凍った心と雪の女王
今日は細かい雪が降り積もっていた。
雨よりもゆっくりと落下していくので、窓の外の景色が一服の絵のようで、つい目が外に引き寄せられてしまう。
いや、この白と灰色の世界で、もしかしたら彼女の赤い傘が鮮やかに浮かび上がってくるのではないかと期待していた。
(雪の日に彼女が来たことは無かったな……)
彼は首を振った。彼女が来るのはいつも雨の日だ。
少し前に彼女が残していった謎掛けについて考える。
『ここに来るために、私が失ったものは何だと思う?』
よくわからなかった。一体何を失って彼女はここにいるのか。
以前なぜこの雨の中わざわざやってくるのか、という問いかけにははぐらかされた気がする。
『情報が少なすぎるよ』
彼は困ったように彼女を見つめ返した。
『わからないな……。交通費とか、時間とかではないんだよな』
彼女は首を振った。そして、挑むような、期待するような、懇願するような目で彼を見た。
『もっと…私の大切なもの』
一体何だというのだろう。そもそもここに彼女が何かを失ってまで来たいと思うようなものなど無いはずなのに。彼は結局その日に答えを出せなかった。
そう、彼女が得るものなど無いはず。むしろ自分の方が彼女から与えられている気分だった。
彼はその日に食べた彼女のクッキーを思い出す。まずかった。
形は歪で、石のように硬いし、クッキーの風味よりも焦げた匂いが鼻についた。
それでも嫌いではないと思ってしまった。全くおいしくないクッキーを嬉しく思ってしまう自分の感情が理解できなかった。
彼は一人店の中でくすっと笑った。
そのクッキーと呼んで良いのかよくわからないものを思い出して、なんだか笑いがこみ上げる。彼女が頑張って作ってくれただろう姿を想像すると胸がくすぐったくなった。
(店主と客だというのに、与える側と与えられる側が逆転しているな……)
彼は小さく息を吐いてコーヒーを淹れるべくお湯を沸かし始めた。
戸棚を開けて、ふと思い立って、コーヒー豆ではなく紅茶の茶葉を取り出した。
(たまには飲んでみるか……)
彼女が見ている世界、堪能する感覚を、自分も味わってみたくなった。
雪を一緒に見たいという気持ちを抱いたが、彼女は姿を現さなかった。
もう認めよう。自分は彼女にどうしようもなく惹かれているのだと。
なぜかはわからない。まだ数回しか会ったことが無いのに。
彼女が悲しそうだとなんとか慰めたくなるし、嬉しそうにしてくれるとこちらの心も軽くなるのだ。
ここにいて、こんなに感情を動かされることは無かった。
赤い傘の見えない世界、慣れているはずの彼を取り巻く世界は、いやに静かに感じたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
雪が降り始めてから少し時間が経ち、雪は徐々に水気を増し雨に変わった。
そして赤い傘を差して彼女はやって来た。
いつもの席についた彼女は、いつもより何だか小さく見えた。と、言うより少しやつれたようだった。
それでも彼女は期待するような目で問いかける。
「クッキー、どうだった?」
「……もう少し練習が必要そうだ」
彼は言葉を濁した。
「ごめんね。もっと上手く作れればいいんだけど」
「いや、悪いわけじゃなかった。次作ったらまた食べさせてくれ」
彼は慌てて取り繕った。
「でも、失敗だな……」
彼女はぽつりと呟いた。
そんな事はないと言い募りたかったが、彼女はぼんやりと考え込んでいるようだった。
気になっていることがあったので、聞いてみることにした。
「ところで君は、病気にでもかかったのか?」
元々華奢な肩が更に薄くなった気がする。
「そうじゃないの。少し、上手くいかないことがあるだけ」
彼女はにこっと笑った。なんだかその笑顔も痛々しく感じてしまう。
「何か心配な事があるなら……よければ話してみないか?」
話すだけでも気が楽になるかも、と、彼女の気持ちを少しでも軽くしたい思いでそう言った。
「私の周りの人たちは、私がここに来ることを良く思ってないの……」
「それは……一体なぜ……?」
怪しげな店だとでも思われているのだろうか。
しかし彼女は首を振った。
「ごめん、詳しく話してはいけないことなんだ……」
「そうか……軽はずみに聞いて悪かった」
「ううん、心配してくれてありがとう」
「少し待ってくれ。すぐにロイヤルミルクティーを淹れるから」
「ありがとう。でも慌てないで。ここではゆっくりしたいから」
「……わかった」
彼は普段通り湯を沸かし始める。
「ねぇ、店長さん」
「何だ?」
声をかけておきながらなかなか切り出さない彼女に痺れを切らして尋ねる。
彼女はそれでもたっぷりと間を置いて、それから口を開いた。
「……あなたにとって一番大切なものって何?」
「……」
彼女の問いかけはいつも唐突なものが多かったが、今回はまた脈絡がない。
それとも彼女の今悩んでいることと関係があって、参考にでもしたいのだろうか。
(それにしても何だろうか、今の自分の大切なものは)
「特に思いつかないな……」
「静けさ、じゃないの?」
彼女に言われて気が付いた。逆になぜそれが思いつかなかったのだろうか。
今までずっとそれを大切にして日々暮らしてきたというのに。
「……そうだな……」
「……」
彼女は頭痛でもするかのように額に手を当てて俯いていた。
「君はどうなんだ?」
「えっ……?」
「君の大切なものは?」
「私の大切なもの……」
彼女は顔をくしゃっと歪めた。
いよいよ彼女が泣き出すのではないかと心配になった。だがそれでも彼女は泣かなかった。
「私、少し前までの日常が大切だった」
彼女を見ると、遠い目をしていた。
「いつでも触れられるくらい近いところにいて、温もりを感じないことなんて無かった。
今は、朝目覚めるとベッドが広くて……手を伸ばしても何も触れないことが悲しい。
楽しいことを見つけると、それを伝えようとするのに側にいないことに気付くのが悲しい。
失ってしまったことが、徐々に日常になろうとしているのがただただ悲しい」
彼女は大切なものを失っていたらしい。そして、彼女の大切なものとは恐らく『人物』だったようだ。
ふと手元を見ると、ポットを強く握った自分の手が小さく震えていた。
彼は彼女の大切な人物の存在に酷くショックを受けている自分に気付き、衝撃を受けた。
「……っつ!」
「大丈夫!?」
失敗した。手が震えているのに気づいていたのに焦ってポットの湯を手にこぼしてしまった。
彼女が急いでカウンターを回り込んで彼の横に立つ。腕を引っ張ってシンクの水に晒す。
初めて彼女に触れた気がする。こんなに近くに彼女を感じたことも無かった。
彼の手に水をかける彼女をじっと見つめた。
彼女もそれに気付き、彼を見つめた。
雨の音と、水が流れる音だけが聞こえていた。
不意に彼女は顔をそらした。
「氷を、もらえる?」
「……ああ」
彼が製氷機の方を振り向くと、彼が動く前に彼女が氷を取り出し袋に詰めた。
テキパキと袋を縛り、彼に手渡す。
「ありがとう。今淹れ直すから……」
「今日はいいよ。無理しないで」
「だが……」
「ポット、割れてないかな。私洗っておくから、座ってて」
「そういうわけには……」
「いいからいいから」
彼女は彼の背中を押してカウンターの席に座らせると、本当にポットを洗い出した。
居心地悪く思いながらも彼女が立ち働いている姿を見ると安心した。落ち込んでいたり泣きそうだったりするよりずっと良かった。
「氷……」
作業を終えた彼女が不意にぼんやりと呟いた。
「?」
「あ、ううん、何でも無いの。今回話そうと思っていた話が、氷に関するものだったから」
「どんな話だ?」
「今日は……もういいの。あなたが怪我をしてしまったし、そんな長居せずに帰るつもり」
「そこまで話されると逆に気になるから話してくれ」
何だか彼女に少しでも長くそこにいてほしくてそんな事を言った。
彼女は微かな笑みを浮かべた。
「そう? じゃあ、また話を聞いてくれる?」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
人から聞いた話なんだけどね。
ある街に男の子と女の子がいました。
二人は幼馴染でとても仲良しでした。
少しお転婆なところのある女の子を、心優しい男の子が見守り、導いていました。
二人は互いにずっと一緒にいたいと思っていました。
しかし二人にとっては不幸なことに、男の子は人目を引く美しさを持っていました。
それが評判となり、男の子は大人たちに目をつけられ、どこかに連れて行かれてしまったのです。
女の子は必死に彼を探しました。
周りの人たちに止められましたが、それでも振り切って彼を探しに行きました。
彼を連れて行った大人たちの妨害にも遭いましたが、何とか屈することなく彼を探し続けました。
そしてとうとう彼を見つけることができたのです。
二人は再会を果たしました。
しかし、彼は変わってしまっていたのです。
優しかった彼はいなくなり……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
前回同様、途切れがちに話をしていた彼女は、そこまで話して唐突に言葉を切った。
何かと思い彼女を見上げると、唇を噛み締め、目に涙を浮かべていた。
彼女は彼の視線に気付くと、はっとした表情を見せ、すぐに背を向けた。
「君は……本当に随分と物語の中の人物に感情移入するな」
背を向けた彼女に静かに声をかける。
「作り話だっていつから気づいていたの?」
彼女は背を向けたままで返事だけする。
「二回目の時から。最初の時から『君自身の話』か『作り話』のどちらかだと思っていたが、二回目以降も全て君の話とは思えないからな。
君の方こそ、俺が嘘かどうか判別できると知っていたんじゃないのか? いつもわざとらしく『人から聞いた話』という出だしだっただろ」
「……」
「君は俺を知っていたのか?
初めて会った時から俺の鼻が利くことに気が付いていたんだな。それに俺がコーヒーを好きなことも予め知っていた」
彼がコーヒーが好きでしょうと彼女に言われた時、彼自身が『誰かと勘違いしているのでは?』と聞き、彼女は否定も肯定もせずに謝るだけだったので、嘘かどうか判別できなかった。
「君は俺の何を知っている? 何のためにここに来たんだ?」
「……」
彼女は黙したまま動かなかった。
「ねぇ、店長さん……」
不意に彼女は呟いた。
「前に私が問いかけたこと、覚えてる?」
「……あぁ、『ここに来るために君が失ったものは何か』、だろ」
こくり、と頷いてから彼女はゆっくりと振り返った。
「わかった?」
彼は彼女をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、わかったよ」
「なあに?」
彼は先程、彼女のすぐ近くに立った時のことを思い出した。
「まったく不思議なことだが、君からは君自身の『匂い』がしない」
そう、悲しみや嬉しさ、嘘かどうかなど感情が動く時はその匂いが揺らぎとなって漂ってくるのに、彼女自身の本来の匂いは全くと言っていいほどしなかった。
彼女が店内に入ってくる時はいつも彼女の香りではなく、外の雨の匂いがした。
触れるほど近くに立ったし、髪が舞い上がるのを目の前で見たのに、その時も何の匂いもなかった。
いつも彼女を見ると違和感を覚えていた。
常に必要な何かが欠けているような気がしていた。
気が付いたのはつい先程、彼女に手を引かれて手を水に晒したときだった。
彼女に触れて、彼女の目を見て、初めてそこに決定的に足りないものに気が付いた。
(彼女に惹かれているように感じていたのも、この違和感が気になってしょうがなかったから……それを錯覚していただけなのかもしれない……)
その考えは、ひどく彼の心を沈ませた。
「気付いたんだね……そう、『匂い』が私がここに来るために支払った代償」
彼以上に沈んだ声で彼女は言った。それから彼女は大きく息を吸った。
「じゃあ、私がここに来た目的は、一体何だと思う?」
彼女はカウンターに手をついて、彼に挑むような視線を投げかけた。
「君の……その匂いは取り戻せるのか?」
自分でも荒唐無稽な話に真剣に取り合うなんて馬鹿げている、という気がした。
だがそれを聞かなければいけない気もした。
「無くしているのはここにいる時だけ。ここから出れば大丈夫。
それより、私の……」
「その前に、今回の物語だが……」
「話の続きを聞きたい?」
「いや、そうじゃない。謎掛けの部分よりも、君がどの登場人物に共感して、何を思ったのかが知りたい」
彼の言葉に、彼女はぐっと顔を歪めた。カウンターの上の手をぎゅうっと握りしめ、噛みしめるように言葉を零した。
「……私が思ったのは、『再会することはできたけど、男の子がそこで幸せそうに暮らしているなら、連れて帰ることが果たして男の子にとって良いことなのかな』ってことだよ」
「……」
彼は俯いてカウンターの木目を見ていた。
コーヒーが飲みたかった。
「あなたは……」
「今日は帰ってくれないか?」
彼女の言葉を遮る。返事がなかったので顔を上げると、彼女は唇を引き結んで傷ついたような顔で彼を見つめていた。
「いや……」
「君の言いたいことはわかるが、俺には到底受け入れられない。すまないが今日は……」
「いや。あなたの答えを聞くまで帰らない」
「……」
彼女の声は震えていた。
「君はさっき俺にこう聞きたかったんだな? 『あなたは今幸せ?』と」
「……」
小刻みに震える彼女を冷めた目で見つめた。
「俺は今ここで幸せだよ」
彼女はその言葉を聞いて数秒動きを止め、何とか耐えていたものが決壊したかのように、見る間に顔を歪めて涙を零した。
彼女は『もう来ないから……最後に触れさせて』と呟き、彼の手を取ってその指先に頬を寄せた。
たったそれだけの動作で彼女の頬にまた涙が伝い、彼の指先も温かく濡らした。
彼女は彼の手を静かに離すと、泣いて赤くなった目で彼を見つめ、辛そうに視線を外すと店を出ていった。
それから雨が降っても彼女が姿を現すことはなかった。