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短編小説集 à la carte

初夏の椎間板

作者: 篠崎フクシ

 JK(高校生)からJD(大学生)になってからの数ヶ月は、今まで視えなかったものが可視化されてゆく過程だったと表現できる。お化けが視えるようになったとか、UFOが空を飛んでいたとか、そういう夢のような類の話ではない。私にとって、改めて可視化されたのは父親の存在だった。


「マミたん、なんか甘いもんが食べたいなぁ」

 ドアをノックもせずに、父のマサオが顔半分だけ見せて変な言い方で語りかけてきた。

「ちょっ! いま授業中なんだから、勝手に開けないでよ、閉めて、早く閉めて!」

 そう、声に出さず、ジェスチャーだけで怒りを表現し、シッシッと手で祓った。新型コロナの感染拡大により、御多分に洩れず私の大学もオンラインで授業を受け続けていた。部屋に篭りきりになり、季節はもはや初夏となっていた。

 父のマサオは大学の准教授だったから、私と同様に、ほとんど出勤などせずリモートワークが続いていた。彼は教える側の立場にいた。


「お父さん、さっきのアレ、絶対やってはいけないことだよ」

 夜の食卓で、私は噛んで含めるように父に言い聞かせた。

「だってさ、お父さん、最近やばいんだよ。コンビニに買い物行けないくらい、やばいんだよ」

「何がやばいのよ」

 駅前のコンビニで買ってきた冷凍パスタを啜る父の顔は、情けないほど父親っぽくなかった。もちろん、コンビニへの買い物は私が行った。

「何かさ、痛いんだよ、腰が」

「腰って、昔やったギックリみたいな?」

「いや、そういうのとは、何か違う痛み」

 確かに腰痛にもなるわな、と私はため息をつく。政府による緊急事態宣言以来、私たちは文字通り座り続けていた。何かの修行のように。


「それでさ、行きつけの鍼灸院でさ、はりをやってもらったのよ。や、むっちゃ痛かったね、腰から足にかけて、筋肉がコチコチになっていたから」

「じゃ、効いたんでしょ? ちょっとは」

「それがさ、いつもと違うんだよ。痛みが緩和されないというか、むしろ何処かに逃げていくというか」

「痛みが、逃げていく?」

 その奇妙な表現に、私のアンテナは反応した。私の研究したいテーマは、リハビリテーション医学だったからだ。父は経済学者だから、ヒトの身体のことには疎いので、いつも自己流の判断をして失敗を重ねるタイプだった。ネットの情報に簡単に流されるような、タイプ。

「うん。鍼灸の先生には、もう少し様子を見ようと言われたんだけどね。痛みが続くようなら、大きな病院でレントゲンを撮った方がいいって」

「なるほどね」

 私は味気ないペペロンチーノをフォークにくるくる巻き付けながら、父の顔をまじまじと見た。この人、右のマブタに黒子ほくろなんてあったんだ。


 父子家庭を何年も続けてきたのに、私は父の顔を何年もちゃんと見ていなかったことに気づく。これまで父は仕事人間で、学会発表や研究の時間よりも、山のような雑務やよく分からない目的の会議に追われていた。それが急にリモートに移行し、必然、娘の私と顔を合わせる時間が多くなったのだ。

 

 その夜、隣の部屋から呻き声が聞こえた。

 何やら、うーん、うーんと父のマサオが呻いているようなのだ。

「お父さん、大丈夫?」

「い、痛い、痛いんだよ」

 父は布団の上でのたうち回っていた。

「痛いって、腰が?」

「いや、腰じゃなくて、太腿からスネのあたりにかけて、ズキズキと痛むんだ」

「き、救急車、呼ぶ?」

「いや、そこまでしなくていい。痛み止めをくれ」

 私は生理痛の時にいつも使っている痛み止めを父に与え、自分の部屋に戻った。それでも朝方まで、もぞもぞしているような感じだった。

 

 その痛みは、はじまりに過ぎなかった。

 それから彼は、一週間ほどその痛みを放置した。坐骨神経痛だよ、と鍼灸院の先生に促され、ようやく病院の整形外科を訪ねることになった。そこでレントゲンを撮ったのだが、何も異常は見られなかった。


 医師は、痛み止めを出しますが、二週間痛みが続くようでしたらMRI検査(核磁気共鳴画像法)をしましょう、と父に提案した。


 父は痛みによく耐えた。痛みとともに、爪先までの痺れも顕著になってきたという。仕事はやはりリモートだから、座り続けるしかなかったが、YouTubeなどで腰痛に効くという動画を観ながらストレッチをやっていた。


 夜中になると、痛みに耐える父の気配が感じられ、私も居た堪れなくなっていた。

「お父さん、ちょっと早めに撮りに行ったら? MRI」

「そうだね、マミたん、ついてきてくれる?」

「やだよ、病院なんて。コロナに感染したらどうすんの?」

「まあ、そうだよな。分かった、一人で行くよ」

 父の顔はどこか寂しげだった。髪は伸び放題で、無精髭がさらに、彼を哀れな色に染めていた。見ているのも辛かった。


 予約を取ってからさらに一週間が経過した。

 いつの間にか、季節は初夏になっていた。太陽は暖かく、植物たちは元気よく緑の葉を揺らし、小鳥は美しい歌を歌った。

「あんなに痛かったのが嘘みたいだ」

 その朝、父は清々しい表情で珈琲を飲んでいた。MRIを撮りに行く朝、すっかり痛みは抜けていて、何のために行くのか分からない、とボヤいていた。行くの、やめようかなと言い出したので、私は何があるか分からないから絶対に行ってくれと懇願した。

 

 診断名は「椎間板ヘルニア」だった。


 椎間板ヘルニアとは、頸椎と頸椎の間にある軟骨が変形して、外に飛び出してしまう症状のことだ。ラテン語で、herniaとは、本来あるべき場所から、外側に突出してしまう状態を意味する。問題は、飛び出した軟骨が坐骨神経に触れてしまうことで、激しい痛みを誘発することにある。


「だから、痛みがなければ手の施しようがないんだって。激しい痛みが続けば手術をする必要があるんだけど、今はもう痛まないからね」

 父は嬉しそうに語っていた。

「原因が分かってよかったじゃない」

 私もなんだか嬉しくなって、父がソファで晩酌しているのを暫く眺めていた。ずいぶん歳を取ったな、と思う。私も歳を取っているのだから、当たり前か。


 一人になった部屋で、灯りを消して、初夏の椎間板を想像する。父、マサオが白い円筒状のMRI装置に吸い込まれてゆく。カプセルホテルのような狭い空間の中で、カタカタカタという音が響く。マサオという肉体(物質)が、強力な磁場に置かれ、電波を照射される。水素原子がいっせいに踊りだし、マサオは宇宙に溶け込んでゆく。私は父という生き物を観察することで、生命の神秘に、今日もまた一歩、近づいてゆくのだった。【了】

 

 

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