テンプレ ~その7~
「あんまりくっつかないでくださいね」
「はい」
ハシモトは自分の前で手綱を握る、フレデリカの言葉に素直に頷いた。初めての王宮なので、知り合いがいた方が心強いという麗奈の願いにより、ハシモトとフレデリカも一緒に王宮に向かっている。
もっとも、ハシモトに乗馬など出来る訳がない。その結果、馬に乗れて、しかも小柄なフレデリカの後ろに乗せてもらうことになった。
本来なら腕を上げてガッツポーズをしたくなるところだが、状況が状況なだけに、ハシモトは自制心との戦いを強いられ続けている。もしそれに敗れたならば、間違いなくフレデリカによって、馬上から地面へと蹴り落されることだろう。
そうは言っても、狭い鞍の上に二人で乗っているのだ。故にどうしても、ハシモトの下半身はフレデリカのお尻の辺りに触れてしまう事になる。
仕事先のいやな奴の顔を思い出して、必死に何かを鎮めようとしているのだが、それでもハシモトの男としての本能は、中々静まろうとはしない。
こんなことなら、徒歩でついていった方がましかとも思ったが、年中運動不足で、腹回りに余計な肉が付きまくっているハシモトが、乗馬の一行についていけるはずなどなかった。
『……觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舍利子色不異空空不異……』
最後は子供の頃、祖父から無理やり覚えさせられた般若心境を唱えてみた。もっともこれを必死に唱えたところで、俗物にまみれたハシモトの心は空になったりはしない。それでもハシモトは何とか自分の心を静めるべく、周囲へ視線を向けた。
ハシモト達の前後では、銀色の甲冑に面頬まで下ろした騎士たちが、深紅のマントをなびかせつつ、馬を操っている。その一糸乱れぬ動きに、ハシモトは本当に人が中に入っているのだろうかと、疑いたくなるくらいだった。
そのさらに先、赤や黄色で彩られた旗をなびかせて進む騎士に続いて、白馬にまたがる二人がいる。純白のドレスを纏った麗奈と、それにつきそうランド王子だ。
ハシモトとしては、麗奈に乗馬が出来るとは思えなかったが、よほどに頭がいい馬なのか、麗奈が乗る少し小柄な白馬は、ランド王子が乗る見事な白馬の傍らを、ゆっくりと歩んでいく。ハシモトはランド王子と談笑しながら進む麗奈の姿を眺めながら、賓館を出立する時の事を思い返していた。
剣を掲げた騎士たちが、彫像の如く廊下に並ぶ中、麗奈は出口で待つランド王子へ向かって、堂々と歩んで見せた。その姿はハシモトが知っている麗奈とは全くの別人で、まさに聖女そのものだ。
その場面を脳裏に浮べながら、ハシモトはそれも麗奈の本当の一面なのかもしれないと思った。色々な意味で女性と言う存在は、男性からは永遠の謎だ。女性と付き合った経験がろくにないハシモトにとっては、特にそうと言えた。
「本当にお美しい方ですね」
まるでハシモトの心を読んだかのように、前で手綱を持つフレデリカが声を上げた。
「そ、そうですね」
「モブ、もといハシモトさんは、どうして聖女様にお仕えすることになったのですか?」
「どうしてと言われましても……。実はマッチングアプリなんてものを、気の迷いでやってしまいまして――」
「マッチングアプリ?」
フレデリカが不思議そうな顔をして、背後を振り返った。そのあまりにも可憐な姿に、思わずハシモトの自制心が崩壊しそうになる。
「そ、そうですね。ある種の召喚呪文のようなものです。どちらかと言えば、暗黒魔法に近い存在ですけど……」
「召喚術を自由自在に操られるなんて、流石は聖女様ですね!」
どうやらハシモトの後半の台詞は、全く耳に入っていなかったらしく、フレデリカは歓声を上げた。
「確かに、掌の上で転がされた感じではありましたが……」
「私も久しぶりの王宮ですし、ハシモトさんに負けないよう、気合を入れてお仕えさせていただきます!」
「久しぶり?」
「あ、あの、僧院に仕える前は、王宮にいたことがありまして……」
ハシモトの問いかけに、フレデリカの顔が僅かに曇った。どうやらこの件には、あまり触れて欲しくはないらしい。
「あっ、見てください。王宮の塔が見えてきました!」
話題を変えようとしたのか、フレデリカが道の先を指さす。見上げると、木々の間から尖塔の先端らしきものが、何本も高くそびえているのが見えた。それらは暮れ行く夕日を浴びて、炎の剣のように輝いている。
その壮大な姿に、ハシモトはただただ圧倒された。壁の薄い家具付きのアパートから、職場へ通うだけの日々を過ごしている自分とは、あまりにも世界が違う。いや、違い過ぎた。
「何か気になることでもありますでしょうか?」
ハシモトの表情を見たフレデリカが、再び声を掛けてきた。
「いえ、あまりに壮麗なので……」
ハシモトはそこで言葉を飲み込んだ。そして『単に恐れおののいていただけです』と、心の中でその続きを呟いた。
麗奈は過去の自分が作ったこの壮大な世界、いや過去の自分そのものに戦いを挑もうとしている。あの子はそれに耐えられるだろうか? 自分ならとても耐えられそうにはない。
『そんな弱気でどうする?』
ハシモトは頭を横に振ると、自分の心にカツを入れた。その時だ。ハシモトは不意にとても大切な何かを忘れている気がした。だが、それが何だったのかは思い出すことが出来ない。
「顔色がよくありませんよ。馬に酔われましたか?」
フレデリカはハシモトの顔を覗き込むと、今度は少し心配そうな顔をした。
「いえ、何か忘れているような気がしただけです」
「もしかして、家の戸締りでしょうか?」
「戸締り?」
「はい。聖女様がハシモトさんに、戸締りについて尋ねたとおっしゃっていましたので」
「そうですね。戸締りは大事ですね。でももっと大事な事を忘れている気がしたのですが、きっと気のせいです」
「大丈夫です。そのうち思い出しますよ」
フレデリカはそう告げると、未だ首をひねるハシモトに対して微笑んで見せた。
「ハシモトさん、見てください。塔だけでなく、王宮も見えてきました。あれがイシュタル城です!」
フレデリカが再び指さした先に、朱色を僅かに帯びた石を積み上げて作った城壁と、深紅の屋根を持つ城があった。
それらは沈みゆく夕日と、紺色を帯び始めた空を背景に、さらに壮麗としか言えない姿を見せつけてくる。その背後で宵の明星、金星らしき星が、トパーズの様に輝いているのも見えた。
ハシモトは輝く星を見上げながら、イシュタルと言う名前が、古代メソポタミアの美と豊穣の女神の名前だったことを思い出した。きっと麗奈は、そこからこの城と王都の名前をとったのだろう。
前を行く、王子と談笑する麗奈の姿を見ながら、まさにふさわしい名前だとハシモトは思った。イシュタルは愛と豊穣の女神なだけではない。戦争と破壊を司る女神でもあるのだ。
何かを悩むのは後でいい。先ずは今夜を生き延びることに努力を傾ける方が先だ。ハシモトは心にそう決めると、まっすぐ前を見つめた。
「あと少しです。それとあんまりくっつかないでくださいね」
「はい。気を付けます」
フレデリカは前を向くと、小さく馬に手綱を送った。僅かに足を早めた馬の前方、緩やかな坂の向こうで、つり橋がゆっくりと降りていくのが見える。
何故かハシモトの目には、吊り橋の先で黒光りする重厚な城門が、自分たちを誘い込もうとする、地獄の門のようにしか見えなかった。