起こしません」
ハシモトの言葉に、麗奈が今度は眉間に皴を寄せた。
「なんですって! 最初に会った時には、どうこうする気満々だったでしょうが?」
「何をそんな遠い昔の事を言っているんです」
ハシモトは麗奈に向かって苦笑いをして見せた。でも確かにそうだ。初めて会った時には、若くてとってもかわいい子に会えたと勘違いをして、舞い上がっていたのを思い出す。
「それよりも、窓から出るので、さっさと玄関から靴を持ってきてください」
ハシモトの言葉に、麗奈が頷いた。二人で窓際で靴を履くと、隣のアパートの敷地ギリギリにある、全く日の差さない窓を開ける。
「やっぱり、刑事ドラマの見過ぎですかね?」
「そんなことないわよ。これには羽田さんの運命、いや私と羽田さんの宿命がかかっているのよ!」
そう告げた麗奈の背後からは、男女の言葉とは違う声が響き渡っていた。
「ふう」
田島美鈴は今日何度目になるか分からないため息をついた。システム入れ替えのリハーサルが終わったところで、オフィスには誰もいない。ここしばらく残業が続いた分の休みを取っているか、どこかに憂さ晴らしにでも行っているのだろう。
美鈴は一人残って、入れ替え手順の最終チェックをしていた。これで問題なければ、メールで客先にそれを流して終りだ。
だがどれだけ集中しようとしても、あるものが頭にちらついて、その内容が全く入ってこようとしない。それは分かれた夫が、美鈴が離婚を切り出した時に見せた顔だった。それが今夜は、どうやっても頭から出て行こうとしないのだ。
美鈴はその原因が何かはよく分かっていた。今日の昼間に会った男性のせいだ。それはまさに芸術家が心血を注いだかの美しい姿をした男性だった。その受け答えにも間違いなく理性を感じる。つまりは非の打ち所がないという奴だ。
昼間に会った彼ほどではないにせよ、美鈴の別れた夫も、誰もが完璧と呼ぶような男性だった。大手の商社に勤めて、同期はもちろん社内でも最優秀。それでいてそれを鼻にかけることなく、むしろ出世などには興味を示さず、現場で汗を流す。
容姿についても、どこにも文句のつけようもない。夜も含めて、美鈴にはいつも優しく接してくれる。付き合っている時も、結婚した時も、人付き合いが苦手な美鈴の周りにいた数少ない友人たちは、いつも美鈴のことを羨ましがっていた。
だが美鈴はそんな夫と暮らすことが、いつしか息が詰まるぐらいに苦痛になっていく。それは夫が完璧すぎたせいだった。美鈴がわざと悪態をついたりしても、決して声を荒げたりはしない。その態度を前にすると、美鈴は自分がいかに無能で、感情的な人間であるかの様に思えてしまう。
さらに夫も含め、周りの人間達が美鈴のことを褒めることで、美鈴のその思いはさらに悪化していった。今でも美鈴の所には、仕事の付き合いのある人間や、ヘッドハンターなどから転職しないかと声が掛かる。
彼らは一様に、美鈴はこんな小さな会社で働く様な器ではなく、もっと大きな会社で、美鈴でないと出来ないような仕事に就くべきだと告げた。
だが美鈴は誰かが、「君みたいな優秀な人が――」と声を漏らす度に、その人物に対して、殺意に近い感情すら抱くようになっている。
そして自分が本当に壊れる前に、いやもう壊れていた美鈴は、夫に離婚を切り出した。夫は驚いた表情をしたが、感情を表に出すことなく、「自分の何が悪かったのだろう」と呟くと、美鈴を前にじっと考え込んで見せた。その顔が頭から離れないのだ。
その時、美鈴は夫に対して一番言いたかった言葉、「あなたに欠点がないこと」を告げることは出来なかった。おそらく告げたところで、本当に理解などしてもらえなかったと思う。
それ以来、美鈴は前にいた会社を辞めて、この小さな医療材料卸の会社で働いている。それでも人は美鈴の事を優秀だといい、頼ってもくる。しかし美鈴は自分だけでなく、そんな自分の周りにある世界そのものを嫌悪し続けた。いや、全て壊れてなくなってしまえとまで思っている。
だが美鈴はそれを表に出すことなど出来ない。それが出来るのであれば、とっくに自分の人生は別のものに変わっていたはずだ。
「ふう」
美鈴は再度ため息をつくと、再び手元に印刷した手順書へと視線を向けた。いったい自分は何をしているのだろう。せいぜい仕事をするぐらいしか能がないというのに――。
カタ……
その時だった、美鈴の耳に何かが動く音が聞こえた。誰かオフィスに残っているのだろうか? 美鈴は首をひねった。最後にオフィスを離れた梅嶋が、美鈴に課長が最後ですと声を掛けてきたはず。梅嶋は見かけはチャラい上に口も悪いが、意外と中身はしっかりしている。
美鈴は手順書を机の上に置くと、席から立ち上がった。防犯用のブザーが設置されているので、泥棒が入ったとは思えないが、この会社も医療材料を扱っており、それらにはとても値が張るものもある。
ガチャ……
美鈴の耳が再び何かの音を捉える。それは扉のドアを回す音にしか聞こえなかった。間違いない。誰かがこっそりと何かをしようとしている。そうでなければ、電気がついているこの部屋にいる美鈴に、挨拶の一つぐらいはしに来るはずだ。
慎重に部屋のドアを開けると、美鈴は非常用扉の緑のランプだけが光っている廊下をそっと覗いた。隣の倉庫を兼ねた作業室の扉が僅かに開いており、そこから一筋の灯が廊下へ漏れている。それにコピー機だろうか? 何かが動くウィーンという機械音もした。
誰だろう? 美鈴は廊下を進むと、思い切ってその扉を開けた。
「ハシモト君?」
美鈴の口から言葉が漏れる。目の前では、プリンターから印刷した紙を手にしたハシモトが、壁にぶら下がった社用車のキーに手を伸ばそうとして、そのまま固まっていた。