テンプレ ~その12~
森の中を抜ける道を、前で馬を駆るフレデリカが疾走している。その鞍についた油灯を目印に、麗奈も白馬を追い続けていた。
その行き足は、夜道を進んでいるとは思えないほど速い。ハシモトの左右で、黒々とした木々の影が背後へと飛んでいく。
一体どれほど駆け続けただろうか? 森が切れて、賓館へ行く途中に通った、塔へと続く一本道に出た。一瞬だけ雲から完全に顔を出した月が、その頂上にある祈りの塔の姿を、影絵の様に映し出す。
ともかくあそこまで行けば何とかなる。ハシモトがそう思った時だった。丘に向かう道の左手から、一斉に松明が灯る。その黄色い明かりに照らされて、銀色の甲冑を纏った騎士団が、轡を並べているのが見えた。
「追手です!」
ハシモトは叫んだ。
「そんなの言われなくても分かるわよ。ともかく先を急ぐから、無駄口叩いて、舌を噛まないようにしなさい!」
麗奈はそう声を上げると、手綱を送って、馬に気合を入れた。既にかなりの距離を走ってきたはずだが、麗奈が駆る白い牝馬も、前を行くフレデリカが乗る栗毛の馬も、さらに速度を上げると、次第に勾配を増していく坂道を駆け上っていく。
だが騎士団がこちらに気づいたらしい。まるで地鳴りの様な音が背後から響いてきた。ハシモトは振り落とされないように、麗奈の腰に手を回して、必死にしがみつく。流石の麗奈も、それに文句を言う余裕もなければ、文句を言える状況でもない。
「聖女様、お待ちください!」
背後から男性の声が響いた。
「どうか、我が国を、我らを見捨てないでください!」
それはランド王子の叫び声だった。だが麗奈は背後を見ることもなく、さらに馬の速度を上げる。
「どうか、せめて理由を教えてください。私はあなたの事を一目見た時から――」
再びランド王子の声が響いた。その声は必死だ。だが麗奈は無言で馬を駆り続ける。きっと内心では様々な葛藤と戦っているのだろう。ハシモトがそんな事に思いを馳せた時だ。
「他の誰のものでもない。お前は俺のものだ!」
今度はランド王子ではない、別の誰かの声が響いた。
「俺の子を孕め!」
それはランス王子の声だった。言葉だけでなく、ゲラゲラと大笑いする声も聞こえてくる。ハシモトはさらに別の声が、こちらを呼んでいるのにも気が付いた。
「お前の血の一滴まで我らのものだ。我らの血肉となれ」
もはや女性に対するものとは思えない、呪詛としか呼べない台詞が聞こえてくる。それを唱えているのは、晩餐会で一番知的に見えたはずのアーサー王子だった。
ハシモトは背後からこちらを追いかけてくるのが、何者なのかを理解した。そこにいるのは一国の王子達でも、国を背負う騎士団でもない。冥界の亡者達だ。
「麗奈さん、これもテンプレです。止まっちゃだめですよ。それに絶対に振り返らないでください」
「当たり前でしょう! テンプレだか何だか知らないけど、何を勝手に人を自分のものにしているのよ。私は羽田さんの――」
「そうかしら?」
不意にどこかから女の声が聞こえた。
「あなたは私をとっても慕ってくれていたのに、それを忘れてしまったの?」
その台詞に、麗奈の体がビクリと震えた。その声は吐息を感じるぐらいに、すぐ背後から聞こえてくる。
「覚えているでしょう? 私はあなたに色々な事を教えてあげた。酒、男、人の世の楽しみの全てを――」
「違う!」
麗奈が叫んだ。
「私が壊れていくのを眺めて、楽しんでいただけでしょう! あんたは自分が抱えていた闇の全てを、私に押し付けようとしていただけよ!」
「そうかしら?」
再び女が麗奈に問いかけた。
「あなたもそれを望んでいた。あなたの闇が、私の闇と交わっただけ。ただそれだけの事よ」
「違う、私はあんたなんかとは違う!」
「何も違わないわ。あなたは私の分身。そしてあなたは私のおもちゃ。永遠のおもちゃなの――」
「黙れ!」
そう絶叫した麗奈が、背後を振り向こうとする。ハシモトは慌ててその背中に抱きつくと、耳元に顔を寄せた。
「振り返るな!」
麗奈が目だけを動かして、ハシモトの顔をじっと見つめる。ハシモトは麗奈に頷いて見せると、その代わりに背後を振り返った。
『なんなんだ?』
ハシモトは心の中で悲鳴を上げた。振り向いたハシモトの視線の先、紙の様に真っ白な女の顔だけが宙に浮かんでいる。そして何より不気味なことに、瞳があるべきところには何も、何もない。ただ二つのほの暗い穴があるだけだ。
その白い顔がニヤリと笑って見せた。次の瞬間、女の周囲の闇が蠢く。そこでハシモトは、女の顔だけがそこに浮かんでいる訳では無いことに気がついた。そこから流れ落ちる漆黒の髪が、闇に同化してこちらを包み込もうとしている。
「ふふふ、まずはお前の魂からもらう――」
女の黒い髪の間から蝋の様な右手が伸びて、ハシモトの顔へ触れようとする。その指先が頬に触れた瞬間、そのあまりの冷たさに、ハシモトの心臓が止まりそうになった。
そして黒い何かが体の中、いや心の中へ入り込もうとする。それは妬み、恨み、人の心の底から湧き上がってくる負の感情、その全てだった。
「次は麗奈、貴方の番よ――」
女はそう告げると、左手をレイナの肩に向かって伸ばそうとした。ハシモトは自ら手をあげてその手首を掴む。再び黒い奔流が、ハシモトの中へ雪崩れ込んで来ようとした。だがハシモトの中の何かがそれにぶつかって、それを女の方へ押し戻していく。それはハシモトの中で激しく渦巻いている感情、女に対する怒りだった。
「この子は誰のものでもない。ましてやあんたのものなんかじゃない。だからこれは返す。この子には不要なものだ」
ハシモトの台詞に、女が首を傾げて見せる。ハシモトは未だに麗奈が頭に乗せていた、黒いベレー帽を取ると、それを女に向かって投げつけた。それを両手で受け止めた女が、手にしたベレー帽を二つの黒い穴でじっと見つめる。
「お前は、お前は何者だ?」
「俺か? 俺はただの闇落ちした中年独身男性だよ。だけど俺の心臓は、あんた達と違ってまだ動いている!」
ハシモトの答えに、女がはっとした表情をした。
「どうして、どうして生者がこの世界にいる?」
そう顔をゆがめて呟くと、体を覆う黒髪をハシモトへと伸ばした。それはハシモトの首に絡みつくと、その喉元を締めあげようとする。
「フレデリカ、火だ!」
ハシモトの叫びに、フレデリカが馬の鞍につけていた油灯を差し出す。ハシモトはそれを宙に浮く、真っ白な顔に向かって投げつけた。
「燃えろ!」
「燃えちゃえ!」
ハシモトとフレデリカの声が重なった。その声に呼応したかのように、油灯からこぼれ落ちた炎は、女が手にしたベレー帽に移ると、そこから女の髪へ、そして全身へと広がっていく。
「おのれ、おのれ、おのれ!」
風に炎があおられるゴーという音と共に、女の呪詛の言葉が虚空に響き渡る。その声に驚いたのか、馬が棒立ちになった。麗奈は必死に手綱を操るが、それを抑えることが出来ない。ハシモトは麗奈の体を抱きしめると、背中から地面へと滑り落ちた。
ドン!
自分の体が地面に激突した音が響き、痛みが背中から体中へと広がっていく。だがぐずぐずしてなどいられない。あの女が燃えつきたとしても、背後からは盲者の群れがこちらを追ってきている。
「走れ!」
ハシモトはそう叫ぶと、麗奈の手を引っ張った。その手はあの女の手とは違い、暖かい血が通っているのが感じられる。だが麗奈は呆然とした顔をハシモトに向けるだけで、自ら動こうとはしない。いや、出来ないでいる。
だが誰かがハシモトの隣に立つと、麗奈に手を差し出して、その体をハシモトと一緒に引っ張り上げた。立ち上がった麗奈に対して、フレデリカがにっこりと微笑んで見せる。
「聖女様、いえ、レイナさん。あともう少しですよ」
「そうね。そうよね」
フレデリカの言葉に麗奈も頷いて見せる。
ザァァァァ―――――――!
その体に向かって、天から何かが落ちてきた。とうとう雨が降ってきたらしい。滑りやすい石畳に足を取られそうになりながらも、三人は丘の頂上、始まりの塔へと辿り着いた。雨音に交じって、亡者たちのうめき声も聞こえてくるが、その音はまだ遠い。
ハシモトは必死に息を整えながら辺りを見回した。塔が不気味な影をさらしている以外は、特にこれと言って変わったところは無い。
『もしかして、ここじゃないのか?』
ハシモトは頭を振った。ここでないとしたら、どこに行けばいいか見当もつかない。それに背後から迫ってくる亡者の声は、刻一刻と大きくなっている。ハシモトは雨に濡れながら、恨めしそうに天を仰いだ。
「あれ、戻ってこれたのですか?」
不意に天空から声が響いた。
「ちょっと、絶対に無理だって宣言した、私の立場はどうしてくれるんです?」
それはハシモトをここに送り込んだ女神の声だった。
「まあ、戻ってこれたからには仕方がありません。穴を……。えっ、休暇中? 自分でやれですって!」
そのまま言葉は途切れてしまったが、ハシモト達の目の前の地面に、白い靄の様なものが漂い始めた。どうやらそこがこの世界からの出口らしい。ハシモトは隣に立つフレデリカの方を振り返った。
「これからどうされるんですか? もしよかったら一緒に――」
ハシモトの言葉に、フレデリカが首を横に振って見せた。
「私なら大丈夫です。やっと自分が何者なのか思い出しました」
そう言うと、ちょっと複雑な表情をしてハシモトの方を見る。
「あ、あの、もしかして君はやっぱり……」
「ちょっと、本当にこれって大丈夫? 下に向かって開いているけど、なんか怪しくない。落ちたら今度こそアウトとか――」
だがハシモトがフレデリカに言葉を続ける前に、靄の中につま先を恐る恐る入れた麗奈が、疑いの声を上げた。ハシモトは思わずフレデリカと顔を見合わせる。
「つべこべ言わずにさっさと帰れ!」
次の瞬間、フレデリカの手が伸びて、ハシモトの背中を突き飛ばした。その横で、麗奈も一緒に突き飛ばされたのが見える。
ヒュ―――――――!
ハシモトの体は、とてつもなく深い穴の中を、ただひたすらに落下していく。おかしい。亡者の世界を抜け出したはずなのに、どうして落下するんだ。そんなことを考えたハシモトの耳に、小さく声が響いてきた。
「ちゃんと続きを書いてくださいね~~」
プラカードを持った警官が笛を鳴らすと、渡ろうとしていたハシモトの体を押し留める。そして再度笛を鳴らして、今度は車を通し始めた。その横では、ハデスが少し興味深そうな表情をしながら、ハシモトの顔を覗き込んでいる。
「えっ!」
ハシモトの口から驚きの声が漏れた。
「どうやら無事に帰ってこれたみたいだね。言った通り、常識の範疇だっただろう?」
ハデスが珍しく口元に笑みを浮かべながら、ハシモトにそう告げた。
「羽田さ~~ん!」
思わず文句の一つ二つは言ってやろうとしたハシモトの耳に、横断歩道の向こうから声が響いてきた。
「えっ!」
再びハシモトの口から驚きの声が漏れる。
「ちょ、ちょっと!」
「この世界線における時間軸の裁定はちょっと難しくてね。このぐらい前でしか安定して戻す――」
「は・だ・さ~~ん!」
ハシモトはハデスの台詞の続きを無視すると、横断歩道へと飛び出した。視線の先では、麗奈が今にも車道へと足を踏み入れようとしている。前にいた警官が、慌ててハシモトの体を押し留めようとするが、ハシモトはそれをかい潜って走った。
キィイィィィ――――――!
ハシモトの耳に耳障りな金属音が響き渡る。そして視線の隅に、正月の日差しを反射させながら、巨大なフロントグリルが自分の方へ向かってくるのも見えた。
『あれ?』
もしかして、今度は自分が……。ハシモトは覚悟を決めると目を瞑った。
「ばかやろう!」
窓から顔を出した運転手の怒声が辺りに響き渡り、歩道にいる人々のざわめきも聞こえる。
「いい年して、なにをやっているのよ」
ハシモトに向かって、誰かが呆れた声を掛けてきた。見上げると、正月早々、ゴスロリ姿に赤いリボンで髪をツィンテールにした麗奈が、ハシモトへ冷たい視線を向けて立っている。
「大人なんだから、信号ぐらいちゃんと守りなさいよね」
そう言うと、道路に尻もちをついていたハシモトに手を差し出した。
「ありがとう」
手を握った麗奈が、ハシモトにそう小さく告げる。
「へっ?」
「なんかよく分かんないけど、そう言わなくちゃいけない気がしただけよ!」
麗奈はそう告げると、怒った様な、戸惑った様な、何とも言えない複雑な表情をして見せた。その横を、信号が変わって横断歩道を渡り始めた人々が通り過ぎていく。
だが何かを見つけたらしい麗奈が、ハシモトから手を振りほどくと、飛び上がるようにその手を青空に向かって振り上げた。
「羽田さ~~~ん!」
「おや、奇遇ですね」
「はい。正月早々、初詣をご一緒できるなんて、本当に奇遇、いやこれは運命、いや宿命です!」
麗奈のうれしそうな声が聞こえてくる。
「ちょっと、そこのテントまで来てもらえませんか?」
気が付くと、何人かの警官がハシモトの周りを囲んでいた。まあいいか、異世界に送られるよりは遥かにましだ。ハシモトは心の中でため息をついた。
今日もまだ、世界は続いている。