いばら姫、まくらを捨てる
彼はあくびを噛み殺しながら外の景色を見た。
彼女が来るかもしれないと気を揉みながら外を見るのはもうやめた。
彼女が最後に来たあの日以降、雨が降るたびに彼女が来るのではないか、来たらどんな顔をしてなんて声をかけようかと考えそわそわ店内を徘徊したものだったが、完全なる杞憂に終わった。
何回目かの雨が止み、期待することを止めることにした。
そもそも『期待』など前向きに思ってしまうこと自体おこがましいのだ。
彼女を傷つけ、拒絶したのは彼自身なのだから。
あの時の泣いていた彼女のことを考えると今でも胸が千切れそうな気持ちになる。
だがそうするしか無かった。
彼女は『周囲の人にここに来ることを反対されている』と言っていた。
それにここに来るために代償を払っていると。
少し痩せていた彼女の肩が思い出される。
どういう原理かはわからないが、もし彼女がここに来続けることで支払う代償が大きくなっていくのだとしたら?
彼女はさらに何かを失い続けることになるかもしれない。
匂いを失って、声を失って、光を失って、動けなくなって、ぬくもりを失ったら?
とても耐えられない。
たかがここに来るために。
彼女がここに来る目的はわかっていた。
彼女の出す謎掛け、その謎自体ではなく、彼女が登場人物のどこに共感し、または反感を覚えたのかを辿っていけば察することができた。
一つ目の赤髪の女の子のお見舞いの話。
誰かのためにルールを破り、良くない結果に繋がったことを酷く悔いているようだった。
二つ目の靴の持ち主を探す話。
気になった相手が探しているのに自分からは積極的に動こうとしない女の子に苛立っていた。
『自分ならどこまででも探しに行くのに』とも言っていた。
三つ目のアップルパイを食べさせる話。
領主に『あなたは美しい』と伝えようとすること、代償がある中で何かを伝える行為はとても難しい、と。
四つ目の姿が変わっても気付いて貰う方法の話。
姿が変わり、家族にも反対るという代償を支払った女の子が報われてほしい、と言っていた。
五つ目の話は途中だったが、思い合う二人が引き離され、男の子は変わってしまった。
別の場所で暮らす男の子が幸せだったら、元の場所に連れ返そうとすることは良いことなのか、と案じていた。
四つ目と五つ目の話では彼女は語りながら声を詰まらせていた。
どちらもいなくなった男の子を女の子が探しに行く話。
さらに四つ目の話の時、彼女は話の中の女の子と同じように食べ物を作ってくれていた。
ここまでしてもらえればどんなに鈍感でも気付く。
彼女を忘れていて、一緒にあるべき場所に帰ってほしいと切実に訴えられているのだ。
少なからず好意を抱く相手にそこまで思われて嬉しくないわけはないが、彼は彼女のことをまったく思い出すことができなかった。
何か欠片でも思い出せないか試みたが、何一つひらめくことは無かった。
彼女のイタズラか、もしくは勘違いという可能性も考えたが、ひどく落ち込むだけだったので考えるのをやめた。
何より涙を流していた彼女を疑いたくはなかった。
こんなに回りくどい伝え方をしたのも、恐らく彼女の代償と関係があるのだろう。
予想では、この店内において自らのことを語る、彼のことを語る、自分たちの関係性を語る、目的を打ち明ける、これらの制約を伝える、といった禁止事項があるのだろう。
四つ目の話とよく似た状況だ。
そう言えば彼女はあまり語りたがらないことが多かった。
彼女の話をもっと聞きたかった。
彼女のことがもっと知りたかった。
だがそれはもう叶わない。
彼は入り口近くにある傘立てに入れられた赤い傘を取り出す。
彼女が前回差さずに帰ってしまったため、置き忘れ去られた傘だ。
今となっては彼女が存在していた証拠となるのはこの傘一本しか無い。
彼女は遠くに行ってしまった。彼をここに残して、自分の新たな道を歩き始めたのだ。
彼女に置き忘れられた傘が自分と重なり、悲しみと妙な親近感を抱いた。
と、突然横のドアが勢いよく開いて、物思いに耽っていた彼の心臓は跳ね上がった。
入り口に彼女が立っていた。
彼女は前回とは打って変わって明るい笑顔を見せた。
「ごめんね。約束を破って」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女の顔を見れて嬉しい。
彼女が笑っていてくれて嬉しい。
いや、そうではなく。
青空が見えていたから気付かなかったが、いつの間にか小雨がぱらついていたようだった。
彼女は傘をここに置き忘れたからなのか、傘をささずにやって来たようだった。
髪に雨のしずくが付いている。そのせいなのか、彼女の顔が輝いて見える。
そして、なぜかまた枕を抱えていた。
「君は……どうしてまた来たんだ」
代償があるというのに。また何か失うかも知れないのに。失わせないために遠ざけたのに。
「俺は今幸せなんだ。だからそれを邪魔しないでくれ」
彼女は静かに首を振った。
「私、あなたが嘘をついているのに気が付いたの」
「嘘?」
彼女は枕を椅子の上に置いて頷いた。
「私はあなたみたいに鼻がきくわけじゃないから嘘を見破るなんてできないけど、でもずっとあなたのことを見てきたから。
前にあなたが私に嘘をついたときもそうだったけど、目元が強張る」
「そんなことは……」
「それにほら」
彼女は彼の手を取った。
「親指を強く握り込んで、指が白くなるほど。前もそうだった」
彼女に優しく撫でられ、ふわりと指が解けて力が抜ける。
彼はすぐに手を払って彼女から離れた。
窓の方を向いて彼女に背を向ける。
「君は帰ったほうが良い。また何かを失うかも知れないんだろ」
「……」
背を向けているせいで彼女がどんな顔をしているか見えない。もしまた傷ついた顔をしていたらと思うと見たくもなかった。
「……しばらくここに来ることができなかったのはね、周りの人に止められていたからなの」
コツ、コツと彼女がゆっくりと歩く靴音がする。
「みんなは私があなたのことを忘れて幸せになることを望んでいたみたいだけど、私は……ダメだった」
「……」
「あなたを失う以上に辛いことなんてないの。だから私は何も怖くない」
「……」
「あなたがいないのに幸せになんてなれない。だから少しでも可能性があるなら、私は諦めたくない」
彼女はいつの間にか彼の目の前に立っていた。
その瞳は逆光だと言うのに輝いて見えた。
(きっと、俺は彼女のこの目に見つめられること、彼女の瞳が自分を映すこの瞬間がたまらなく好きだったに違いない。
……それはわかるのに、どうしても彼女のことを思い出せない)
「俺は記憶を失っているんだろ? だがすまない。君のことをまったく思い出せないんだ……」
彼は自分の推測を彼女に話した。
自分で話していても荒唐無稽な話だった。笑われるのではと不安になったが、彼女はじっと聞いていた。
「間違っているか?」
「間違ってない」
彼女の返答にほっとする。だが彼女は予想外の言葉を続けた。
「でもまだ足りない」
「?」
「じゃあ、私の話を聞いてくれる? これで最後の話」
彼女はそう言ってにこっと笑った
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
人から聞いた話なんだけどね。
ある街に子供のいない領主夫婦がいました。
念願叶ってようやく男の子が生まれ、領主は祝いの席に高名な占い師を呼びました。
占い師は子どもの誕生を祝福しましたが、こう予言しました。
『この子が大きくなった時、この子は心を奪われ長い眠りにつくことになるだろう』
領主はその予言を聞いて激怒し、占い師を追い出しました。
しかしそんな予言をよそに男の子はすくすくと立派に育ち、領主の跡を継ぐべく研鑽を積んでいました。
領主は安堵していましたが、昔の占い師の予言を忘れたわけではなく、自分の子どもが興味を惹かれたもの、心を奪われそうなものを周到に取り除きながら暮らしていました。
しかし、男の子は出会ったのです。
本能から求めてしまうような相手に。
男の子は、出会ったその女の子に気持ちを伝え、こっそりと二人だけで時間を過ごし、関係性を育んでいきました。
しかし、領主がそれに気付いてしまったのです。
占いを信じた領主は、二人を引き離し、男の子を塔の上に閉じ込めました。
男の子の気持ちがいつか冷めるだろうと思って。
それは領主の見込み違いでした。
逃げ出して女の子に会いに行こうとしたのか、引き離され傷つけられた女の子への贖罪なのか、それとも窓の外に幻影でも見たのかはわかりません。
男の子は窓の外へ飛び出してしまったのです。
そして、男の子は長い眠りにつくことになりました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女はそこまで話して黙り込んだ。
彼は彼女が話し出すのをしばらく待っていたが、彼女が口を開かないのを見て耐えきれず声をかけた。
「それで……君は今回どの人物に共感したんだ?」
彼女は顔を上げて困ったような微笑みを浮かべた。
「今までの話は……あなたも気付いていたと思うけど、全て私が作った創作なの。
私に課せられた制約に触れずにあなたに思い出してもらうために考えた作り話。
でも、今回の話は、最後まで考えることができなかった。本当にどうしたらいいのかわからなくて。
……ねぇ、女の子はどうしたら男の子を目覚めさせることができると思う?」
(まさか……彼女が言いたいのは……俺に伝えたいのは……)
「俺は眠っているのか?」
彼女はこくりと頷いて続けた。
「男の子の心は奪われてしまいました。女の子にではなく、不運な出来事によって。
女の子は男の子の心を取り戻すため、彼を眠りから目覚めさせるため、夢の中まで旅して、彼を探しに来たのです」
「……ここで起こっていることは、全て俺の夢の中の出来事なのか……?」
彼女がこくりと頷くのを見て、彼はテーブルに触れ感触を確かめた。全くそうとは感じられない。
(冗談? だが、彼女からは嘘をついている匂いはやはりしない。それにこれが夢だと言うなら彼女から匂いがしないことも説明がつく)
「君の存在も俺の夢が作り出しているのか?」
彼女は首を振った。
「ここには私以外お客さんは来ないでしょ? あなたが静寂を望むから。
私はそれを無視してやって来ているんだけど」
そう言えばここに彼女以外の客は一切来ない。
飲食店なのに、それに必要な運営の一切をやってはいなかった。
何よりこの店内の、この部屋から一切出たことがなかった。
それに思い至って愕然とした。
(そうか……俺は夢を見ていたんだな……)
彼女は窓の外を振り向く。外にはまだ天気雨が降っていた。
「私が雨の日にしかここに来れないのも、あなたが雨の日にだけは少しだけ静寂を破ることを受け入れてくれるから。
私が何かを持ってくると傘を差していないのは、片手にしか物を持てないから。
ここに来る時はいつも片手に何か持って、もう片方の手はあなたと手を繋いで眠っているから。
最初に偶然枕を持ってきた時にそのことに気が付いた」
どうしてだろうか。
制約があって話してはいけないことだと思っていたのに、彼女は窓の外を見ながら淡々と語っていく。
彼が真相に辿り着いたからだろうか。いや。
「君は……これで『最後の話』と言ったな。『可能性があるなら諦めない』と言っていたのに、もうここには来ないつもりなんだな」
振り向いた彼女はすっきりした顔をしていた。
「私に課せられた制約はあなたが言い当てた通り。だけどもう一つ、回数制限があるの。
6回。
6回ここに来るまでの間にあなたを目覚めさせることができなければ、私は全てを失う」
彼は手を握りしめた。
彼女の周囲の人が、彼女がここに来ることを反対していたのはこのせいだった。
どうしてもっとしっかり彼女を留めてくれなかったのか、とよく知らないその人達を責めたい気になったが、彼自身がその原因なのだから責められるのはむしろ彼の方だと思い至った。
「どうすればいいんだ? どうすれば俺は目覚める?」
彼女に何かを失ってほしくない一心でそう言った。
しかし彼女は首を振るばかりだった。
「わからない」
「とりあえず、店から出よう」
彼はドアを開けて一歩踏み出そうとした。
しかし、足を上げてもその敷居をどうしても跨ぐことができなかった。
外に出たいと思っているのに身体が言うことを聞かない。
「あなたは多分、まだ外の世界に魅力を感じていないのかも」
「そんなことは……」
「あなたは今、私を助けるにはとりあえず外に出れば、って思ったでしょ。
本心では、静かで、平穏でいられるこの場所に留まることを望んでいる。だから外に出られない」
(そうなのか……? 俺は、外に出ることをそんなにも拒んでいるのか?)
その時、ドアがノックされた。
ドアは開いているというのに。そしてそのドアの外には誰もいなかった。
「もう時間みたい。制約を破ったからかな。最後くらいゆっくりさせてほしいのに。
私に取り立てを行う人は、随分せっかちみたい」
彼女は微笑んだ。そしてドアの外に向かおうとする。
彼は後ろから彼女を抱きしめた。抱きしめながら、振り絞るように呟いた。
「行かないでくれ」
行ってしまったら彼女は全て失う。そんなのは耐えられない。だが止める方法がわからなかった。
目覚めればいいと言うなら目覚めたいのに、そのやり方がわからなかった。
「私、あなたに目覚めてほしくてずっとここに通っていたけど、途中からそれは私のエゴに過ぎないんじゃないかって思ってた。
あなたはゆっくり休みたいのに、私のわがままでそれを邪魔してるだけなんじゃないかなって。
だから今回ダメだったら、『ゆっくり休んで、それからいつか目覚めてね』って優しく行って出ていくつもりだった。
だからあなたの枕を持ってきたの。よく眠れないって言ってた、枕にこだわるあなたがここでもよく眠れるように。
それなのに……」
彼女は振り向いた。その頬は涙で濡れていた。
「やっぱりダメ。嫌だ。離れたくない。手放したくないよ!」
彼女は彼の胸に縋り付いて泣いていた。
「もう……いい加減目を覚ましてよ……寂しいよ」
震える小さな肩を抱きしめようと手を伸ばした時、さらに強くドアが叩かれた。
彼女はそれを聞いてぼんやりとした表情で顔を上げた。
「もう行かなきゃ……」
彼女は虚ろな眼差しでふらふらとドアを出て行った。
「……っ!」
彼は手を伸ばし、名前を呼ぼうとしたが、その呼びかける名前すらも思い出せなかった。
再びドアから出ようとしたが、やはり足を踏み出すことができなかった。
快適だったはずのこの場所が、突如牢獄のように感じられた。
(どうしたら……彼女が失われてしまう……)
今こうして何もできずにいる間にも、彼女は害されようとしているのかもしれない。
彼は椅子の背に手をついて、強く握りしめた。
と、その椅子に置いてある枕に気が付き、手に取った。
大きく息を吸い込んだ。
枕からは、彼の匂いと、そして胸を焦がすような彼女の匂いがした。
その瞬間、全てを思い出した。
(絶対に、泣かせてはいけない人だったのに……! ずっと笑っていてほしい人なのに……!)
彼は枕を放り投げ、一瞬躊躇ってから彼女の置いていった傘を手に取って、ドアを勢いよく飛び出した。
しばらく走って、ようやく彼女の小さな背中を見つける。
彼はその頭上に赤い傘を差した。
彼女は彼を見上げ、そして涙ぐんだ。
「思い出したんだね……」
彼は彼女に向けて微笑んだ。