テンプレ ~その10~
「聖女、レイナ。貴方を待っていました」
女性が麗奈に声を掛けた。だが麗奈はその問いかけに答えることなく、ただ食い入るように女性を見つめている。
玉座に座る女性は、物憂げな表情をしながら、漆黒の瞳で麗奈を見つめ返した。その態度からは威厳と言うより、退廃的な雰囲気が漂ってくる。
その姿に、ハシモトはビアズリーが描いたサロメの挿絵を思い出した。そこに描かれた「ヨハネとサロメ」の場面そのものだ。だがどちらがヨハネなのかは一目瞭然だった。首を落とされるのは麗奈の方にしか見えない。
「そなたの来訪はまさに我らの福音。今宵の事は吟遊詩人達が奏でる歌に、永久に語り継がれていくことでしょう」
そう告げると、女性は傍らに立つ侍従が差し出した銀の盆から、黒い何かを受け取った。そして立ち上がると、麗奈の方へと歩み寄る。
「今宵の出会いを祝して、私からこれをあなたに贈ります」
「こ、これは……」
麗奈の口から、再びうめき声の様な呟きが漏れた。
「前にも一度贈ったと思ったのだけど、もう忘れてしまったかしら?」
女性は口元に笑みを浮かべると、手にした物を麗奈の頭にそっとのせる。それはこの場には全く場違いな、黒いベレー帽だった。
一体どう言うことだろう。ハシモトは首をひねった。一連のやり取りを聞く限り、二人は元の世界、現代日本での知り合いだったとしか思えない。だが麗奈は氷雨に打たれる子猫の如く体を震わせながら、女性を見つめて立ち尽くしている。そしてその瞳が映しているのは、懐古の念でもなければ、親愛の情でもない。恐れだ。
「あら、何を震えているの? お腹がすいているのではなくて?」
女性は傍らのテーブルにあった葡萄を取り上げると、一粒ちぎって自分の口へと押し込んだ。
「うん、とっても美味しい。レイナさんもいかが?」
そう告げると、もう一粒ちぎってレイナの口元へと差し出した。まるで何かに操られているみたいに、麗奈が小さく口を開ける。
その時だ。ハシモトは自分が何を忘れていたのかをやっと思い出した。そして何が行われようとしているかにも気付く。次の瞬間、ハシモトの体は麗奈を守るべく動き出した。同時に、それを成そうとしている自分に驚きもする。
ガシャン!
ハシモトの手から放り投げられたグラスは、麗奈のドレスの裾を転がると、大理石の床の上で粉々に砕け散った。
その音に、麗奈は夢から覚めた様な表情で、ハシモトの方を振り向く。麗奈の前に立つ女性も、おやっという顔をすると、ハシモトの方へ顔を向けた。
その視線のあまりの鋭さに、ハシモトは思わず怖気づきそうになる。それでも麗奈の前へ飛び出して、その手を握りしめた。
「何をしているの?」
ハシモトの顔を見た麗奈が声を上げた。
「た、大変申し訳ございません。感動のあまり、手が滑ってしまいました。このままでは風邪をひいてしまいますので、どうかお着替えを!」
ハシモトは必死に声を絞り出すと、問答無用で麗奈の手を引っ張った。
「ちょ、ちょっと!」
麗奈が当惑の声を上げるが、ハシモトは構わず広間の出口を目指す。ぐずぐずしていたら、無礼者とか言われて、誰かに切り捨てられかねない。
あまりに突飛な行動だったためか、誰にも咎められることなく、ハシモトは巨大な扉の前までたどり着いた。だが自分の力でこれが開くとは思えない。
そこでハシモトは、フレデリカが左奥から外へ出て行ったのを思い出した。見れば、そこに使用人用らしき小さな扉がある。
ハシモトは再び麗奈の手を引っ張ると、その扉の先へと飛びこんだ。そこは少し狭い廊下になっていて、ところどころに置かれた油灯が、僅かに辺りを照らしている。ハシモトは廊下を突き進むと、その先にあった別の通路の影へと身を隠した。
「な、なんなのよ!」
麗奈はハシモトの手を振りほどくと、抗議の声を上げた。
「テンプレ、これはテンプレなんです!」
「なにそれ。モブのくせに私を馬鹿にしているの!」
「違います。ラノベのテンプレではなくて、遥かに太古からあるテンプレの方だったんです!」
それがずっと感じていた違和感の正体だ。ハシモトはハデスが常識の範疇だと言ったのを思い出した。それを迂闊にも、ラノベの常識だと勘違いしてしまったのだ。
「どう言うこと?」
「麗奈さんだって、この街にイシュタルなんて名前を付けるぐらいだから、そう言えば分かるでしょう?」
「えっ、別に意味なんかないわよ。語感がいいからつけただけだけど……」
「世界最古のテンプレの一つ、冥界下りですよ! メソポタミアのイシュタル。ギリシャのペルセポネ。日本のイザナギ。世界の神話には女神が冥界に下る、似た話がたくさんあるんです」
「馬鹿にしないでくれる。私だってそれぐらいは――」
そこで麗奈がハッとした顔をする。
「もしかして、私って死んじゃったの!?」
「そ、そういう事になりますね」
「それってあんたのせい? どうしてくれんのよ。死んだら羽田さんに会えないじゃない!」
そう叫ぶと、麗奈はハシモトの胸倉を掴んで振り回した。
「ち、違いますよ。どちらかと言えば、ここから抜け出す為に送りこまれたんです」
「セバスチャン、すぐに戻るわよ!」
ハシモトはそう言って立ち上がろうとした麗奈の袖を、慌てて引っ張った。
「そう簡単には行きませんよ。物事には何でも段取りという奴があるんです」
「段取りって?」
「これらの話にはテンプレらしく、いくつかお約束があります。先ずは冥界の物を食べたり飲んだりしたら、その時点でアウトです」
「危な!」
「そうですよ。相手もそれを分かっているから、麗奈さんに葡萄を食べさせようとしたに違いありません」
「あの女……」
麗奈が今にも暗黒魔法を唱えそうな顔をして呟く。
「やっぱり知り合いですか?」
「あ、あんたには関係ないでしょう。ほっといて!」
どうやらこの件については、触れて欲しくはないらしい。ハシモトは話を元に戻した。
「それと出口を探す必要があります。これにもお約束があって、ともかく坂の先にあるはずなんです」
「始まりの塔!」
麗奈が声を上げた。
「そうです。あそこです。あれがこのテンプレに必須の坂だったんです!」
「そうと分かれば、こんなところはさっさと抜け出すわよ。あんたの上着を貸しなさい。それと何があってもこっちを見ない」
ハシモトの襟元から手を離した麗奈が、素早くドレスを脱ぎ始める。
「えっ?」
「何をぼっとしてるの。早く脱いで! こんな目立つ格好でいたら、すぐに捕まるでしょうが!」
その言葉に、ハシモトも慌ててフレデリカから受け取った僧服を脱いだ。それを頭から羽織った麗奈が、今度は首をひねって見せる。
「セバスチャン、ここまでどうやって来たか、覚えている?」
言われてみれば、やたらと角を曲がって、迷路みたいだと思った記憶しかない。
「やばいです。全く覚えていません!」
「ちょっと、大事な事なんだから、それぐらい覚えておきなさいよね!」
「何を言っているんですか、自分だって――」
「聖女様を見かけなかったか?」
不意に通路の奥から声が聞こえた。どうやらバックレたのがばれて、誰かが探しに来たらしい。二人は通路をさらに奥へと進むと、配膳台の影に身を潜める。そこでハシモトは唯一人、自分たちが頼れそうな人物がいるのを思い出した。
「フレデリカちゃんです。この近くで休んでいるはずです」
「フレデリカ?」
ハシモトの言葉に、麗奈が首を傾げて見せる。ハシモトはそれを無視して言葉を続けた。
「彼女はこの王宮に仕えていたから、抜け出し方も知っているはずです。それに間違いなく、私たちの味方にもなってくれます」
「何を言っているの。あの子もこの世界の住人なのよ。敵に決まっているじゃない!」
麗奈の言葉に、ハシモトは思いっきり首を横に振った。
「違いますよ。絶対に違います!」
ハシモトの断言に、麗奈は何やら複雑な表情をしたが、小さくため息をつくと、肩をすくめて見せた。
「こんなところに隠れていてもじり貧ね。そうと決まれば、ロリコン中年の執念という奴で、さっさとあの子を見つけなさい!」
「ロリコンじゃありません!」
そう全力で否定すると、ハシモトは自分のフレデリカへの思いを信じて、通路の先へと一歩進み出た。