テンプレ ~その5~
「ぜえ、ぜえ」
黒曜石と大理石でモザイク模様が描かれた床の上で、ハシモトの荒い息が響いた。スキーのジャンプ競技にでも使えるんじゃないかと思える坂、それも滑りやすい石で舗装された坂を下りてきたせいだ。
「なんて坂なんだ。膝が笑うとかいうレベルじゃない。完全に死んだ」
「な、何を言っているの!」
ハシモトの横からヒステリックな声が響いた。そこでは麗奈が「ぜえ、ぜえ」とハシモト同様に荒い息をしつつ、ハシモトの肩に手を置いて体を支えている。
「こ、こっちはドレスを着て、しかもヒールで降りて来たのよ」
「脱げばよかったじゃないですか?」
「あんたね、聖女様がいきなりヒールを脱いで、大股で歩いたり出来るわけ無いでしょう!」
そう叫ぶと、麗奈はもどかし気に脱いだハイヒールを、ハシモトの頭に叩きつけた。ハシモトは思わず頭を抱えてうずくまる。
「痛い、痛いですよ。そんなもので頭を叩かないでください。でもそれって、自業自得じゃないですかね?」
「はあ?」
ハシモトの台詞に、麗奈が苦虫を噛み潰したような表情になる。
「だって、麗奈さんが主人公の異世界ですよ。つまりこの世界は麗奈さんの妄想――」
「違うわよ!」
「でも聖女様って――」
麗奈は小さく首を振りつつ、大きくため息をついて見せた。
「あんたのせいよ、このロリコン!」
「はあ!?」
麗奈の言葉に、今度はハシモトが当惑の声を上げた。
「ここは私が知っている世界に近いけど、中身はかなり違うわ」
「どういう事です?」
「あんたみたいなモブゴミが、転生元からついてきたりしないし、こんな坂なんかもなかった。そもそも召喚の後は、王子の一人が主人公を馬車で迎えに来て、この賓館に連れてきてくれたはずなの」
「はず?」
「そう、そしてここで暗殺されかかったのを、王子が助けてくれるの。今度改稿版を書く時は、主人公は大のスニーカー好きと言う事にして、絶対にスニーカーしか履かないことに……」
「ちょっと待ってください! スニーカーなんてどうでもいいです。どんな暗殺をくらうんですか?」
ハシモトはムンクの叫びのような顔をすると、不安そうに辺りをきょろきょろと見回した。転生しているにも関わらず、何の特殊能力も感じられない。剣を持った奴なんか来たら間違いなく即死だ。
「血なまぐさいやつじゃないわ。毒殺よ。法院の権限争いで、召喚が成功したのが邪魔な一派が……」
「お疲れさまでした!」
麗奈の言葉を遮って、明るく元気な声が豪奢な部屋に響き渡った。背後を振り返ると、銀の盆にガラスの水差しとグラスを持ったフレデリカが立っている。ハシモトはその笑顔のあまりの眩しさに、思わず両手を合わせて拝みそうになった。
「そう、こんな感じで飲み水に毒を入れて差し出すの」
麗奈は小声でハシモトにそう告げると、フレデリカが持つ銀の盆を指さした。
「はあ? もしかして、麗奈さんはこの子が暗殺者だと言っています?」
「私が書いた筋では、あんたみたいな脂ぎったおっさんが暗殺者よ。王子が自分で飲むように言ったら、血相変えて逃げようとして、王子に一刀両断に切られるけどね……」
麗奈はそこで言葉を切ると、老婆の様に曲げていた背筋を伸ばして、フレデリカに微笑んで見せた。
「フレデリカさんもお疲れの事だと思います。私たちは後でいいです。お先にどうぞ」
その台詞に、ハシモトは思わず麗奈の顔を見つめた。 その顔は笑っている様に見えるが、その目は決して笑ってなどいない。マジだ。
「よろしいのですか?」
「はい。もちろんです!」
「ちょ、ちょっと待って!」
ハシモトは慌ててフレデリカにそう告げると、麗奈の耳元に口を寄せた。
「フレデリカちゃんを殺す気ですか!? 赤毛の美少女ですよ!」
必死に声を抑えて問いかけたハシモトに対して、麗奈は小さく首を横に振って見せた。
「見かけで騙そうとしているのが分からないの? こういうぶりっ子が、一番危ないに決まっているじゃない」
「一体どの口が……」
「なんか言った!?」
「いいえ、なんでもありません!」
ハシモトは我に返ると、二人のやり取りをポカンと眺めていたフレデリカの元へと突進し、その手から銀の盆をひったくった。その振る舞いと迫力に、フレデリカがびっくりした顔でハシモトを見る。
「や、やはり聖女様に最初に飲んで頂くべきかと思います。それに麗奈、もとい聖女様のお世話につきましては、不肖このハシモトがお受けいたしますので、フレデリカさんはゆっくり休んでいてください」
「あ、そうですね。これはハシモトさんのお仕事でしたね。差し出がましいことをして、申し訳ありません」
腑に落ちたらしく、フレデリカはそう答えると、ハシモトに対してちょこんと頭を下げた。それに合わせて、彼女の少し収まりの悪い髪がぴょんと跳ねる。
その仕草のあまりの可憐さに、ハシモトは悶えそうになるのを必死に抑えた。だが至福の時を過ごしているハシモトの耳に、小さな、しかし闇の波動満載の呟きが聞こえて来る。
「マジキモ……何でこいつが……」
ちらりと麗奈の方を振り返ったハシモトは、その視線の冷たさに恐れおののいたが、それを無視すると、フレデリカの方へと向き直った。
「フレデリカさん」
「はい」
「晩さん会までは水も含めて、何も口にしないでください」
「ふえ?」
ハシモトの言葉に、フレデリカが思いっきり当惑した表情になる。それはそうだろう。言っていること自体がめちゃくちゃだ。
「修、修行です!」
ハシモトは普段使っていない頭を必死に使って、何とかそれらしい理由を絞り出した。
「これは聖女様に仕える、私どもの修行なのです!」
フレデリカはまだ当惑した表情をしていたが、ハシモトの気迫に圧倒されたのか、小さく頷いて見せた。
「わ、分かりました。では、晩さん会までは少し時間がありますので、こちらでご休息のほどをよろしくお願い致します」
そう告げると、フレデリカは少し頭を傾げながら部屋を出ていった。
「あんた馬鹿ね。こっちが暗殺に気が付いていますって、向こうに宣言しているようなものじゃない!」
「あの娘は絶対に違いますよ」
自信満々にそう答えたハシモトに、麗奈は深々とため息をついた。
「これだから、ロリコン独身中年につける薬は……」
「それよりも、本当にこれに毒が入っているかどうか、確かめる方が先です」
ハシモトはそう言うと、部屋の中をきょろきょろと見回した。その視線が部屋の片隅へと注がれる。
「水槽がありますね」
「そうね」
「なんて都合がいい。と言うか、脚本的に都合が良すぎ……」
「なんか言った!?」
「なんでもありません!」
そう言いながらも、麗奈もハシモトに続いて、小さな水槽へと近づいた。そこにはオタマジャクシとも、ザリガニの子供とも見える、得体の知れない生き物が数匹いる。それらは、近づいてきたハシモト達を威嚇するかの様に、ハサミを上へと振り上げた。
「なにこれ、かわいげのない奴」
麗奈はそう呟くや否や、ハシモトの手から水差しを奪うと、躊躇することなく、水槽の中へその中身を注ぎ込んだ。次の瞬間、ハサミを大きく動かしていた謎の生き物が、ピクリと体を震わせると、腹を上にしてひっくり返った。そのままふわふわと、水面近くまで力なく浮き上がって行く。
「あっ!」
二人の口から同時に声が上がった。
「浮きましたね」
「浮いたわね」
ハシモトの言葉に麗奈も相槌を打つ。そして慌てて水差しをハシモトの手に押し付けると、その手をハシモトのスェットにこすりつけた。
「ゴミが混じっているけど、話の筋自体が完全に変わっている訳ではないみたいね」
「つまり……」
「私達は命を狙われていて、それを守ってくれるはずの王子様は、ここにはいないという事よ」
そう告げると、麗奈はハシモトの方を苦々し気に睨みつけた。