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遠山君にくちなし

作者: ヒロ



 自分がどうしようもなく面白くない人間だということは、これまで生きてきてもう十二分にわかったよ。


 けれど、例え面白味に欠けようとも、人間の持つ魅力というものは計り知れない所にあるのだから、と割り切って、さほど気にすることはなかった。


というか、面白いという匙では計らない、もっと別の領域において、自分は他より優れているものがある、優れてみせようと努力していた。


 すなわち、面白くあることについては、すっぱり諦めていた。


 だから、今さら君は面白くないだなんて言われても、そんな不思議な顔で見つめられても、僕にはそれに返す言葉も顔も、持ち合わせてはいない。


 申し訳ないけれど、やめてくれないか。


 もうわかったから。


 勘弁してくれ。



 ◇



 遠山君が死んで六日が経ったけれど、私は学校に行かない。


 天井の白を見るとあの病院を思い出すので、できるだけ窓に映る、空と公園が視界に入るような向きでベッドの上に横たわっていた。


 枕は涙で濡れていなければ、目も鼻も腫れてはいなかった。ただ、この二日で確実にベッドは私の形に沈み、変形したと思う。


 体が鉛のように重く、特に腹の底は下へ下へと重心を落とす。


 何も口にしていないけれど、十キロは太ったような感覚で、この凝り固まった脂肪だけでも彼にあげられたら、なんて自分でもちょっと恐いことを考えたりした。


 遠山君なら、こんなことを私に言われて、どう思うだろう。どんな顔をするだろう。


彼なら…困った顔をするだろうか、返事に困って、笑うかもしれない。


 笑った遠山君の顔を想像してみるけれど、恋愛感情が邪魔をして、顔の周りに花を纏って美化された、遠山君らしからぬ遠山君が私に微笑む。



 妄想の限界を感じた。


私の想像力では、とても彼の十四年を計り知ることはできない。


十四年の内の、たった一日しか、ほんの十分程度しか彼と関われなかった私には、そのとき見ることのできなかった彼の笑顔を想像することは不可能だ。

 

 

 それでも、考えずにはいられなかった。

 彼があのまま死ぬことなく、笑って生きた未来。



 ◇



中学に上がると、それまでなんとなく遊んでいた小学校の頃の友達とはクラスが離れ、自分が人見知りだったのだと知った。

 話しかけられても目を合わせることができず、返す言葉がすっと出てこないうちに、相手は無視されたのだと思って離れていった。

 小学校の友達も、しばらく会わない内にどう接していたのかわからなくなって、離れた。


 やばい、と思った。

 私、ここではやっていけない。私が、通用しない。


 そう思ってしまってからはもう、人と関わることを諦めて、クラスの人達と自分は全く違う人種の人間なのだと思うようになった。

 自分と周りの間に壁を作ると、人の顔色を気にしなくて済んだ。


 私はひとりで平気なの、という顔を必死になって演じた。


 すると、教室はたくさんのモブが配置された広い一人部屋になり、私にとっては自室で過ごすのと変わらない、平穏な日々が続いた。



けれど夏休み前になって、突然ある変化が起こった。

というより、壁を作っていた私はそれまでの変化に気づけなかったのだ。


 クラスの男子に告白をされた。

 一週間で三人に告白された。


 いつの間にか私は、クラスで人と連まない「高嶺の花」になっていたのだと、その三人に教えられた。

 当然、その三人とも壁のある私は、全員の告白を断った。それが、「高嶺の花」というイメージを確固たるものにしてしまった。


 クラスの人達は私を下から覗くようにして、腫れ物扱いし、それによって私の壁もより厚く、冷たくなっていった。



 ◇



 担任の教師はそんな私に、クラスメイトと接する機会を作るつもりだったのだろう。

 職員室に呼ばれた私は、各教科の一学期分の授業プリントと一緒に、病院の住所と部屋番号が書かれたメモを渡された。


 私はそこで初めて、自分のクラスに入学当初から空いている席があることを知った。


 部屋番号の隣に遠山駿という名前が記されていた。



 ◇



 遠山、駿。とおやま、すぐる。

 とおやまくん。

 よし、遠山君。


 私は緊張していた。


 一度も学校に来ていない人とはいえ、クラスメイトに自分から話しかけに行くことなんてまずなかった。

 話もしないでプリントだけ渡すわけにはいかないし、けれど触れてはいけない話題を回避して、円滑にその場を済ませる会話術が私にはない。

 それ以前に、どんな顔をして行けばいいのかわからない。目を合わせられる自信が、まるでない。


 病室の前まで来て、私は途方もなく後悔していた。遠山君はきっと、初めて会う中学校のクラスメイトに少なからず期待しているだろう。

 学校に通えず、ずっと病室で過ごす生活を強いられて、きっと今日、まだ見ぬクラスメイトが会いに来るのは彼にしてみれば非日常で、特別なイベントかもしれない。

 今日会う私が学校の全てで、私が学校の顔になってしまう。

 そんな重要な役、私が務められるわけがなかった。


 胸が痛い。

もしここで会わずに帰ってしまえば、遠山君はどう思うだろう。


 期待していたなら、きっととても傷つけてしまう。


 ベッドの上でじっと私を待ち続ける遠山君を想像してみる。


 また、胸が痛くなった。心臓を握りつぶすような痛みだ。


 帰ることなんてできない。

 こんな私を、彼は待っているかもしれないのに。ここは学校じゃないのに。

 学校での私の様子を、彼は知らない。

 私が壁を作っていることも知らない。


 彼になら、私は通用するかもしれない。

 普通に話せるかもしれない。

 これはチャンスかもしれない。


 私が、私を取り戻す。



 ◇



 冷たい戸を引くと、個室は真っ白だった。


 真っ白で、何も無かった。誰もいなかった。

 もぬけの殻だった。


 改めて部屋番号を確認するけれど、間違っているわけがない。

 確かに、個室のネームプレートには「遠山 駿」と書いてあった。


 私はその場にへたり込む。


 急に息をすることを思い出したように鼓動が跳ねて鳴り止まない。

 ほっとしたような、やるせないような気持ちで、私は本当に途方もなくなってしまった。


 真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白なベッド、それしかない部屋だった。

 とても、長く闘病生活を続けている部屋とは思えない。

 部屋を移動したばかりだったとしても、ここまで人の温もりを感じない部屋があるだろうか。


 鼻をつく、シンナーのような匂いがした。

 寂しい匂いだった。


 それは私の作る壁の内側と少し似ていた。



 ◇



 結局、プリントをベッドの上に置いて帰った私は、遠山君と会うことはなかった。

 それからすぐに夏休みに入り、学校に行かなくても良くなった。


 そして再び学校が始まると、私は少し変わっていた。


 教室で前列の窓側にある空席が、あの匂いを纏っているようで気になった。

 朝のホームルームで、退院した遠山君が顔を出すんじゃないかとドキドキしたり、他のクラスメイトが遠山君の噂をしていると耳に入ってきた。


 相変わらずクラスでの私の立ち位置は変わらないけれど、なぜか前より一人だと感じることがなくなった。


 会ったことも話したこともない人の存在に、ここまで影響を受けるなんて自分が信じられなかった。

 なんとなく軽薄な気がして、自分を疑ってしまう。


 遠山君の顔、声、性格を想像して、いやもっと、髪や瞳の色素は薄くて、男の子にしては高めの声で、ちょっと控えめな感じの…と考えたあたりで頭を左右に激しく振る。


 こんなこと、遠山君が知ったら絶対に気持ち悪い。

 そうは思っても、気づくと頭の中は遠山君でいっぱいになっいた。


 彼は他とは違う。

 私と同じ、壁の内側にいる人間。


 そんな自分に都合のいい妄想に飽き飽きしては、妄想の中で作った「遠山君」という虚像に焦がれていた。



 ◇



 遠山君と初めて会ったのは、次の夏休みの終わりだった。


 終わりといってもまだ八月なのに、異様に涼しい日だった。


 病室を訪れたあの日から一年以上が経っていた。

 中学二年になったクラスに遠山君の席はなく、私は前ほど遠山君の事を考えなくなっていた。


 電話が鳴ったのはその日の夕方だった。

 受話器を取ると、奥から低い男の子の声がした。


「もしもし。藤川さんのお宅ですか。なつみさんと同級生の遠山といいますが、なつみさんはいらっしゃいますか。」


「はい、なつみです。…遠山君?」


「あなたが…あ、そうです。遠山駿です。あの、もし時間があれば、突然なんですけど、今から僕がいる病院に来てくれませんか。あ、場所は…」


「○○病院○○号室ですよね。わかりました。行きます。」


 自分でも驚くほどはっきりと話していた。

 電話を切った瞬間靴を履いて、家を飛び出した。


 病院に向かいながら、電話で聞いた低い声を何度も何度も頭の中でリピートした。

 中学生にしては少し低いくらいの、声尻がざらつくような、それがしっかりと耳に響いてくる、余韻の残る声だった。

 想像していた声とは全く違っていて、けれどそれが間違いなく遠山君の声だった。

 電話越しではそれだけで、特に、息遣いや、声が詰まる様子も感じなかった。


 病人とはとても思えなかった。

 もしかしたら、病気が治っているのかもしれない。


 夏休みが終わったら、学校に通えるようになるのかもしれない。


 彼はどうして私を呼び出したのだろう。

 どうして私のことを知っているんだろう。


 しばらく考えていなかった分も一変に、私は遠山君の事だけを考えていた。



 ◇



 病室の前まで着くと、息を整えるのに少し時間がかかった。

 それは、以前のような気持ちとは違って、私は早く戸を開けたくて仕方がなかった。


 相変わらず冷たい戸に手を掛けると、真っ白な部屋に、遠山君の存在を確かに感じた。


つんと鼻をつく匂いが漏れた。


「藤川さん……来てくれてありがとう。」


 真っ白な部屋の真っ白なベッドの上に、真っ白な肌をした男の子が細い体を起こして座っていた。

 白いのは肌の色だけで、髪の色も瞳の色も真っ黒で、その白と黒のコントラストが綺麗だった。


 私の想像よりも、綺麗な男の子だった。


 私は促されてベッドの近くにある丸椅子に座り、彼の顔を食い入るように見つめた。

 どうして私を呼んでくれたのか、聞きたいけれどなんとなく自分からは聞きたくなくて、遠山君から話してくれるのを待っていた。


 近くで見るほど、彼の頬はほっそりと痩せて青白く、長い睫毛が力を失ったような逆睫毛で、一見すると、病弱な男の子、という雰囲気は否めなかった。


「あの、そんなに見られると、少し困ってしまうよ。」


 そう言って、遠山君が私から目を逸らしたことで、私は自分が人と目を合わせられていたことに気づいた。


 相手が戸惑うほどに、見つめてしまっていた自分に驚いた。

 そしてそれは、相手が遠山君だからだということにも、気づいていた。


「こんな時間に、急に呼び出して申し訳ない。藤川さん、君に頼みがあるんだ。」


「遠山君って、とことんイメージと違う。」


 彼はまた目を逸らしてしまった。

 青白かった頬は、少し血色を取り戻したように見えた。

 真っ白な部屋には少し不釣り合いで、けれどそれが本来の彼らしかった。


「ごめんなさい。なんか、遠山君って中学生にしては大人っぽいっていうか、とても同い年とは思えなくて。」


「ごめん、面白身のない人間で……。」


 ぼそっと言った彼の言葉は、私の耳までは届かなかった。

 それからしばらく不思議な空気が流れた。


 白い部屋に二人、ぽつんと時空に浮かんでいるような感覚だった。私には、なぜだかとても心地の良い空間だった。


 けれど、その後仕切り直すように放った遠山君の言葉は、それらを綺麗に払拭してしまった。


「僕が死んだら、使える臓器は全て提供して、葬式はしないでほしい、という僕の意思を、両親に伝えてくれないか。」


 うな垂れた睫毛から覗く瞳は、黒く、力が込もっていた。

 なぜ私なのかなんて、もうどうでも良かった。


「遠山君、死ぬの?」


「多分……そうだね、うん。」


 私は、睫毛の奥に隠れてしまった瞳を探すのに必死だった。


「僕はもう長くないんだ。両親は共働きで、その、中々会うことも難しくて、もし僕が明日死んでしまったら…。」


「死ぬなよ。」


 遠山君はどんな顔をしていたっけ。

 悲しい表情をさせてしまった気がする。


 はっきりと顔を捉える前に、部屋を飛び出したから思い出せない。走って家に帰った。死ぬほど走り続けたけれど、死にはしなかった。


 遠山君はこれほど走り続けたことがあっただろうか。


 十四年間のうち一度でも、「死ぬほど」と思った事があっただろうか。



 ◇



 次の日の朝、彼は病室で息を引き取った。

 私がそれを知ったのは三日後、登校日の朝のホームルームだった。



 ◇



 会いに行かなきゃ、伝えなきゃ、と思っている内に時間は過ぎていった。

 日が経つにつれて悲しみと後悔が頭をもたげ、やがて下へ下へと落ちていく。

 

 後悔はもうずっと前から溜まっていた。


 病室を飛び出したあの日から、後悔していた。

 登校日、学校が終わってから病院に寄るつもりだった。


 過ぎた時間は戻ってこない、ということを、遠山君ならきっとわかっていただろう。

 だから私に託した。それなのに。


 涙が出てこないのは、認めたくないからだ。

 まだ間に合うと思っているからだ。


 私はたった十分しか彼と関わっていなくて、彼のことなど何も知らない。

 涙を流すほど彼を知るには、あまりに短い時間だった。


 それでも、悲しいという感情は確かに、彼の死を知った時から胸の奥に溜まり続けている。

 その意味に気づいているけれど、認めたくない。


 それはあまりに軽薄で、浅はかだ。

 自分がこんなにも嫌な人間だとは思わなかった。


 傷つきたくないから、無かったことにしようとしている。彼が死んだことは、私にはそれほど関係の無いことだと、自分を騙そうとしている。


 けれど、想像力の欠ける私には無理だった。 

 失くそうと思えば思うほど、彼の黒い瞳が浮かんで、私を見ている。ずっと見ている。


 認めるしかなかった。

 私は、遠山君が好きだ。


 たった十分で好きになってしまった。認めてしまえば、彼を視界に入れた瞬間に落ちていた。一目惚れだった。



 ◇



 三日間何も口にしないでいると、さすがに体が堪えた。

 腹に力が入らなくなり、起き上がることが難しくなっていた。


 このまま餓死してしまえば、遠山君の後を追ったみたいだなあ、とうっすら思い、腹に力を入れた。


 私の死が、遠山君の死に関係しているなんて、誰も思わないだろう。

 それほど、私達の関係は薄っぺらい。


 とにかく力を入れて、台所にあった一房のバナナから一本もぎ取ろうとして、失敗した。

 全てのバナナの皮に亀裂が入ってしまい、一本を除いて残りはラップをし、冷凍庫にしまった。


 コップ一杯の浄水と、バナナ一本を一口ずつ、水で流し込むようにして食べた。

 食べ終わる頃にはもう慣れて、バナナの実だけを咀嚼して食べていた。


 頭に充分な糖分が行き渡ると、脳が活性化しているのが自分でもよくわかった。


 遠山君に託された遺言を、手遅れでも、ご家族に伝えに行くことが今、私のやらなくてはならないことだ。

 その使命はすぐにでも果たさなければならない。

 

 そして、私にはその家族に言いたいことがあった。

 ずっと抱いていた疑問があったことを、思い出した。


 人の温もりを感じさせない真っ白なあの病室と、「両親は共働きで、その、中々会うことも難しくて」と言った遠山君の言葉。

 大切なことを伝える暇もないほど、彼は両親に会うことが困難だったのか。

 ひとり病と闘う子供を残して、遠山君の両親は仕事を優先していたのだろうか。

 最後のときも、彼はひとりだったのだろうか。

 そう思ってしまったら、もうじっとしてはいられなかった。


 足は、あの病院へと向かっていた。



 ◇



 考えなしに動いてしまったことにまた後悔した。

 彼がいたあの真っ白な病室のネームプレートには、「幸坂 里緒」という文字が書かれてあった。


 それを確認していながら、白い戸を引いてしまったのは、隙間から、あの鼻につく匂いが漏れていたからだ。


 小学生くらいの、ピンクのニット帽をかぶった女の子は私を見つめた。

 しばらく見つめていた。


「ごめんなさい、間違いました。」


 その部屋には人の温もりを感じた。

 ベッドの脇にはカットされたりんごとみかんがあった。


 退出しようとすると、あっ、という女の子の声が部屋に響いて、私は足を止めた。


「すぐるくんの、お友達ですか。」


 零れるように出たその言葉が、私にとっては救いになった。

 私は彼女の元へ駆け寄って、手を取った。

 泣きそうな顔をしていたと思う。


「遠山君を、知ってるの?」


 彼女の顔は少し和らいで、子供の、無邪気な顔になった。


「私も、すぐるくんのお友達なの。あのね。これ、すぐるくんに描いてもらった、私のお父さんの絵。」


つんと鼻をつく匂いは、寂しくはなかった。


「お父さん、私の病気を治すために、お金がたくさんいるから、お仕事頑張ってるんだ。だからね、私も、新しい肺が来るまでずっと、痛いことも、お薬も我慢して頑張るの。だけど、会えないのはやっぱり……悲しくて、そしたら、ほら、すぐるくんがプレゼントしてくれたんだ。そっくりなんだよ。」


 暖色をふんだんに使った、やわらかいタッチの絵だった。

 そこには、遠山君の彼女に対する温かい思いが、強く滲み出ていた。


「優しそうなお父さんだね。」


 うん、優しいよ、と言って、彼女は絵と同じように笑った。


 遠山君は、この笑顔を映したんだな、と思った。

 笑い返そうとするけれど、胸が締め付けられて顔が引きつる。


 彼女が病気と闘いながら、変わらない笑顔でいることを心から尊敬した。

 遠山君もこの笑顔に救われていたのかもしれない。


 私と似ているなんて、どうして思ったんだろう。


 戸をノックする音がして、女の人が、失礼します、と言って入ってきた。 

 黒い髪を綺麗に纏め、黒いスーツを纏った知らない女の人だった。

 けれど、黒い瞳には見覚えがあった。


「ごめんなさい。お見舞いの方がいらしてたのね。忘れ物を取りに来ただけだから、気にしないでね。」


 余韻が残るその声でわかった。


 その人は、部屋の隅にあった白い棚の後ろに、隠すように立て掛けられた白い板を二枚、取り出した。

 板を手に取り眺めると、私を見て、瞳を大きくした。


「駿のお友達だったんですね。初めまして、駿の母です。ちょうど良かった。これ、受け取ってくれますか。」


 渡された二枚の板には、私が描かれていた。

 二枚の絵のタッチは少し違ったけれど、どちらからも遠山君の匂いがして、息が詰まった。


 絵を持ったまま黙っている私に、遠山君のお母さんは優しく微笑んだ。

 遠山君も、こんな風に笑っただろうか。


「私達、駿の治療費を稼ぐために必死で、駿にはとても寂しい思いさせてしまったけど、それでも、駿が少しでも長く生きて、あなた達と過ごせることが、私達の生きがいだったから……あなたや、理緒ちゃんや、他にも学校のお友達がいつも来てくれていたみたいで、本当に、あなた達には感謝しているの。ありがとう。」


 やっと、糸が切れたように渇いていた目から涙が溢れた。


 自分の想像力の無さと、それによる申し訳なさ、そして溜まりに溜まった悲しさが絡み合って、嗚咽と共に下から登って流れ出た。


 私は本当に、何も知らなかったんだ。

 こんなに遠山君のことを思って、会いたいのを我慢して、遠山君以上に頑張ってくれる両親に、「もし僕が死んだら」なんて言えるわけがない。


 けれど、理緒ちゃんのように、新しい臓器を待っている子の役に立てるなら、立ちたい。

 その譲れない強い思いだけは、あの日、あの瞳に感じていた。だから、死んだ後、確実に届くように。


 あの遺言は、最後の精一杯の、遠山君の生きた証だった。

 彼は本当に綺麗な男の子だった。綺麗な心をも持ち合わせていた。


 私は、なんて人に恋してしまったんだろう。なんで今更こんなことに気づいてしまったんだろう。

 もう二度と会えない人を今更知って、何になるんだろう。

 彼を知れば知るほどに、もう会えない現実にただただ傷つくだけじゃないか。


「遠山君に、遺言を頼まれていたんです。遠山君が、死んだら、使える臓器は全て提供して、葬式はしないでほしいって……なのに、私、本当にごめんなさい。」


 理緒ちゃんが泣き出して、遠山君のお母さんは優しくその背中を撫でた。


「謝らないで。あなたにも、辛い思いをさせてしまったね。ありがとう。ドナー登録は、駿が意思表示していたのを知って、あの子の意思を尊重しました。実は、お金が無くて、お葬式もまだできていないの。そう、あの子、そんなこと言ってたの……。」


 遠山君のお母さんも、理緒ちゃんも、私も泣いていた。

 真っ白な部屋に温かい悲しみが広がっていった。


それを優しく包むように、つんと鼻をつく匂いがした。

 この部屋に染み付いた絵の具の匂いは、遠山君がいた証として、この部屋を彩り、これからも理緒ちゃんの励みになるのだろう、と思うと、私はまた泣いていた。



 ◇



 遠山君と私は、真逆の人間だと思う。


 遠山君には、親しい学校の友人がいた。

遠山君のお母さんから、よく病室に来ていたという三人の名前を聞いて、驚いた。

 それは去年の夏休み前、私に告白をしたあの三人だった。


 遠山君の十四年間の内の大半を、一緒に過ごしたのは彼らだ。

 遠山君はどうしてあの日、彼らではなく、会ったこともない私を選んだのか。


 私の事をよく知っていたのだろうか。私の事をどう思ってくれていたのか。


 きっとまた泣いてしまうけれど、知りたいと思った。

 私がまだ知らない遠山君のことを、知れることは全部知りたい。

 そして、その全部を私の中に残しておきたい。



 ◇



 六日ぶりに学校へ行くと、教室に入った瞬間、周りの視線がとても痛かった。

 こちらを見ては、何かこそこそ話をしている様子が、壁を作っても透けて見えてしまう。


 耐えられなくなって教室を出ると、三人は心配するような目で私を見ていた。

 透けてしまう壁なんて、もう何の役にも立たない。けれど、透けて初めて見えたこともあった。


 三人はいつも、こんな目で私を見てくれていたのだろうか。

 壁なんて、もういらないのかもしれない。


「遠山君のことを教えてくれる?」


 三人は三人とも、安堵したような泣き出しそうな顔で、私の手を取り、壁の外側に連れ出してくれた。


「俺ら三人と駿とは、小学校からの幼なじみなんだ。あいつの病気は生まれつきだけど、小四までは一緒に学校行ってたんだよ。あいつ、すごい真面目だろ?俺達がよく不良ぶって、学校さぼったりするとさ、必ずあいつが家まで来て、行けるうちに行っとけって叱るんだよ。でも俺らもさ、あいつが家まで来てくれるのとか、実は待ってたりしてさ、駿のあの目で叱られると、しょうがねえなあって、やってやるかって、思えるんだよな。あいつがあんな堅い風になったのは、ちょっと、俺らのせいかもしれないな、なんて。病気のせいで体育の授業は出られなかったけど、あいつすごいんだぜ。美術、図工か。絵を描くのだけは誰にも負けないくらい本当うまくてさ。本人も、僕はこれで秀でてみせるんだって。だけど、ひとつ描くのにめちゃくちゃ時間かかるんだよ。あと、描き始めたら止まらなくてさ、集中すると、周りが何言っても聞こえないんだよ。そんな駿にちょっかいかけながら、一生懸命絵描いてるあいつを見てるの、なんか好きだったなあ。四年の冬ぐらいから、学校で倒れることが多くなって、五年になってからは、本格的に入院して、学校にはほとんど来なくなった。それでも、俺達はしょっちゅう駿の病室に集まって、馬鹿みたいな話して、たまに駿につっこまれたりさ。あ、あと、中学になってからは、藤川さんの話題が多かったかな。藤川さん、美人だし。だけど周りを気にしないで、ただひたすら何かと闘ってるような、さ、ちょっと駿に似てるような気がして。告白の背中を押してくれたのも、駿なんだよ。夏休み前に、伝えられる内に伝えた方がいいって。あいつが言うと、何でも深く聞こえるんだよなあ。まあ実際、あいつが本当に俺達のこと考えて言ってくれてたってことは、ちゃんとわかってるんだけどね。一度、俺達が藤川さんの特徴教えて、駿に絵描いてもらったことあったよな。それがさ、そっくりなんだよ。すごいだろ。写真も何も見せずに、口で説明しただけなのに。やっぱあいつ、才能あったよなあ。もったいないなあ。そういえば、駿が死ぬ前日に、藤川さんの連絡先教えてくれって、駿に言われてさ、個人情報だとは思ったんだけど、あいつ、頼み事とか滅多にしないから、思わず…連絡網の家電教えたんだけど……会えた?」


「うん、うん。会えたよ。」


「うん、そっか。良かった。駿さ、俺達が、藤川さんの話ばっかりしてたのもあると思うけど、藤川さんの絵、描き終えた時に、綺麗だなって言ったんだよ。それで、そのすぐ後くらいじゃないかな、藤川さんが会いに来るって言って、やけに興奮してて、いや、態度はそんな変わんないんだけど、俺らには分かるんだ。けど、当日になって怖くなったって。自分と少しでも関わりを持ってしまえば、自分に何かあったとき、彼女に気の毒な思いをさせてしまうって。だから、逃げたって。馬鹿だよなあ、本当。その事を、ずっと後悔してたと思うんだよ。言わなかったけど。絶対そうなんだ。あいつ、絶対藤川さんのこと好きだったよ。自分で描いた絵に一目惚れしちゃってたんだ。でも、駿の気持ちは、本当だよ。あんな一生懸命、毎日生きてた奴だから、本気で、藤川さんの事、好きだったと思うよ。それに、部屋に戻ったら、置いてあった一学期分のプリント、所々、大事な箇所をピンクのマーカーで引いてあったの、あれ藤川さんでしょ。やっぱり綺麗な線を描く人だって、言ってたよ。多分、あれで本物になったんだ。駿の気持ち。だから、二人が会えて良かった。あいつ、細っこいけど、顔はイケメンだっただろ。いいよなあ。藤川さんとお似合いで。ほんと、なんで、いや、しょうがないんだけどさ、覚悟してたんだけどさ、わかってたんだけど、なんで…………死んじゃうかなあ。」



 ◇



 これは、私のただの妄想だけれど。


 この二枚の絵の内、淡く、明るい色で描かれた方は、三人の話を聞きながら、遠山君が私を想像して描いたもの。

 そしてもう一枚の、私が目を大きくして、こちらを見つめているこの絵は、私が病室を飛び出した後で、彼が死ぬ前に描き上げたもの。


 二枚の絵を自分の部屋に置いたら、遠山君の匂いでいっぱいになった。


 ベッドの上に横たわって、彼の笑顔を想像してみる。

 朝になったら、枕は濡れて、鼻は腫れているだろう。


 あの時、遠山君を好きになって良かったと、きっと、泣きながら思っている。







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