鬼ごっこ開始!
「くそっ。何がどうなってるんだ。」
校舎を激走しながら俺は言葉を吐き捨てた。
数時間前まではこんなことになるなんて微塵も思っていなかった。今朝袖を通したばかりの制服はすでに汗まみれだし、折角親父に習って結べるようになったネクタイは綺麗とは程遠い形へと変貌しつつある。普段の運動不足が祟ってか、息苦しさがこの上ない。
このまま昇降口まで逃げ切りたいが、入学したての身としては、今自分がどこにいるのか分からない。どこだ昇降口。そもそも昇降口までのルートが分かったとしても走り切る体力がない。
「どこか休める場所…。」
走りながら探す休憩できる場所。しかしどの教室も鍵がかかっている。最後の望みで手をかけた教室のドアは、幸いにも開いていた。これで少しは休憩できるはず。
荒い呼吸を整える。額から流れ落ちる玉のような汗が目に入って痛い。すかさず袖で顔を拭ったが、袖はびしょ濡れ。顔を拭くどころか、むしろ袖で顔を濡らしているに近いような気がする。
「何なんだよ。本当に。」
新学期早々ついてないどころじゃない。何が悲しくて入学早々鬼ごっこまがいなことをしなきゃいけないんだ。呼吸を整えながら俺は目を瞑り今日のことを思い返した。
今日は入学式だった。外は快晴。桜はまだ咲いていなかったけど、心地よい暖かさがあった。
高校入学にあたって心機一転したかった俺は、あえて同じ中学出身のやつが少ない高校を選んだ。別に中学時代に嫌なことがあったとか、そんなことはない。ただ何となく新しいスタートを切りたいと思って選んだ高校。特別に頭が良いわけでもなければ、部活動に力を入れているわけでもない。極々普通の高校の普通科だ。
これと言った特徴もない平凡な担任のホームルームを終えると、皆それぞれ帰り支度を始める。俺も鞄にプリントや筆記用具をつめて、教室から出ようとした時だった。
「初めまして。朝丘新平くん。」
「え、あー…。はい。初めまして。」
すらっとした長身に、整った顔立ち。黒髪に、黒縁メガネ。パリッと糊のきいたシャツに第一ボタンまできっちりと締めた上でのネクタイ。いかにも優等生なオーラが出ている。
名前を知っているということは、知り合いだろうか。いや、でも始めましてと言っている時点で知り合いではない…よな。
視線を落とすと、上履きの色が俺の物とは違っていた。ということはこの人はおそらく上級生だろう。
「あの、どうして俺の名前。」
「君の名前?ああ、よく知っているよ。君の出身中学から君の所属していた部活、住所、生年月日、家族構成、その他諸々。君のことなら何でも…というのは言い過ぎだな。大概のことは知っているぞ。」
「え?」
「君に会うのを心待ちにしていたんだ。さあ、ホームルームも済んだみたいだし、行こうか。」
「えっと、何ですか。」
彼は俺に握手を求めるように手を伸ばしてきた。
なんだこの人。唐突すぎて頭が追い付かない。
「あの、よくわからないんですけど。」
「そうだろうそうだろう。入学仕立てではわからないことも多いさ。でも安心したまえ。僕たちが全力で君の高校生活を輝かしいものにするべくバックアップしてやろうではないか。ああ、礼は結構だぞ。」
訂正する。この人は優等生ではなく、きっと変人だ。それもひどく変わっている。
そして俺の直感が伝える。この人は関わってはいけないタイプの人間だ。こういうタイプの人と関わるとろくなことがない。こういう場合は…とりあえず…
「えっと、その、失礼します。」
「どうして逃げるんだ?ははっ、シャイボーイだな。ま、想定内ではあるが。作戦2決行だ。」
後ろから指をパチンと鳴らしたような音が聞こえた。
それとほぼ同時に、軽やかで素早い足音が聞こえてきた。逃げながら恐る恐る振り向くと、メガネの彼がこっちに向かって走って来ている。最悪だ。意味が分からない。しかもなんなんだよあいつ。ふざけているようでめちゃくちゃ足速え。
「僕が追い付いたら一緒に来てもらおうか。」
はははは、と笑い声をあげながら追いかけてくる。
さわやかな笑い声を放ちつつ、あいつは確実に俺との間を詰めてきている。俺の頭にはとりあえずこの人から逃げることしか浮かばなかった。
初登校の校舎の構造なんて知るわけがない。とりあえず目の前に曲がり角があれば曲がるし、階段があればとりあえず上るか下りるか試みる。
「きゃ。」
「すみません。」
「こら、廊下は走らない。」
「すみません。」
女子生徒にぶつかりそうになったり、教師に注意されたり、この時点ですでに散々だ。俺が何をしたっていうんだよ。意味わかんねえ。さっさと帰りたい。
階段を一段飛ばしで上り、廊下を直進。後ろからはタンタンとリズミカルに階段を上る足音が聞こえる。直進を続けると、曲がり角が見えてきた。壁の角に手を添え、遠心力を利用してくるっと直角に曲がる。真新しい上履きがキュっと高い音を鳴らした。ちょっとしたアクションスターになった気分だ。
そのまま校舎を激走する。どこか隠れる場所。隠れる場所は…。周りを警戒しつつ適当にドアというドアを開けようと試みるが、鍵がかかってる。最悪だ。
「くそっ。」
段々近づいてくるリズミカルな足音。本能が逃げろと警鐘を鳴らしまくっている。床にポタポタと汗が落ちる。どうする、どうしたらいい。
この廊下で開けていない教室のドアはあと一つ。頼む、開いてくれ!ドアに手をかけ、力いっぱいにスライドすると、ドアは勢いよく開いた。勢いが良すぎて反動で戻ってきたドアに少し体をぶつけた。
「痛っ。」
ぶつけた肩をおさえながら俺は教室の中に足を踏み入れる。
教室の中は、机や椅子が重ねられていて、棚には少し埃が被っている。使っていない空き教室だろうか。でも良かった。これで少し休憩できる。俺はドア越しにしゃがみこんで、大きく深呼吸をした。