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サイコパス ~その4~

 辺りではサイレンの音がずっと鳴り響いていたが、ハシモトはそれすら気にならないぐらいに、とある件について考え込んでいた。なぜ美鈴は羽田の事に、その容姿が超イケメンである事に気づけたのだろう?


 図書館の例の本でハデスを召喚してしまった自分を除けば、その存在にまともに気が付いたのは麗奈だけだ。それ以外はハデスが道を歩こうが、バイトに行こうが、誰もハデスの事を振り返ったりはしなかった。彼の容姿を考えればあり得ないことだ。


 なのでハシモトは、普通の人からはハデスが実質的に見えていないのだと理解していた。そして麗奈がなぜハデスに気づけたのかについても、ハシモトは一つの仮説を持っている。麗奈は絶対に認めないと思うが、自分と麗奈は似た者同士なのだ。


 読みにきてくれる人など誰もいないが、一応は自分も小説なるものを書いている。一つの世界を苦しみながらも作り出して来たという点については、麗奈も自分も同じだ。


 そして何よりこの世界に絶望し、こんなものなどなくなってしまえと願っていた。いわゆる闇堕ちである。これがハシモトがハデスを召喚してしまった、そして麗奈からハデスが見えている理由だと思っていた。


 だがハシモトはその説に自信を持てなくなっている。美鈴には間違いなくハデスが見えていた。でも美鈴にそれが見えた理由はなんだろう?


 ハシモトが日々会社で接している限りにおいては、美鈴は上からも下からも頼りにされ、それにふさわしいだけの実力もある人間だ。そして年齢を重ねても、その美貌は道いく男たちが振り返って見るような存在でもある。


 そんな美鈴が、自分や麗奈と同じく闇落ちした人間だとは到底思えない。だとすれば、自分や麗奈が抱えている闇は、実はハデスを呼び寄せた原因ではないのかもしれない。では何がそれを引き起こしているのだろう? さっぱり見当がつかない。


 気が付くと、ハシモトはもうアパートのすぐ近くまで来ていた。サイレンの音は消えていたが、赤色灯の明かりが辺りの壁を真っ赤に染めている。


 いったい何事だろう。もしかしたら、どこかの独居人でも亡くなったのだろうか? ハシモトはまるで自分の未来を見せつけられている様な気がして、さらにうんざりした気分になった。


 だがハシモトは自分が事件の蚊帳の外ではない事に面食らう。警察によって、明らかに自分のアパートの入り口が閉鎖されており、その周りには野次馬らしい人だかりも出来ている。警官がそれらを横に避けると、一台の覆面パトカーを通すのが見えた。


 もしかして、このアパートに特殊詐欺グループでも潜んでいたのだろうか? いや、こんなにも壁が薄く、隣で何をしているのか筒抜けの場所では、そんなことは不可能だ。


 ハシモトは野次馬の背後に近づくと、自分のアパートの出入り口の方を見つめた。そこには警官たちが詰めており、奥の様子は分からない。


 警官だけでなく、救急隊員とも違う、白衣に身を包んだ医療従事者らしき人の姿も見える。どうやら先程警官が通した、覆面パトカーに乗って来た人達らしい。ハシモトはその中の一人が、絶世の美女なのに気が付いた。ハーフだろうか、羽田と同様に、古代ギリシャの彫像みたいな顔立ちをしている。


「すいませんが、車両を通しますので、場所を開けてください」


 野次馬の整理をしていた若い警官が、ハシモト達に声を掛けた。黒塗りの大型のバンが、ハシモト達の横ギリギリを通り過ぎると、サイレンを鳴らしながら表通りを走り去っていく。


 このままでは、いつ自分の部屋に戻れるのか分からない。それに日が陰って冷え込んできているせいか、急にトイレにも行きたくなってくる。ハシモトは思い切って警官に声を掛けることにした。


「そこのアパートの住人ですが、部屋に戻ることは出来ますでしょうか?」


 若い警官はハシモトの顔をちらりと見ると、胸元のトランシーバーのスイッチを押した。


「部屋にもどれるかとの問い合わせあり」


 ハシモトの脳裏に、正月早々警官に囲まれて、説教を食らうという、思い出したくもない記憶がよみがえってくる。


「了解!」


 警官は無線にそう答えると、ハシモトの方へ顔を向けた。


「お名前と部屋番号を頂いてもよろしいでしょうか?」


「はい。ハシモトと申します。部屋番号は104号室です」


 警官が内容を無線で取り次ぐ。


「マルジュウ、了解」


 そう復唱すると、すぐに立ち入り禁止のテープの端を上げて、ハシモトに中に入るように手招きをした。かなり限界が近づきつつあったハシモトは、中に入れた事にほっと胸をなでおろす。だが部屋に向かおうとしたハシモトの体を、警官が腕を伸ばして押し留めた。


「部屋に戻る前に、担当の方から少しお話をさせて頂きたいとのことです。お手数をお掛けしてすいませんが、こちらでお待ちください」


「えっ、先にトイレに――」


 ハシモトは抗議の声を上げたが、警官はハシモトの言葉を無視すると、野次馬たちから見えない位置へハシモトを誘導した。


「ハシモトさんですね?」


 再度抗議の声を上げる前に、ハシモトの背後から男性の声がした。振り返ると、髪を短く刈り上げ、身動きしやすそうな私服のジャンパーを羽織った男性が、首から下げた身分証明書の様なものを片手に、ハシモトの方を見つめている。その証明書には、金色の大きな桜の形をしたバッジが付いていた。


「はい。ハシモトですが……」


「荒川北署の伊藤と申します。そちらのお宅に同居していた人物について、いくつかお尋ねしたいことがあります。お手数ですが、署までご同行して頂けませんでしょうか?」


「今からですか?」


「ええ、是非お願いいたします」


 うろたえるハシモトに対して、伊藤と名乗った男性が頷いて見せる。


「あの、同居人って、羽田さんの事でしょうか?」


「羽田? ああ、今回はそう名乗っていたみたいですね」


「名乗っていた?」


「すいません。ここでは説明が難しいので、署でお話を――」


「伊藤刑事!」


 不意に横合いから女性の声が響いた。そこには白衣を着た先ほどの超絶美人が、口元に笑みを浮かべながらハシモトの方を見ている。


「こちらが彼と同居されていた方?」


「はい。ハシモトさんです」


 刑事が女性に頷いて見せた。


「医学的見地から言わしていただくと、調書よりも診察と治療の方を優先すべきかと思います。少なくとも、先ずはカウンセリングを行う必要があります」


「ですが、瀬須(せす)先生――」


 刑事が言葉を挟もうとしたが、女性はきっぱりと首を横に振った。


「彼の身柄は抑えてありますし、今回の件ではこの方は間違いなく被害者です」


「それはそうですが……」


「抑圧的な環境下において、精神的な障害を引き起こしたりしたら、取り返しがつきませんよ」


 そう告げると、女性はハシモトの方へ歩み寄った。


「はじめまして、こちらで医師をしています、瀬須と申します」


 女性が一枚の名刺をハシモトへと差し出した。そこには聖蒼会・仏ヶ浦精神病院、精神科・医師、瀬須歌子と書いてある。


「羽田、今回はそう名乗っていたみたいですが、彼はうちの患者なのです。それが病院から無断離棟してしまい、警察に捜索をお願いしておりました」


「つまり、彼は先生の患者さんという事ですか?」


「そうです」


「一体どうして彼が?」


「ごめんなさい。病名を明かすことは、医師の守秘義務に反するのです」


「ヒポクラテスの誓ですか?」


「そうですね。それの一部でもありますが、現代的に言えば、刑法 第百三十四条に反します。ですが第百三十四条は、正当な理由があれば開示できるとも言っていますね」


 そこで瀬須と名乗った女性は言葉を切ると、ハシモトの方へ半歩体を寄せた。女神のような女性がすぐ隣にいることに、ハシモトの耳の後ろが思わず熱くなる。


「反社会性パーソナリティ障害、一般的にはサイコパスと呼ばれる精神障害です」


 体を寄せた瀬須医師が、ハシモトの耳元で囁いた。


「サイコパス?」


「それもかなりの重症です。ハシモトさんの方でも、彼の言動とかに、その心当たりはありませんでしょうか?」


「この世界を終わらせるとは言っていましたが……」


「やはりそう言っていましたか」


「でも、どうして病院を抜け出すことが出来たんですか?」


「彼はとても優秀な催眠治療者でもあるのです」


「催眠治療者って、催眠術者と言う事ですか?」


「一般的な用語で言えばそうですね。これは身内の恥だからあまり言いたくはないのですが、あの()姿()もあり、うちの若い子が彼にうまく出し抜かれたのが原因です」


「つまり催眠状態にされた?」


 ハシモトの言葉に瀬須医師が頷く。


「それがハシモトさんに、カウンセリングをお勧めする理由でもあります。可能な限り早めに、病院でカウンセリングを受けてください。少し遠いですが、うちの病院に来て頂いても構いません」


「瀬須先生、病院に戻ります」


 白衣を着た男性の呼びかけに、瀬須医師が手を振って答える。そして狭い通りに止めてある車の方へと歩き出そうとした。ハシモトは慌ててその腕を掴む。


「一言でいいので、彼と、羽田さんと話をすることは出来ませんか?」


 ハシモトの行動に、瀬須医師は驚いた顔をしてみせたが、すぐに首を横に振った。


「では、一目会うだけでも!」


「残念ですが、医師としてそれを許可することは出来ません。あなたが彼と会う事は、彼だけではなく、あなたにとってもいいことではないと思います。それに――」


「それに、なんですか?」


「彼はもうここにはいません」


 瀬須医師の言葉に、ハシモトは背後を振り返った。さっき横を通って行った大型のバン。羽田はあれに乗っていたのか?


 その時うるさく聞こえていたサイレンの音も、今はどこからも聞こえて来ない。途方に暮れた思いで表通りの方を見ていたハシモトの肩を、誰かが軽く叩いた。


「ハシモトさん、カウンセリングを受けていただいたら、すぐに私の方へ連絡をお願いします」


 そう告げると、刑事はハシモトへ名刺を差し出した。そしてアパートの入り口の方へ視線を向ける。


「鑑識の方での写真撮影と指紋採取は終わっていますので、部屋への立ち入りは間もなく出来ると思います。ご協力ありがとうございました」


 刑事はハシモトに対して軽く頭を下げると、瀬須医師たちを乗せた覆面パトカーに向かって歩いていく。


 トイレに行きたかったのも忘れて、ハシモトは水色の服を着て、カメラを首から下げた男たちが、自分の部屋から出てくるのをじっと見つめ続けた。

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