召喚
「世界を滅ぼす呪文大全ねぇ……」
さえない中年男のハシモトは、こたつの上においた本を猫背気味にのぞき込むと独り言をもらした。
「こんな嘘をまじめに集めてくるだなんて、世の中暇な奴もいるもんだな――」
それを読もうとしている自分の存在を棚に上げると、ハシモトはこたつの上の籠に置かれたミカンに手を伸ばした。
そして本の先に置かれたノートパソコンの画面を見つめてため息を漏らす。そこにはとあるサイトのアクセス解析の結果が表示されている。
「PV……3。これって自分のパソコンと携帯と、会社のパソコンからのアクセスだよな」
そう呟くと再びため息をもらす。その数字が意味しているのは、自分が書いているアマチュア作品の本日のアクセス数だ。
「テンプレそのものなんだけどな。一体何が違うんだ?」
そう言い放ちつつ、ミカンの皮を乱暴に剥く。だが皮から飛び散った飛沫が目に入ったらしく、大きく顔をしかめた。
そもそも小説すらろくに読んだことのないハシモトが小説を書こうと思ったのは、コロナで一時期仕事が無くなったせいと、とある漫画の原作の続きがこのサイトに投稿されていることに気が付いたのが発端だった。
そこでいくつか読んでみた結果、自分でも書けそうな気がして書いてみたのだ。だが結論から言えば、世に存在を認められていない。つまり誰からも相手にされていなかった。
ハシモトの人生において、それ自体は学生時代のクラスカーストを始め常の事であったので、慣れていると言えば慣れている。人間関係においてはそれでお終いだ。自分で殻を作ってそこに閉じこもればいい。
だが今回はちょっと事情が違った。サイトのアクセス解析は、日々自分が世の中から無視されていること、取るにたらない存在であることを、数字という客観的な事実として知らせてくる。つまり相手から無視されるのではなく、自分自身で直接的に認知させられるのだ。
ハシモトのさして強くないメンタル、上司に何か小言を言われれば、すぐにトイレに逃げ込む程度のメンタルがこれに耐えられる訳がなかった。投稿をきっぱりと止めてしまえばいいだけなのだが、その事実が心をとらえて離さない。その結果、小説の続きを細々と書きつつ、ハシモトの心は見事に闇落ちした。
闇落ちしても元々影が薄かった分、実生活にはさほどの被害はもたらされていない。それでもその闇はハシモトの心の中で、靴の裏についたガムの様な粘着度を持って沈殿していく。この中二病を絵に描いた本を借りてきたのも、「燃えろ!」とか「叩け!」とか単純な動詞で書いていたセリフを本物らしくしようと思ったからだ。
「参考にするのなら最上級呪文からだろうな」
ミカンの半分を口の中に放り込むと、もぐもぐと口を動かしながら、ハシモトは終わりの方のページを開いた。そこには青インクでかすれ気味に文字が書かれてある。
「誰だよ、図書館の本に落書きする奴は。真の……」
ハシモトは読みづらい、言い換えればとても流暢とも呼べるその小さな字に目を凝らした。
ドン!
天井の上から不意にとてつもなく大きな音が響く。続いて掃除機の爆音も聞こえてきた。
「何時だと思ってんだ。今頃掃除なんてするな!」
ハシモトは天井に向かって拳を突き上げた。タイガーパレスの壁や床が薄いのは決して都市伝説ではない。まごうことなき事実だ。ハシモトは心の中で二階の住人を十回ほど様々な方法で殺害すると、再び青インクのかすれた文字に視線を戻した。
「なになに、真の破滅は言葉などではなく、真の魂の闇のみが引き寄せる?」
そしてその下には見慣れたアルファベットではない、ギリシャ文字らしき単語が並んでいる。誰かが面白半分で調べたのか、鉛筆でそれにフリガナが振ってあった。
「ハデス、エイト? アニム……えーと、……」
猫背になりながらも、ハシモトは必死に目を凝らしてそのカタカナを追いつつ声を上げたが、謎の単語の羅列に思わず舌を噛みそうになる。いや、本当に噛んだ。
「痛て! 一体何をやっているんだ?」
ハシモトは本をこたつの横に放り投げると、凝り固まった背中を伸ばすために腕をあげた。
「バカバカしい」
こんな事より、スーパーの特売で買ったブラジル産の鳥のひき肉で、夕飯の準備をしないといけない。玉ねぎと混ぜて肉団子にして鍋にでも――
ピンポーン!
不意に玄関の呼び鈴が音を立てた。こんな週末の夜に呼び鈴を鳴らすなんてのは碌なものじゃない。ハシモトは無視することに決めると、思わず買いすぎてしまった、グラム45円のひき肉をどう始末するかの思案に戻った。
ピンポーン!
再び呼び鈴がなる。なんだろう。もしかしたら親戚の誰かが食べ物でも送ってきたのかもしれない。
送って来てくれるのはいいのだけど、お礼を送るのが面倒なんだけどな。そんな事を考えながら、ハシモトは下はジャージに上はスエットという、生活感に溢れる姿で玄関に向かった。
ピンポーン!
「ちょっとお待ちください」
ハシモトはそう声を掛けると、鍵を開けて玄関の扉を僅かに開けた。そしてすぐに閉めようとする。だが閉める前に相手の手が扉の縁にかかった。
「呼んだのはそっちでしょう?」
扉の隙間からは共用照明灯の白い光に照らされた背の高い、細身の男がハシモトの方へ屈託のない笑みを浮かべてたっている。
その姿は全身が黒ずくめの詰襟の服を着ており、髪も瞳同様に漆黒の少しカールしたくせ毛だ。
ハシモトを見つめる目は全ての光を吸い込んでいるのかと思えるほどの漆黒。それはハシモトに光の99%以上を吸収する特殊塗料で塗装された某高級外車の宣伝広告を思い起こさせた。だが一方でその肌は蝋人形のように真っ白だ。
『ハーフ?』
その背の高さと、優美さを兼ね備えた少し彫りの深い顔に、ハシモトは心の中でため息を漏らした。自分がこんな姿だったら、どんなに素晴らしい人生を送れた事だろう。
「あの、どちら様でしょうか?」
我に返ると、ハシモトはテレビで見るイケメン若手芸能人すら比較にならない、どこかの美術館の収蔵品がそのまま動き出したとしか思えない人物に向かって、間の抜けた顔で問いただした。
正直なところ、こんな人物との接点は全く持って思い当たらない。
「自分で呼び出しておいて、その言い草はないと思うがね……」
その人物は扉を強引に開けると、狭い玄関の中へとするりと入り込んだ。そして顎に細く長い指を当てつつ、廊下の先の決して整理されているとは言えない部屋へと視線を向ける。
「お、こたつとはいいね」
そう告げると、その謎の人物は少し変わった形の靴を脱いで、さっさと部屋の奥へと上がり込んだ。そして一人用の小さなこたつにその長い足を窮屈そうに押し込めると、ハシモトを手招きする。
手招きされているハシモトとしては、未だに何が何だかさっぱりだ。だがハシモトはやっと自分が納得できる答えを見つけた。間違いない。自分はこたつで寝てしまって夢を見ているのだ。
「お茶ぐらい出してもいいんじゃないかな?」
男はその風貌とはかけ離れた軽いノリでハシモトに声を掛けると、こたつのテーブルをトントンと叩いて見せた。
もうこれが夢だと分かったハシモトは大きくため息をつくと、廊下の狭い台所に一つしかない電子コンロへヤカンをかけて、100袋500円で買った紅茶のパックを入れたマグカップへと注いだ。
動揺しているせいか、湯の雫が飛んでハシモトの手にかかる。
「アチチ!」
そう声を上げながら、ハシモトは首をひねった。夢の中でも、お湯の熱さをこうも生々しく感じられるものなんだろうか?
だが夢とはもともと不合理なものだ。合理的なことも不合理の一部と言えるだろう。そう自分を納得させると、100円ショップで買った不揃いのマグカップをこたつの上へと置いた。
男は優雅な手つきでそれを持つと、小さく口に含んで味わって見せる。やがてカップをコタツの上に置くとハシモトの方を振り返った。
「それで、どう言う風に滅ぼしたいんだい?」
そう告げた男の顔には最初に見たときと同様に、屈託のない笑顔が浮かんでいる。
「どう言う風にって?」
「少しは想像力というものがあるだろう? ほら、空から火の雨を降らせてとか……。それはソドムとゴモラでもう使ったか」
「火の雨?」
「そうそう、滅ぼし方ね」
ハシモトはそう告げると、手を叩いて笑う謎の男の顔をまじまじと見た。こんな訳の分からない男を夢に登場させるとは……、もしかしたら自分は夢を見ているだけでなく、熱に浮かされてでもいるのではないだろうか?
「色々とあるでしょう。今どきの流行は何かな。そうそう、リア充爆発しろだっけ?」
「それで世界は滅びるんですか?」
「もちろん滅びるさ。まともな奴が誰もいなくなるんだよ。残ったやつ同士でいがみ合ってすぐに滅びるね」
男がハシモトに向かって片目を瞑って見せる。だがすぐに残念そうな顔になった。
「あ、だめだな。これもすでに使った手だった。この時代には伝わっていないみたいだけどね、その昔にアトランティスという所で使ったんだ」
そう言うと、再び紅茶をすすって見せる。
「それで、どんな手がいい? 小説を書いているんだろう? ぜひとも独創的な手段を聞かせてもらえないかな?」
「す、すいません。すぐには思いつきません。時間を、少しお時間をもらってもいいでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。なあに、滅ぼすときはあっという間だからね。焦らなくてもいい」
男がハシモトに向かってにっこりとほほ笑んで見せる。その笑顔はもし自分が女性だったら、間違いなくワーキャーと叫び声をあげたに違いないほどに美しい笑顔だ。
「それに今日は疲れたので、このまま寝たいのですが?」
「そうだね。よく寝て、澄んだ頭で考えたほうがいい手が思いつけるね。」
ハシモトはその言葉に首をひねりながら、狭い部屋の収納の上のロフトにひいてある万年床へと横になった。夢の中で寝たら、また夢を見るのだろうか?
そんなどうでもいいことを考えているうちに、ハシモトの意識はそこで途切れた。
* * *
遮光カーテンの隙間から明かりが漏れているのを感じる。それに二階の住人が慌ただしく朝の支度をするバタバタと言う音も聞こえてきた。ハシモトはまだはっきりとしない意識の中で、昨日はなんて変な夢を見たのだろうと思い返していた。
あんな超イケメンの男性が自分のアパートに突然訪ねてくる? 一体なんて夢だ。どうせ夢を見させてくれるのなら、絶世の美女にしてくれればいいのに……。
「おや、起きたかい?」
不意に聞こえた声にハシモトは寝床から飛び起きた。そしてロフトの上の天井に嫌と言うほど頭を叩きつける。その音に驚いたのか、腹を立てたのか、上の住人がドンドンと床を踏み鳴らす音がした。どうやって十回殺してやろうか?
だが今はそんなことはどうでもいい。ハシモトは痛む頭のてっぺんを撫でながら、ロフトの下、いや下を見るまでもなく目に入った長身の男性がこちらを見ているのに気が付いた。
その手にはフライパンがあり、そこには下にベーコンがひかれた目玉焼きが二枚のっている。こたつの上には不揃いの皿と、どうやらインスタントコーヒーが注がれたマグカップが二つ置いてあった。
「まだ夢を見ている?」
「おや、まだ寝ぼけているのかい? 顔を洗ってくるといい。さっぱりするよ。それに悪いが冷蔵庫の中身のものは勝手に使わせてもらった」
そう告げつつ、男はフライ返しで器用に目玉焼きを取り分けると、皿の上へと並べた。そしてボウルに氷入りの冷水で冷やしていたレタスを添える。
「さっさと顔を洗っておいで。冷めると味が落ちる」
男がロフトの上のハシモトに手を伸ばした。思わずハシモトがその手を取ると、どんな力か、ひょいとロフトの上から腹の出たハシモトの体を下ろした。
その力もそうだが、ハシモトは死人の様な男の手の冷たさに驚く。慌てて風呂場へと行き、お湯で手を洗い顔を洗う。だが顔を洗ってもやはり男は部屋の中にいる。ハシモトは風呂場から出ると、意を決して男のいる部屋に戻った。
「あの、どちら様でしょうか?」
「あれ、本当に分かっていなかったの?」
「はい」
「君らの言葉ではハデスだったかな? まあ、そういう立場の存在だよ。馴染み深い言い方で言えば、死を司って、この世界の調和を維持している存在。他の連中は作って楽しんだ後はほったらかしだ。だから貧乏くじを引かされた存在ともいえるね」
「そのハデスさんがなんでここに?」
「えっ、それは流石に分かっているでしょう。自分で呼んだんだから」
「はあ?」
「この世界に調停、言葉を変えれば破滅をもたらして欲しいという君からの嘆願に応じて来たんだよ」
「ちょっと待ってください! そんな事をした覚えはないですよ!」
「またまた。ほら、ここに書いてあるでしょう。あれ、これは間違っているね。君は思ったより優秀だな。この間違った呪文を正しく読めたんだ。昔の友人のソロモン王と同じだよ」
「あの適当に読んだやつですか?」
「違うな。君の心の奥底にある闇がそれを正しく読み替えたんだ」
「それって、たまたまというやつですよね」
「どうかな? まあ、どっちでもいいことだ。世界が滅べばいいと思ったのは間違いないんだろう。だからやり方を教えて欲しいと言っているんだ。何度もやってきたせいでね、もうネタ切れなんだよ」
「やっぱり、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか? それに会社にいかないと……」
「そうだね。君にも仕事があるようだね。昨日言った通りだよ。焦らなくてもいいから、ゆっくりといい手を考えてくれ。その間に久しぶりの娑婆、もとい、この世界をゆっくりと見学させてもらう事にしよう」
そう言うと男は再び屈託のない笑顔を浮かべた。
「君も分かっているだろう。知っているのと体験するのはとっても違う物なんだよ」
* * *
「今日はそっちの方が早かったんだね。これ、今月の分」
「ありがたく」
「それよりも、今日の夕飯は?」
「タラちりです」
「おや、豪勢だね」
「スーパーの見切り品ですよ」
「見切りだろうがなんだろうが、タラはタラさ」
そう告げると、男はハシモトに向かって屈託のない笑顔を浮かべた。あれから一体何日が過ぎただろうか?
ハデスと名乗る謎の男はそのままこの安アパートに居候を続けている。最初は単なる押しかけ居候かと思っていたが、どこかでアルバイトでも始めたらしく、毎月の家賃の半分と食費は入れるようになった。
それでもたまに思い出したように、この世の滅ぼし方は思いついたかと訊ねてくる。まだだと答えると、いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、「まあ、焦る必要はないよ」と返してきた。
それ以前に、こんな見た目麗しい男ならどこかの女が放っておく訳はないと思うのだが、どこにも行く様子はない。
今日もタラを食べつつ、久しぶりに思いついたかと聞いてきた。ハシモトは鍋を取り分けながら、いつもの様に首を横に振る。自分がこの世界の終わりを止めているだなんて誰も知らないだろう。いや、知られたくもない。
ハシモトは小さく肩をすくめると、まな板の上から骨を丁寧に抜いた追加のタラをそっと入れた。辺りには男が器に注いだポン酢のゆずの香りが漂う。
今日もまだ、世界は続いている。