テンプレ ~その11~
「ちょっと、さっきから同じところをぐるぐる回っていない!」
ハシモトの背後で、麗奈が不満の声を上げた。
「探すよりも、逃げる方が先だからですよ!」
ハシモトとしても、まずいという自覚はある。だが刻一刻と廊下を誰かが動き回る音が大きくなり、「そっちにはいなかったか?」などというセリフが聞こえてくれば、身を隠す方を優先せざる負えない。
何しろこちらは丸腰なのだ。もっとも、武器の一つや二つがあったところで、ハシモトにとっては無意味だ。それを使う技能も体力もない。
「匂いとかで分からないの?」
「犬じゃないんですからね!」
「あんたより、犬の方がよっぽど役に立つわよ!」
確かにフレデリカからは少し甘い香りが、ハシモトはそんなことを一瞬考えたが、今はそんな妄想に浸っている場合ではない。
「まるで迷路ね……」
麗奈がうんざりした声で呟いた。確かに麗奈の言う通りに、どう考えても迷宮としか思えない作りになっている。そうだとすれば、その目的は麗奈をここに閉じ込めておくために違いない。
「やっぱり一度戻りましょう――」
ハシモトが麗奈にそう声を掛けた時だ。どこかから、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
「や、やめてください!」
間違いない。フレデリカの悲鳴だ。ハシモトは麗奈と顔を見合わせると、配膳台の影から飛び出して、声がした方へ駆けだした。
「人を、人を呼びます!」
「助けなど呼んでも無駄だぞ。この辺りには誰も近づくなと言ってある。私の慈悲を受けられるなど、お前にとってはこの上もない名誉ではないか――」
間違いない。誰かがフレデリカを襲おうとしている。それに相手はどこか聞き覚えのある声だ。薄暗い中、ハシモトは必死に辺りを見回した。そして廊下の先で、うっすらと光が漏れているのに気がつく。
ハシモトは自分が追われている立場であることも忘れて、その扉に向かって突進した。中に飛び込んだハシモトの視線の先で、簡素なベッドの上に押し倒されたフレデリカが、足をバタバタさせながら必死に抵抗している。
豪奢に刺繍された上着を着た、腹回りにやたらと余裕がある男が、その体の上に覆いかぶさろうとしているのも見える。男は開け放たれた扉の音に驚いたのか、ハシモト達の方を振り返った。
「無礼者、誰もここには来るなと――」
「俺の天使になにしてくれているんだ!」
「私の従者になにしてくれてるの!」
二人が同時に放った馬場キックがその体を捉えた。男は胸を抑えながらよたよたと後ろに下がると、そのまま寝台の上へ倒れ込む。それはフレデリカにグラスを押し付けてきた、あのシモン卿だった。
「この変態!」
その顔に向かって、フレデリカが寝台の横にあった椅子を叩き込む。
「ぐぇ!」
その一撃に、シモン卿はつぶされた蛙の様なうめき声をあげると、そのまま動かなくなった。
「大丈夫!?」
麗奈はフレデリカの元へと駆け寄ると、その体をそっと抱きしめた。僧服に着替えた麗奈の顔を、フレデリカが不思議そうな顔をして見つめる。
「聖女様……?」
そう呟くと、フレデリカの両目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。麗奈はフレデリカに頷いて見せると、ゆらりと立ち上がって、部屋の奥におかれた鉄製の油灯台へ手をかける。
「無理やり襲うなんて……」
それを振り上げようとした麗奈を、ハシモトは慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと。殺すのは流石にやりすぎですよ!」
「なに言っているのよ。こんな男の存在自体、許せるわけないでしょう。死罪よ死罪。あっさり殺してやるだけでも、感謝しろという話よ!」
「それについては完全に同意しますけど、今はそんなことをしている暇はありませんよ!」
「あ、あの、晩さん会はもう終わったんでしょうか?」
そのやり取りを聞いていたフレデリカが、ぽかんとした顔をして二人を見る。
「抜け出してきたの。それとフレデリカさん、あなたにお願いがある」
「お願いですか?」
「そう。今すぐこの城を抜け出す方法と、始まりの塔への行き方を教えて欲しいの」
「ぬ、抜け出すのですか!」
麗奈の言葉に、フレデリカが今度は驚いた顔をした。
「この世界は私がいるべき場所じゃなかったの。私を捉えようとしていた場所だったのよ」
「そんな――」
そう呟いたフレデリカが小さく頭を振る。だが傍らにいる、鼻血を流して気絶している中年男の顔を見ると、腑に落ちたように頷いて見せた。
「そうですね。聖女様の都合も考えずに、勝手に召喚したのは私達の方でした」
「ごめんなさい。私は何もあなた達の役には――」
「聖女様、何を言っているんですか、聖女様は私を救ってくださいました」
「救ったんじゃないわ。単にゴミを始末しただけよ」
「ふふふ、そうですね。本当にそうですね!」
麗奈とフレデリカは再びしっかり抱き合うと、一緒に含み笑いを漏らした。ドレスなど着ていなくても、その姿はまさに聖女と天使そのものだ。抱きしめあう二人を見ながら、ハシモトも思わず目頭が熱くなる思いがした。
「こちらから何か音がしなかったか?」
だが感動の場面を味わう間もなく、廊下の先から誰かの話声が聞こえて来た。複数の人間が、こちらに向かって駆けてくる足音も聞こえる。
フレデリカは二人に目配せすると、自分についてくるように合図した。
「こちらです」
一体何度角を曲がったのか覚えていないぐらいに曲がった後に、フレデリカが簡素な扉を指さした。それを潜ると、そこは城の厩舎で、たくさんの立派な馬が馬房に繋がれている。
ハシモトはその中の、おとなしそうな一頭の牝馬の鼻面を撫でようと、そっと手を差し出した。だが気に入らなかったのか、小さく嘶くとそっぽを向いてしまう。
「いきなり手を出したりしたら、噛まれますよ」
フレデリカが馬を繋いでいた綱をほどきながら、ハシモトに声をかけた。どうやら自分がもてないのは、人間相手だけではないらしい。ハシモトは出していた手を慌てて戻すと、心の中でため息をついた。
「本当に迷路みたいなところなのね」
フレデリカ同様に、馬の手綱を解いていた麗奈が、呆れた声をあげた。
「はい。偉い人達が色々と出かけたり、迎え入れたりするためのものです」
そう答えると、フレデリカは麗奈に苦笑いをして見せる。それを聞いた麗奈が、大きなため息をついた。
「羽田さん以外の男なんて、みんなそんなものね」
「あの、男だけとは限りませんけど……」
「なんか言った!」
「いいえ、何でもありません」
「まあいいわ。とっても不本意ではあるけど、今回は特別に私の後ろに乗せて上げる」
麗奈がかなり嫌そうな顔をしながら、ハシモトに告げた。
「えっ? 麗奈さんって、もしかして乗馬が出来るんですか?」
「なによ。乗馬が出来たら、何か変なの?」
「いえ、そうは言いませんけど。意外と言うか……」
「もっとも、あの女の趣味に付き合っただけだけど、まさかこんなところで、役に立つとは思わなかったわ」
そう言うと、いかにも忌々しそうな顔をして見せた。やはりあの女性と麗奈との関係は、あまりいいものではないらしい。
「せっかく無事だったのに、あんたみたいなのが後ろに乗ったりしたら、また変なものを押し付けられたりするじゃない。だから特別よ」
だがすぐに気を取り直すと、そうハシモトに声を掛けた。そして同意を求めるように、フレデリカの方を振り向く。フレデリカは先程同様に苦笑いだ。
「あのおっさんと同じにしないでください!」
「どうだか……」
「あのですね、そう言う発言をされると、誤解されるじゃ――」
「そんなことより、私に変なモノを押し付けてきたら、その場で叩き落すから、覚悟しておきなさいよ!」
そう告げて、鼻をフンと鳴らして見せた麗奈に対して、ハシモトは心の中で「しませんよ!」と答えて舌を出した。猫を被った姿しか知らないならいざ知らず、その正体を知っている身としては、そんな気分になったりなどはしない。
麗奈はハシモトの無言の抗議を無視すると、麗奈同様、準備を終えたフレデリカの方を振り返った。
「フレデリカさんは先導役をお願い。それと夜道だから、明かりも貸してもらえるかしら」
「はい。聖女様。裏口から外に出ます」
そう言うと、手綱を持ったフレデリカが、厩舎の一角にある目立たぬ扉を押した。
ビュー――――!
それが開いた瞬間、巨人の口笛の様な音が辺りに響き、麗奈とフレデリカが着ている僧服が、バタバタと音を立てる。ハシモトは慌ててスェットのフードを被りなおした。
扉の先には、二人が並んで渡れるかどうかという簡素な木製の橋が、壕の向こうへと続いている。
「いつの間にか天気が悪くなっていたのね」
「はい。その様です。でもそのおかげで、馬の音にも気付かれません」
「そうね。気付かれないうちに、さっさと進みましょう!」
フレデリカも、それに続く麗奈も、巧みに馬の手綱を操ると、馬を恐れさせることなく、あっという間に狭い橋を渡り切った。この世界の住人であるフレデリカはいざ知らず、現代日本人の麗奈の手際に、ハシモトは素直に驚く。
それと同時に、麗奈の柔らかな臀部が、自分の下半身に触れてしまうのに対して、再び自制心との戦いを強いられはじめていた。男というものは、中身とは関係なく、その体に反応してしまう、実に節操のない生き物らしい。
ハシモトはともかく何かで気を紛らわせようと、辺りを見回した。もっとも辺りと言っても、僅かに顔を出す月明りに照らされた木々が、強風の元、怒り狂った巨人の様に枝を振る影が見えるだけだ。
「れ、麗奈さん!」
だが背後を振り返ったところで、ハシモトの口から小さく悲鳴が漏れた。
「急に何て声を上げるのよ! それにもぞもぞ動かないでくれない!」
ハシモトは麗奈の文句を無視すると、その肩を叩いた。麗奈が鬱陶しそうな顔をして背後を振り返る。だがそのまま動きを止めて、ハシモトの背後にある王宮をじっと見つめた。
いくつもの高くそびえる尖塔に灯された明かりが、王宮の姿を漆黒の闇の中に照らし出している。そこまでは夕刻にこの城へ着いた時と同じだ。
だがその姿は全くの別物だった。優美に見えた塔はねじ曲がり、溶けかけた鉄の棒を思わせる。夕日に輝いていた建物は、まるで茨で覆われた廃屋の様な姿をさらけ出していた。
「何か変わったことでもありますか?」
無言で背後の城を見つめる二人の姿に、フレデリカが当惑した表情をする。
「フレデリカさん、あなたに見えているこの世界と、私達に見えているこの世界は別物なのね。私の世界のふりをしたあの女の世界。それがここの正体……」
そう言うと、麗奈は何かを振り切るように前を向いた。その時だった。城壁に次々と明かりが灯っていく。そしてガラガラという雷のような音も辺りに響き渡った。どうやら城門を兼ねたつり橋が、堀の向こうへ下ろされようとしているらしい。
「抜け出したのに気づかれたのは確かなようですね。急ぎましょう。最後の坂は馬では無理ですが、その手前まではこの子達が連れていってくれます」
フレデリカはそう告げると、鞍につけた油灯が放つ僅かな明かりと、月明りを頼りに、夜道に向かって馬を駆りだした。