サイコパス ~その2~
タン、タン、タン
何かを規則正しく叩く音がハシモトの耳に響く。その音にハシモトは飛び起きた。カーテンは掛かっているが、隙間から差し込む光に部屋の中は明るく、既にかなり日が高くなっている気配がある。
「そろそろ起きる頃だと思ったよ」
台所を兼ねた狭い廊下から、ハデスの声が響いた。
「ハ、ハデスさん、今何時ですか?」
「昼を過ぎた頃だね」
「えっ!」
その言葉にハシモトは慌てた。一晩以上寝続けるなんて、寝坊も寝坊、大寝坊だ。
「何で起こしてくれなかったんですか!?」
「君の免疫系を優先させたからね。でも体調はよくなっただろう?」
「まあ、確かに体調は良くなりましたけどね。それよりも、今すぐ課長に連絡を取らないと大目玉です。携帯は、私の携帯はどこですか?」
「すでに出社時間は大分過ぎているし、まずはおかゆを食べてからでもよくないかい?」
そう言うと、ハデスはこたつ兼用のテーブルの上に、おかゆをよそった椀を置いた。その上には本当に細く切られた針生姜が、ちょこんと乗っている。
「頂きますけど、電話が先です!」
ハシモトは慌てて携帯電話を探した。遅れれば遅れただけ、課長の小言が間違いなく増えてしまう。
「私としては、先におかゆを食べるべきだと思うね。なぜなら、君の先ほどの発言について、一つ訂正しておくべき点があるんだ」
「へっ?」
「君が眠っていたのは一晩じゃない。三日だよ」
呆気に取られたハシモトの顔を、ハデスが興味深そうに眺める。
「どっちを先にするかい?」
ハシモトは手にした携帯電話を見つめた。眠っている間にバッテリーが空になったらしく、その画面は真っ暗だ。そして自分の腹がグーグーなっている事にも気づく。
「おかゆを先に頂くことにします」
* * *
「この辺りのはずだけど」
かつては商店街だった名残が、街灯と一軒だけあるコンビニに残っている通りから、一つ奥へと入った道で、美鈴は携帯の画面を手に辺りを見回した。
タン、タン、タン
何かの機械がリズミカルに動く音が聞こえてくる。もともとは町工場が集まっていたところらしく、工場の間に宅地とアパートが建つ、そんな場所だった。
すぐ近くまで来ているはずなのだが、アパートの数が多く、どれがハシモトのアパートなのかよく分からない。尋ねようにも、外を歩いている人は誰もいなかった。
「本当にめんどくさいやつ」
ハシモトに対して、美鈴は今日何度目かの台詞を心の中で呟いた。ともかくアパート名を確認しないといけない。そう思って、辺りを見回した時だった。少し小柄な人影が、美鈴の視界を横切る。
「すいません!」
美鈴の呼びかけに、その人物が背後を振り返った。その表情と姿を見て、美鈴は声を掛けた事を少し後悔する。それは真っ黒なゴスロリの衣装に、赤いリボンのツィンテールという、この人気のない通りには全く似つかわしくない少女だ。
それによく見ると、年もそれほど若いと言う訳ではない。それがすごく不機嫌そうな顔をして、美鈴の方を見ている。だが声を掛けてスルーする方が、間違いなく危険だと美鈴は考えた。
「あの、タイガーパレスというアパートをご存じないでしょうか? この辺りにあるはずなんですが?」
美鈴の質問に、女性が額にしわを寄せて、怪訝そうな顔をして見せる。アイドルだってやれそうな、かわいい顔をしているのにもったいない。美鈴はそう思ったが、間違っても表情に出したりはしなかった。
「ご存じないのでしたら――」
営業スマイルを浮かべつつ、ともかく会話を打ち切ろうとした時だ。
「タイガーパレスに何の用なの?」
まるで何かの尋問みたいな口調で、女性が美鈴に問いかけてきた。
「それに何号室?」
付近で空き巣の被害でも頻発したのだろうか? それとも強引な訪問販売? そんな事を考えている間に、女性は美鈴の前まで来ると、その顔を睨みつけてきた。
「ちょっと、そちらから聞いてきたんだから、私の質問にも答えなさいよね」
「あ、あの……」
「だから何号室?」
「104号室です」
「104号室!」
女性はそう小さく叫び声をあげると、美鈴の頭の先から足の先までをじっと見つめた。
「それで104号室に何の用事な訳?」
そう問いかけてきたその顔には、もはやかわいいとか、かわいくないとかいう話ではなく、明らかにほの暗い何かを宿している。
「ちょっと、おばさん!」
「社、社員から連絡がないので、様子を見に来ただけです!」
おばさんと呼ばれた事に、面食らいはしたが、答えないと何をされるか分からない。美鈴は慌てて答えた。
「社員? モブのことね」
「モブ?」
「こっちの話よ。三日もこもっていると思ったら、そう言う事だったのね」
「あ、あの、もしかして、ハシモトさんのお知り合いとか……」
美鈴の言葉に、女性が潰された毛虫を道で見つけた様な顔をして見せる。
「はあ? なんで私があれの知り合いなんてものにならなくっちゃいけないのよ。それよりも邪魔だから、さっさと会社に連れていってくれる? 出来れば、そのまま会社に監禁してくれるとありがたいんだけど」
「それって、どういう意味……」
だが女性は美鈴の言葉を無視すると、ツィンテールにした髪を翻し、見かけだけは立派そうだが、一番安っぽい、壁が薄そうなアパートを指さした。
「タイガーパレスはそこよ。それと、間違っても色目なんて使わないで頂戴。もし使ったりしたら、あの壁の向こうへ叩きこむわよ」
そう言うと、今度はアパートの先に見える、白いコンクリート製の堤防を指さした。
「ちょ、ちょっと」
美鈴は声を震わせながら問い掛けたが、どこへ行ってしまったのか、女性の姿はない。ただタン、タン、タンと規則正しく機械が動く音だけが、どこかから聞こえてくるだけだ。
『私がハシモトに色目を使う!?』
絶対にあり得ない。たちの悪い白日夢でも見たのだろうか? そんな気分になりながら、美鈴はさっさと用事を終わらせるべく、女性が指さしたアパートへ足をむけた。
ハシモトはやっと使えるようになった携帯の画面を、じっと見つめていた。ともかく連絡をとらないといけないという事は分かっている。だがおかゆを食べ、一度その問題から逃げてしまった為か、中々手が動こうとはしない。
いや、おかゆは間違いなく後付けだ。課長から何を言われるだろうかと考えただけで、ハシモトの指は石像の様に固まる。
ハシモトの直属の上司の田島美鈴は、どうしてハシモトが務める小さな卸に努めているのか、理由が分からないぐらいに優秀な人間だった。生真面目な性格故に、途中で何かをやめるのがいや、ただそれだけの様な気がする。それになんといっても美人でもあった。
年齢はすでに三十代の半ばは超えているはずだが、そのキリっとした表情と知的な立ち振る舞いは、年齢で失われるようなものではない。それでいて、たまにふっと口元に見せる笑みには色気もある。
実際、納入先の病院のおじさんなどからは大人気で、そのおかげでハシモトの会社は契約が取れているところもあった。大手商社に勤めていた旦那さんとはだいぶ前に分かれ、独身であることもあって、言い寄ってくる男は山ほどいる。
そんな田島課長から見たら、自分はお荷物以外の何者でもない。課長は若い子たちはうまくおだてて使っていたが、ハシモトに対してはそっけないというか、ずけずけと物を言ってくる。
年齢がだいぶ上にも関わらず、全く頼りにならない自分の存在が、気に障ってしょうがないのだろう。だが避けて通る訳にもいかない。避けてしまえば、明日から路頭に迷う。ハシモトは大きく深呼吸をすると、携帯のロックを外した。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン!
その時だった。玄関の方からチャイムが連続して鳴り響く。ハシモトは携帯から顔を上げると、玄関の方を振り向いた。間違いない。いきなりこんなチャイムの鳴らし方をする奴なんて、この世に一人しかいない。いや、一人もいれば十分だ。沢山いたりしたら、間違いなく世界が滅ぶ。
「ちょっと、今は大事な用事があって、取り込み中だから――」
玄関を開けてそう告げたハシモトは、そこで言葉を飲み込んだ。目の前に立っているのは、ハシモトがよく知っている人物ではあったが、麗奈ではない別の女性だった。
「ハシモト君、とても元気そうに見えるけど、どういう事か説明してくれる?」
その言葉に、ハシモトは壊れた水のみ人形みたいに、ただただ首を上下に振り続けた。