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タマキビルヂングの周期的非常事態  作者: エモトトモエ
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第二章 yuta′s balcony

「そういうの、ネットで調べられるんじゃないの?」

 声の主は、ものの全くなくなった大きなテーブルに雑巾をかけながら、隣のテーブルに目を遣った。

 明るい日差しが、テーブルの上を照らしている。

 そのテーブルには沢山の鉢植えが並べられている。そのひとつの前で、(フミ)が頬杖をついて椅子に座っていた。

 右の手にはピンセット。目の前の植物の葉に当てると、二枚貝のような形状の葉が閉じた。その(ふち)を、ぐるりと細かい棘が囲む。

 史は、開いている別の葉にピンセットを当てた。

 その葉が閉じた。まるで、獲物に咬付こうとする小さな怪獣の口のようだ。

「史ちゃん。…飽きない?」

 少し呆れたような口調で、問われた。

「おー。飽きない」

 視線を上げることもなく、史は答えた。

「そりゃあ結構ですこと」

「これは、何か与えたくなってしまうな」

「何かって、虫?」

 声が遠ざかって行った。雑巾がけを終え、給湯室へ行ったのだ。

 水道の音が聞こえ、そして止んだ。

戻って来た相手に向き直り、史は言った。「『ハエトリソウ』というからには、やっぱり餌は蝿がいいのかな?」

「なんでも大丈夫だよ」

 言いながら、声の主は史の近くの椅子に腰掛けた。

 高校生と言っても通りそうな童顔に柔らかい笑顔を浮かべ、彼は言った。「そいつ、気に入ったのなら、譲ろうか?」

「幾らで?」

 すかさず史が返した。

「そうだなあ」

 彼が腕組みして考え込んだので、史は少し慌てた。本気で買い取るつもりはなかったのだ。

 それで、急いで言った。

「いや、いい。言ってみただけだよ」

「そう? こっちは商売だから、買ってもらった方がいいんだけど」

「きっと『友達の家のペット』みたいなものなんだ」

「と、いうと?」

「つまり、ここ、鳥飼(トリカイ)君のところに来たときには、面白がって構うけれど、自分の部屋に持って帰ったら、きっと持て余して枯らしちまうと思う。それに管理人室は、基本日当たり悪いし」

「面白い例えだね。それに、確かにあそこは日当たりが良くない」

 鳥飼は、史の部屋を思い出しながら、実感のこもった声で相槌を打った。

「俺、たぶん面倒見悪いよ」

 史はダメ押しをするかのように言った。

「そうかなあ。俺ら店子には面倒見いいじゃん、史ちゃん」

 鳥飼はすかさず反論した。

「それは仕事だからさ」

「でもこうやって、差し入れ持って、様子見に来てくれるでしょ。前の管理人なんて、ここへ来たのは…3回? 2回かな?」

 鳥飼は言いながら、コンビニの袋から缶コーヒーをふたつ出した。史が持って来たもので、鳥飼が気に入っている銘柄だ。史からの差し入れの飲み物はいつもこれと決まっている。

 一つを史の前に置き、もう一つの栓を開ける。

立花(タチバナ)さんのところの虫退治も、ここのところ毎日のようにやってるじゃない」

「まああれは…立花ちゃんは虫が苦手だって聞いたからな。それに毎日じゃない」

「一昨日の前の夜だっけ、あのときはすごい騒ぎだったね。うちまで聞こえたよ」

「立花ちゃん、特にゴキブリが苦手みたいなんだ」

「昨日も…?」

「昨日はカナヘビ」

「へえ」

「何、にやついてんだよ」

「ね、史ちゃんって、歳幾つなの?」

 不意に鳥飼が訊いた。

「なんだよ急に」

「いやほら、気になるじゃない? 向こうはJKなわけだし」

 史は、手にしていたピンセットを鉢の横に置いた。

「別に、立花ちゃんとは何もないぞ」

「まあまあ。で、幾つなのさ」

「26」

「へえ」

「その『へえ』はどういう意味かな」

「もっと若いんだと思ってた。俺23だけど、同じくらいかと」

「中身がガキなもんでね、平均化されてその位に見えるんだろ」

「まあそう拗ねないで。コーヒー飲もうよ」

 ふたりは缶コーヒーに口をつけた。

「で、さっきの話だけど」

 鳥飼が言ったので、史が応えた。

「こいつのこと?」

 史は、コーヒーの缶を手に持ったまま、ハエトリソウに目を遣った。

「まあ、それもだけど」

 やや不本意なふうの顔で、鳥飼が頷く。

それから改めて、話したい話題に入った。「じゃなくて。それよりもさっきの、立花さんの部屋の絵の話だよ」

「ああ、あのちょっと気味悪い絵」

 史は思い出して言った。立花の部屋に掛かっていた絵があったと、鳥飼に話したのだった。話題が変わったのですっかり頭になかった。

「タロットカードだったら、絵の特徴とかでどんなカードなのか検索できるんじゃない?」

 鳥飼は、すでに自分のスマートフォンを手にしていた。

「タロットカードとは限らないよ。なんか、そういう感じっぽいってだけで」

「でも立花さんの話からすると、そうなんじゃない? そしてわざわざ額に入れて飾っているってことは、立花さんと何か深い関係がありそうじゃん。どんなのか教えてよ」

「…やめよう」

「えー何で」

「なんか、立花ちゃんに悪い気がする」

「そうかなあ」

「うん」

 史は頷き、話題を変えた。「で、ハエトリソウの話に戻るけれど、こいつ面白いとは思うけど俺は買えないなあ」

 鳥飼は渋々、スマートフォンを腰のポケットにしまった。そうしながら考えた案があったようで、顔を上げると言った。「じゃあ、オーナーは史ちゃんで、ここに置いて、俺が面倒みるっていうのはどう?」

「何だそれ」

 訊ねた史に、鳥飼は身を乗り出すようにして喋ろうとしたが、彼の目の前にあった別の鉢植えの枝に顔が掛かりそうになり、鉢を横に除け、改めて話し出す。

「こいつも商品だからさ、いつまでも在庫にしておきたくないわけよ。史ちゃんが買ってくれるなら、環境のいいここで、俺がアフターサービスとして世話をするからさ。史ちゃんだって、それだったら世話はしなくていいし、好きな時に来て構えるよ。虫だって幾らでも遣ったらいいよ。それに、もし、こいつが買われていなくなったら、少しは寂しいと思うでしょ?」

「まあな…」

「じゃあ決まりだ」

「鳥飼くんは商売上手だなあ」

 史は感心しながら、改めて、鳥飼が借りているこの部屋を見回した。

 立花の部屋と同様、2階にあるが、こちらの方がやや広いし日当たりがいい。

 細長い部屋に、大きな作業台が三台、間を置いて並べられている。

 史たちのそばにあるのは真ん中の台で、(くだん)のハエトリソウの他にも、鉢植えの植物が何種類も置かれている。両隣の奥側は、先刻鳥飼が掃除をした台、出入口に近い方は、まだ小さな鉢植えが台一杯に載っていた。

 その台の先、右にある出入口の向かいにはベランダへ続くガラス戸があり、ここからでも、一面に嵌められたガラス窓越しに、ベランダに並んだ植物の姿が見える。

 戸の向こうには、一回り小さな作業台があり、商品を発送するための段ボール箱や緩衝材などが置いてある。

 その奥は、ベランダは続いておらず、部屋の幅が広くなっていた。PCが載った机や本棚、ソファ、後付けのクローゼット、冷蔵庫などがあり、それらの右手に給湯室やトイレがある。

 ベランダとは反対側にあたる壁沿いには、大きめの観葉植物や、備品の詰まったラックがあり、その上には、鳥飼が描いたスケッチが貼られていた。

 それは、透明な容器の中に幾つもの植物が配置された絵だ。彩色されたものもある。

「新しい商品…何ていうんだっけ? 順調?」

 絵から鳥飼に視線を移し、史は訊いた。

「ああ、テラリウム、ね。覚えてよ」

 鳥飼は言い、コーヒーをもう一口飲んだ。

「そう。それ」

「順調だよ。あれは、作るのも楽しいよ」

 鳥飼が更に身を乗り出し、早口になった。「透明な容器に、色々な形や色のプランツを配するわけだ。容器の形にもいろいろあるし、植物だってそう。持っている世界は様々で、その組み合わせ次第で、それぞれが違う作品になるんだ。作品っていうより、俺は小宇宙だと思っているんだけど。じっくり眺めていると、その中に入り込んでしまいたくなる…というか吸い込まれてしまいそうになる。その楽しさを自分だけじゃなくてお客さんにも知って欲しくて始めたけれど、こんなに人気が出るとは思わなかったよ」

「鳥飼君は、本当に植物が好きだな」

 史が思わず言う。

「好きだよ。好きなものが仕事になって、よかった」

 鳥飼の方も臆面もなく言った。

「そうだな」

 史が頷く。

 鳥飼が視線を落とした。

 組んだ足の、下になった右足の膝の下は、義足だ。

 ハーフパンツを穿いているので、人工で作られ、装着されたものだということがよく分かる。しかも彼は、その義足の表面に植物の絵を描いていた。今は黄色いマリーゴールドの花だ。

「農場主になる夢は、まだ遠いけれど」

 独り言のように鳥飼が言った言葉は、史に聞こえていた。

「そんな夢があるんだ。親御さんの園芸店を継ぐの?」

「いや。あそこは姉夫婦が継ぐんだろ」

 鳥飼の口調は、この時だけが少し荒くなった。「一から、自分で作るんだ。今のネット通販は、その第一歩だ」

「観葉植物のレンタルも、な」

「そうだね。…ああ、三階の望月(モチヅキ)さんの所、そろそろ入れ替えだ」

「このビルの共用スペースにも、安く置いてくれて、ありがたいよ。少しでも緑があるって、なんだか気持ちがいいものだよ」

「史ちゃんは、そういうの分かってくれるから、嬉しいよ」

 鳥飼が立ち上がった。そして、史の方を見て言った。「史ちゃんには特別に、いいものを見せてあげよう」



 こっちだよ、と、鳥飼が史を促し、ふたりはベランダへ出た。

10メートル弱の幅、2メートル程の奥行きに、僅かな通路部分を残して、室内とはまた違った種類の植物がバランスよく置かれている。

 ベランダの端には、彼らの腰高くらいの高さにフェンスが立ち、正面の方向には駐車場、その先には隣の3階建てのマンションが見える。左方向は、バスの通る県道だ。

「この店の名前、『yuta’s balcony』っていうでしょ」

 先を歩いてゆく鳥飼の声を聞きつつ、史は、植木鉢を蹴らないように足元の白いタイル状のマットの上をそっと歩く。

「ユタ、は俺の名前『(ユタカ)』からだけど、その後はどうしてバルコニーってつくと思う?」

 鳥飼の足取りは真っ直ぐでかつ軽い。

「ああ、このベランダのこと?」

 史が答える。

「史ちゃん、『ベランダ』と『バルコニー』の違い、知らないの?」

「うん」

「何だよ。話にならないな」

 鳥飼が立ち止まったので、史も足を止めた。突き当りまで来ていたのだ。

「『ベランダ』は屋根があるもので、『バルコニー』は屋根のないものだ」

 言い終えると同時に、不意に鳥飼が振り向き、史の顔のすぐ前で手を叩いた。



 史は驚いて一瞬目を瞑った。

 そして目を開けた。

 こちらを向いた鳥飼がいる。

 そして二人の周りには、視界いっぱいの植物。

 右も左も、すぐそばにあるのも遠くに見えるものも、木や草、花ばかりだ。そして遠くの木々はどれだけ離れているのか、見当もつかない。

「何で? 広い!」

 思わず史は叫んだ。

 その声は、広大な空間に吸い込まれてゆき、どこまで行っても反響することはないように感じられた。

「月並みな感想だな」

 鳥飼がぼそりと呟いた。

「フェンスは? 壁は? っていうか」

 史は頭上を見上げた。

「屋根がない!」

「そう。だからここは『バルコニー』」

 柔らかな風が吹いた。

 住宅街を抜ける風とは違った、葉や花の薫りをたっぷりと含む風だ。

「いい風でしょ?」

 鳥飼が自慢げに訊いた。

 頭上には、三階のベランダの床の裏側ではなく、はるか遠くに淡い淡い青色の空が見える。

 空と彼らふたりの間を、見たこともないような真っ白い雲が、ゆったりと流れていた。

 史は振り向いてみた。入って来たガラス戸も、窓も、その向こうの部屋すらなくなっていて、ただひたすら、木や草が風に揺れる景色があるばかりだった。

「あ、ちゃんと帰れるから。そこは安心して」

 史の様子を察した鳥飼が、言った。

「これ、どこまで広がっているんだ?」

 史が訊ねた。

「ずっと」

「ずっと、って?」

「本当に、ずーっと」

「見てきていい?」

「もちろん」

 鳥飼の言葉と同時に、史は鳥飼の横を抜け、歩き出した。だが景色が広すぎて進んでいる気がしないのでだんだんと早足になり、やがて走り出していた。

 鳥飼はそれを見送っていた。自然に頬が緩んでいた。

 史が一度振り向くと、鳥飼は笑って手を振った。それからは後ろを見ることなく、目の前の変わってゆく景色だけを見ながら進んでいった。

足元にはいつの間にか芝の通路ができていて、その脇には煉瓦の低い壁が現れ、それが先の方へ、見えなくなるまで繋がっていた。

 息が切れてきたので、史は走るのをやめ、歩いて進んだ。

 通路のまわりは、はじめは花畑だった。白い細かい泡を集めたような花、オレンジ色の五弁の花、ピンク色の…コスモスなら史も知っている。それらが通路の両側を、地平線までの地面いっぱいに覆っていた。

 進むうちに、花畑が終わり、木材で出来た柵を挟んで、実をつけた果樹が何種類も並ぶようになった。 林檎やグレープフルーツやブルーベリー。史が見たこともないような果実も多かった。みんな大きな実をつけ、それらは陽の光を浴びて艶々と輝いていた。ブドウ棚に差しかかると、陽光は遮られたが紫色の実は宝石のようにきらきらしていた。

 いつの間にか、果樹園は終わって苔むした暗い森に入り込んでいた。空は背の高い木々の枝に隠され、湿り気のある空気が体をひんやりとさせる。土の薫りが強く感じられた。

その先は清々しい風の吹く竹林だった。強い風が吹くと涼気を帯びた音を立てて枝葉が揺れた。

 そのうちにはハエトリソウの茂みまで見つけた。羽虫を咥えた葉が目に留まった。

 ずいぶんと長く歩いているが、史は、全く疲れたり飽きたりすることはなかった。

 そうして、どのくらい進んだか史にも分からないが、やがて芝の通路の行き止まりが見えてきた。

 行き止まりの場所は、『バルコニー』の終わりでもあるようだった。

 芝のないその先は、急な崖になっていた。

 史は崖の下を覗き込んでみた。が、その底は暗闇の先であるらしく、全く見えない。ただ冷たく強い風が吹き付けてくるばかりだった。

 そして、崖の向こうには、また、緑に覆われた世界が続いていた。

 更に先には、見覚えのある山が見える。

 その稜線は、いつも、子兎ビルヂングから住宅街の向こうに見ているそれと、同じだと気が付いた。

 史の背後から、がたがたと、規則正しい機械のような音が聞こえてきた。

 振り向くと、それは、骨組みとタイヤとシートと僅かな機械部分で出来た簡素な電動カートで、運転しているのは鳥飼だった。カートはゆっくりと史のそばまで来て、止まった。

「すごいね史ちゃん。短い時間だったのにここまで来ちゃうなんて」

 鳥飼は言いながら、笑顔だ。

「ここが『バルコニー』の終わりなのか?」

「そう。フェンスないから気を付けてね」

「見りゃ分かる」

 史はもう一度崖の下を見て、それから、鳥飼の方に向き直った。「カートがあるなら言ってくれよ。ずるいぞ」

「俺はこの足だから。自分には甘いのさ」

 笑いながら、鳥飼は続けた。「そろそろ帰ろう。帰りは史ちゃんも特別に乗せてやるよ。…あ!」

 鳥飼が急に大声を上げた。「やべえ。立花さんだ」

「え。どこに」

 史は辺りを見回した。

「ここじゃない、『ベランダ』の方」

 慌てた様子で、鳥飼は早口になっている。カートを降りると、史の目の前に来た。

 そして、両手を史の顔の前に持って来た。

「ドライブはまた今度な!」

 パン、と、鳥飼の手が鳴った。



 反射的に閉じた目を開けると、見慣れたフェンスの下で、制服姿の立花が手を振っていた。

 史はそれに応えて軽く手を振ると、隣の鳥飼に目を遣った。

 彼は、少しばつの悪そうな、或いは残念がっているのか、読みにくい表情で、

「今のは内緒で」

 小声で言った。

「あれは一体何だったんだ?」

「俺のバルコニーだよ?」

「いや、…でも」

 二人が、ガラス戸から部屋に戻ると、すぐに呼び鈴が鳴り、それに答える間もなく、立花が勝手に部屋へ入って来た。

「いらっしゃい」

 そう言う鳥飼の口調も表情も、すっかり平時のものに戻っていた。彼は先刻座っていた椅子に再び腰を下ろした。史も、わけが分からないままそれに倣う。

 立花は史と鳥飼を交互に見ると、鳥飼の方に進んできた。

「鳥飼さん、今、何してたの?」

 立花が訊きながら、鳥飼の前で止まった。両腕を組んで、睨むように鳥飼を見下ろしている。

「ベランダで、史ちゃんに、植物の話をしていたんだよ?」

 にこやかに鳥飼が答えた。

 立花はベランダを一瞥し、また鳥飼を見た。

「嘘だ」

「本当だよ。ね、史ちゃん」

 鳥飼の言葉に、史は、つとめて冷静に頷いた。

 立花は、それでも訝しげに二人を交互に見、もう一度訊いた。「本当は、何していたの?」

「本当だって」

 今度は史が言った。「ベランダの植物をみせてもらっていたんだよ」

「ほらね」

 鳥飼がまた笑顔になった。

「…そう。ふたりしてとぼける気…」

「立花さん、せっかく来たんだからこれ飲みなよ」

 鳥飼が、立花に手つかずの缶コーヒーを差し出した。

 立花は黙って鳥飼に近付くと、コーヒーを受け取った。そして鳥飼だけに聞こえるように小声で訊いた。

「歪みが起きているんですか?」

「違うよ。立花さんや史ちゃんとは関係ないやつ」

 鳥飼も小声で言った。

「やっぱり何かあるんだ。『管理局』に届けましたか?」

「さあ、どうだったかな」

「それより、史ちゃんに余計なこと言っていないでしょうね?」

「言わないよ」

「どうだか」

 史が立花に訊いた。「今日、平日だよね? 帰り早いね」

 壁の時計は、正午少し前を指している。この部屋にぴったりの、針が緑の葉の形をしている時計だ。

「うん。今日からあさってまでテストなんだ」

 立花の口調が少し柔らかくなった。

「学生さんも大変だなあ」

「ねえねえ。立花さんも『鉢植えのオーナー制度』に参加しない?」

 鳥飼が口を挟んだ。

「何それ。…やんない」

 そっけなく立花は答えると、缶のタブに指を掛け、素早くかつ力強く開封した。その勢いのままコーヒーを一気に飲み干し、缶を傍のテーブルの隅に置いた。

 缶はそのとき軽い音を立て、空であることを証明した。

「ごちそうさまでした」

 彼女は挨拶まできりりとした態度だ。

 男ふたりは、その様子をただ見ているばかりだった。

 それから、少しおいて、立花が付け加えた。

「鳥飼さん。…あなたもそうだけれど、史ちゃんにもあまり負担になるようなことさせないで下さい」

そして立花は帰って行った。

 立花が立っていた、今は誰もいない空間に目を遣ったまま、鳥飼が言った。

「立花ちゃんったら、かっこいい!」

 呼び方が史の真似になっていた。

 史も言った。「俺の知っている中で、一番男前な人物なんじゃないかと思う時がある」

「それ分かるわー」

「しかし、全く信じてもらえなかったな。まあ嘘だったわけだけれど」

「俺ら信用ないねえ」

 からりと鳥飼が笑って言った。

「あれ? それ俺も入ってる?」

「立花ちゃんには見えていないはずだったのにな。心配までされちゃったよ。うっかり『帰りはカートに乗せるつもりだった』って言いそうになったもん」

「立花ちゃんは知っているのか? その、『バルコニー』の事」

 史が訊いた。

 少し考え込みながら、鳥飼は答えた。「『基地局』には言っていないし、立花ちゃんも知らないはずだよ。でもあの子のことだから、言われなくても気付いたかもしれないな」

「基地局?」

 史が訊ねた。

「あ、ああ。このビルの管理会社のこと。俺勝手にそう呼んでるの」

 慌てて鳥飼が答えた。

 その時、ドアが再び勢いよく開いた。

 不意だったので史も鳥飼もとても驚いたが、顔を出した立花も慌てた様子だ。立花が言った。

「今、1(した)で大きな音がしたんだけど。ドン、って」

 史と鳥飼は顔を見合わせた。そして史が言った。

「俺らは聞こえなかったけど?」

「うちの真下だったからかな。史ちゃん、一緒に来て」

 


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