第1章 技師の仕事部屋
そのバスは、いつものように大きく揺れながら、停留所をいくつも飛ばしつつ疾走を続けている。
空は晴れ、空気は湿気をたくさん含み、気温は高かった。今日から10月だというのに、まるで8月の半ば頃のように感じられる。ただ、遠く西方に、傾いた太陽とともに僅かにだけ出ている雲は、秋らしい羊雲だった。
バスの、進行方向に向かって左側、前から3列目のシートに座った制服姿の女子高生は、振動を避けるように車体に体を預け、窓の外に視線を向けている。
駅から乗ったこのバスに、15分くらいは揺られているだろうか。地方都市の、住宅と店舗と田畑の混じったおなじみの風景を見つつ、もうすぐ目的の場所、彼女の仕事場に到着する。
そのまま彼女は、欠伸をひとつした。
がたん。
荒れた路面でひどく弾んだバスの中、彼女の額の左側が窓にぶつかった。その弾みで分厚い黒縁のメガネが傾いた。
「痛いっ」
思わず声が出た。
バスは構わず、弾みながら前へ進んでゆく。
そしてコンビニそばの停留所を通り過ぎた。
右手でメガネを直し、彼女はその手で降車ボタンを押した。ブザーが大きな音を立て、緑色のランプが点いた。
その瞬間にバスは急停車した。目前の信号が赤に変わっている。
後ろの方で誰かの荷物が落ちる音がした。
彼女は外を見ていた。
見慣れた人影を見つけていた。明るい茶色の髪、ひょろりと細い体躯をしたその男は、黄色い自転車に跨ったまま、横断歩道をバスと同じ方向に渡るべく、歩道の隅に佇んでいる。
「史ちゃんだ」
彼女は嬉しくなってどうにか気付いてもらおうと考えたが、向こうはこちらを全く見ようとしていない。窓を開けて声を掛けるにも、少し遠いし恥ずかしい。
女子高生に後れを取ったアナウンスが、やたら甲高い声で流れてきた。
「次は~環1丁目~環1丁目。お降りの方は、お近くのボタンを押してください」
やがて信号が青になった。彼女には全く気付かないまま、路上の男は自転車をのんびり漕ぎながら横断歩道を渡り始めた。
バスも揺れながら走り出した。
自転車の男をあっさりと追い抜き、しばし走ると、バスは次の停留所で止まった。
前方のドアが開く。
その時には、女子高生はもうドアのそばにいて、綴りの中からちぎり取った回数券、1回分を整理券とともに投入口に放ち、軽快なリズムでタラップを降りていった。
錆びたバス停の横で、短い髪の後ろを撫で、厚い生地でできた紺色のスカートの皺を軽く払った。この陽気なのに今日から冬服だ。さらに眼鏡の位置を改めて整え、肩のバッグも掛け直した。
それから彼女は、来た道の方を向き、見慣れた自転車が近づいてくるのを待った。
自転車はゆっくりと走って来た。
乗った人の顔が分かるほどに近付いたところで、彼女は手を振った。
向こうも手を振り返してきた。
「史ちゃん」
彼女が声をあげた。「おかえりなさい」
茶髪の男は、彼女のそばまで来ると自転車を止め、降りた。
そして軽い調子で笑いかけた。
「立花ちゃんこそ。学校ご苦労さん」
「今日も暑いね。もう10月だってのに」
「全くだ。こんなときに出掛ける身にもなれっていうんだ」
「無理して出掛けることないよ」
「しかし外の世界が俺を呼んでいるのだ」
「どこに出掛けていたの?」
「秘密」
「ゲーセンだ」
立花が、史の自転車の前かごを覗き込んだ。大きな黒猫のぬいぐるみが、ちゃんと頭を上に向けて前を向き、前足をかごの縁に掛け、納まっている。まるで自らの意志でかごに乗っているかのようだった。
首に付けられた白いリボンに、ゲームセンターのタグが付いていた。でもそれを見つける前から立花には分かっていた。
「バレバレか。これ今日のおみやげ」
「かわいい!」
彼女はぬいぐるみを抱き上げた。「いつもありがとう」
「貰ってもらえて、こっちも助かりますですよ」
ふたりは話しながら歩き出し、バス停の少し先に建つ、3階建ての小さなビルに向かった。
そこは小さな十字路の角地で、道沿いの南側と東側は1列ずつの駐車場があり、その奥に白い壁の建物がある。
1階の真ん中、共用の階段が付いているその上部に、古くて読みにくくなった看板がある。そこには『タマキビルヂング』と、蔓草のような流線型の、レトロティックな書体で書かれていた。1階には階段を挟んで2軒の店舗がある。2階は2軒の貸事務所、3階は事務所が1軒と管理人室。
男、史は、階段そばの駐輪場に自転車を放り込むようにして収めた。
女子高生、立花の方は先に入口をくぐった。ぬいぐるみをまるで本物の猫のように片手で抱き、反対の手で階段の手前の壁に取り付けられた集合ポストの、『201』と書かれた扉を開け、中を覗いた。そして、
「あれ?」
思わず出た声とともに、扉を見返し、自分の部屋番号であることを確認して落ち着いてもう一度中を覗き込んだ。
空だった。
「どうした?」
史が追いついて来て訊ねた。
「今日、手紙が来るはずなんだけど、来てないんだ」
立花が問われるまま言った。
「? 遅れているんじゃないの?」
「ううん、今日、絶対来るはずなのに」
立花が訊く。「今日、10月1日だよね?」
「そうだね」
史が頷いた。
「おかしいな…」
「重要なものなの?」
「うん。…今日絶対に来るはずなんだ」
「これから郵便屋が来るのかもしれないよ」
「そうだね」
史の言葉に頷き、立花は扉を思い切り押し込むようにして閉めた。集合ポスト全体が歪んでいるため、力とコツが必要なのだった。
「あ、忘れてた。そういえば史ちゃんに頼みがあったんだっけ」
彼女は振り向き、少し言いにくそうに切り出した。「昨日は部屋にカナヘビがいたんだ。また捕ってもらえない?」
「立花ちゃんの頼みじゃあ、やるしかないね」
「ありがとう」
「っていうか、俺ここの管理人なんだから、何でも言ってよ」
史が少し胸を張って、言う。
「いや…こんなことで呼んだら悪いかもって思って」
立花が先に階段を上り始め、史がそれに続いた。
「昨日出たなら、昨日言ってくれればよかったのに」
「見つけたのが帰るときで…バスに間に合わなくなっちゃいそうだったんだ、夜は1時間に1本しかバスないし。それに、カナヘビならそんなに嫌いじゃないから、今日でもいいやと思ったんだよね。とはいっても自分じゃ捕れないんだけど…」
「一昨日のゴキブリのときは大騒ぎだったのに」
史が笑ううち、ふたりは1階に着き、ふたつあるドアの右、東側の方の前に立った。立花がバッグのポケットに手を入れ、鍵を出した。
史は話し続けていた。「ここは1階が、どっちも食べ物屋でしょ? 気を付けているとは思うんだけど…」
「うん。わかってる」
立花のキーホルダーにぶら下がった、フェルトのパンダが笑っている。その隣の鍵でドアは開いた。
「それはいいんだ。私『レオ』のブラウニーも、ユキさんのカレーも好きだし」
立花が答えた。「だから、その、あいつらが出現なさったときに、史ちゃんに捕まえてもらえればいいだけ」
「いいよ。いつでも呼んでよ。ゲームのセーブができ次第、行くから」
「なんかそれ、あまり早く来てくれる気がしないなあ」
立花が、入ってすぐの右の壁にあるスイッチを押すと、部屋の灯りがついた。ビルの中らしく、細長い蛍光灯が天井に並んでいる。
「あ、向こうで何かが動いた」
さっそく、史が目の前の壁面を指差しながら、歩み寄った。
立花も、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、おそるおそる史の後をついてゆく。
殺風景な事務所風の室内だった。入って右手に事務机が4つ、島になっていて、PCが何台か無秩序に置かれている。椅子は1つ。その周囲はクッションやぬいぐるみに占拠されていた。近くにあるラックの中と上にも、大小幾つものぬいぐるみが飾られている。
左手には、水色の絨毯が敷かれている一角があり、そこには体を預けられるくらい大きなオレンジ色のクッションがひとつある。それ以外には家具の類はない。他には窓と、給湯室やトイレの入り口があるのみだ。
「あれかな」
史が、肩に掛けていたトートバッグを部屋の隅に置き、くたびれたスニーカーを脱いで絨毯の上を進み、窓とカーテンの間を覗き込んだ。
「いたいた」
彼は立花の方を向き、声を上げた。そしてまたカナヘビに向き直る。
立花はぬいぐるみを抱いたままそれを目で追いつつ、少しほっとした。
そのとき。
カーテンの下から、体長10センチくらいのカナヘビが現れ、素早く壁を横に這いだした。
「史ちゃん、窓の下!」
立花が叫ぶ。
「わかってる」
史もそれを見ていた。立花よりもかなり冷静に彼はカナヘビを追い、手を出すタイミングを計った。
カナヘビが一瞬止まった。史が右手でカナヘビを覆った。うまく捕まえたかに見えた。だがカナヘビはするりと史の指の下から抜け出し、また壁を這い出した。
史と、その後ろの立花とは、再びカナヘビを追った。
「こいつ素早いな」
独り言のように史は小声を上げた。視線はカナヘビを追ったままだ。なんだかカナヘビを追うのを楽しんでいるふうに、立花には見えた。
カナヘビがまたカーテンに隠れた。
史は思い切りカーテンをめくった。が、一瞬動きが止まった。
カーテンが元に戻る。
「…どうしたの?」
後ろにいた立花が訊ねた。
「今カナヘビが」
言いかけ、史は息をついた。「いや、何でもない」
「何? なに?」
立花からは今、カナヘビは見えない。なおも訊いたが、史は何でもないよとまた言った。
そして改めて、カーテンをめくった。
しかしまた史の動きが止まる。
「だから、どうしたの? 史ちゃん?」
立花が訊くと、史は立花にも前が見えるように自分の体を避けた。そして言った。
「なあ、カナヘビ、大きくなってないか?」
「そ、そう?」
立花は言った。「まさか」
確かに、カナヘビは20センチくらい、史の片手では覆いきれない大きさになっていた。
じっとしているカナヘビに、史がまた手を伸ばした。今度はカナヘビの腹部をつまみ上げようとした。カナヘビはまたぱっと逃げた。
動いているときは小さく見えた。最初の10センチどころか、5センチにも満たないくらいに。だが止まると、急に大きくなったように見えるのだ。
「やっぱり大きくなってる! というか、大きさが変わっている!」
史が大声を上げた。
「そうかな…」
逆に、立花は落ち着いていた。というより、動揺を隠していた。
「そうだろ? だって今、やっぱり20センチはあるぜ。でも動いていた時はずっと小さく見えた」
史の口調は、明らかに困惑したときのものだ。「どういうことだよ」
「と、とにかく捕まえてもらえないかな」
立花が言った。カナヘビに気を取られてぬいぐるみを抱く力が強くなりすぎていることに気付かないようだ、ぬいぐるみが頭を垂れてくたっとしている。
「そうだな」
史が立花の言葉に頷いた。
「ね、捕まえにくかったら、これで包んだら」
立花が、ラックからタオルを持って来て、史に差し出した。
それを受け取り、史は再び壁面に向かう。タオルを大きく広げ、カナヘビの動きが止まった瞬間を狙う。
その時が来た。史は素早い動きでタオルをカナヘビに被せ、押さえた。
今度こそ、カナヘビに逃げられなかった。
「やった」
史は声を上げると、そっとタオルでカナヘビを包むように、壁から引き剥がした。そしてその感触だが、史が覚悟したよりもずいぶん軽く、柔らかい。
端を少し強く押さえてみた。何かが入っている感触がない。少しずつ内側にずらしつつ押さえてみた。中央近くでやっとカナヘビらしき感触が現れた。
「外に出そうよ」
立花が促した。「また逃げられちゃう前に」
「そうだな」
それに従い、史はタオルを包み直してドアへ向かう。スニーカーの踵を踏んで履き、先に外に出てドアを押さえた立花の後から、出た。
立花がドアを閉める。それから史が、通路の床の近くでタオルを振った。
10センチ程の小さなカナヘビが飛び出て、落ちた場所にうずくまった。
史が軽くつつくと、カナヘビはぱっと這い出した。少し這っては止まり、また這っては止まり、それを繰り返しながら、カナヘビは通路の窓から出て行った。外壁を伝って下りるのだろう。
ふたりは、というより史は、その様子をずっと見ていた。しかし史の期待に反して、カナヘビの大きさは全く変わることはなかった。
「立花ちゃんは見てない? あのカナヘビ、大きさが変わったよね?」
そう言う史に、立花は首を振った。
「私よく見てなかったんだ。でもきっと史ちゃんの気のせいだよ。だってそんな急に、生き物の大きさが変わったりするわけないじゃん」
立花が早口で、両方の耳にかかった短い髪を、せわしく耳の後ろに掛けた。
本当は、立花もカナヘビの大きさが変わったのを見ていた。
そうなった理由も知っている。
それでも彼女には史の前では、それを認めるわけにはいかなかった。本当は嘘を吐くのは苦手だけれど、精一杯知らない振りをしていた。
それで、話題を変えようと言った。「ともかくありがとうね、史ちゃん」
ふたりは室内に戻った。
「ねえ」
史が不意に訊ねた。「今みたいな会話、前にもしなかったっけ?」
「…今みたいな、って?」
立花は、その足で窓に向かい、手を掛けて止まった。が、動揺しているのががばれる気がして、慌てて動き出す。
背後で史が訊ねた。
「立花ちゃん。窓開けるの?」
「え。あ、暑いから…」
話題が変わってほっとする。
「でも」
史は何か言いたそうだ。
「うん。分かってるよ、ここ網戸ないもんね…虫が入るっていうんでしょ」
史に背をむけたまま、立花は言った。
「エアコンかけよう」
史が、壁のホルダーに収まったリモコンを手にし、ボタンを押した。
か弱い音がして、エアコンが動き始めた。
「電池まだ替えてなかったのか」
史がリモコンの表示を見ながら言った。電池交換の警告が表示されている。「それで使いたくなかったの?」
「そういうわけじゃないよ。…もう、夜の風は涼しいかな、って」
「まだ夜じゃないが」
「…電池、明日買ってきます」
「単三、二本な」
一応そう言った後、史は訊ねた。
「で、さ。…さっきみたいに、俺が何か言ったことを、立花ちゃんがそんなことありえないとかなんとか言ったの…前にもなかったっけ?」
「そう? 憶えてないな」
立花は出来る限りさらりと言った。つもりだ。
「そうか」
史は頷いた。
誤魔化し切れたろうか。立花は少しほっとした。
史は続けて訊ねた。「最近、仕事の方はどうなの? 遅くまでここにいるみたいだけれど」
「うん。順調だよ」
立花は答えた。「最近はホームページ作成より、携帯向けサイト作成の方が多いんだ。占いの方はあまりないなあ」
「本当は、占いサイトの方をメインにしたいんだっけ?」
「というか、そっちの広告収入だけで稼げればいいんだけど、うまくいかないね」
「ふうん。高校生のバイトの領域を超えてますな」
「皆がバイトでよくやるような接客業は、私には向かないもん」
「ああ、確かに向かなさそう」
「いいよ。自覚はしてる」
「いい意味で言っているんだよ。立花ちゃんは、自営とか社長とかが向いていると思うな」
「そう? いいこと言うね、お兄さん」
嬉しくなった立花が、笑顔になる。
「今度、史ちゃんのことも占ってあげるよ」
「俺はいいよ」
言ったあと、史は、かねてから気になっていた、この部屋に唯一掲げられた絵のことを思い出した。
「そういえば、あの絵」
史が指差した先には、葉書の半分くらいの、黒い額に収められた絵が掛かっている。「あれ、タロットカードの絵なんだろ? どんな意味なの」
「ああ、あれ…。企業秘密」
今日は答えられないことが多い。そう思いながら、立花は言った。
「何それ」
「史ちゃんのことを占ったときに、あれが出たら教えるよ」
「俺はいいって」
史は言いながら、自分のバッグを肩に掛けた。「じゃ、また何かあったら呼んでね」
言い残し、史は帰って行った。
「ま、『あれ』が史ちゃんに出ることはないかな…」
呟きながら、立花は絵を見、そして近くの事務用椅子に腰を下ろした。猫のぬいぐるみは抱いたままだ。
その時、大きな音を立ててドアが開いた。
帰ったはずの史が、勢いよく部屋に飛び込んできた。立花の方には見向きもせずに窓を開け、外を覗く。
「どうしたの!?」
立花も立ち上がった。
史はそれには答えず、というより答える余裕もないのだろうか。窓の外を見たままだ。
立花も、その後ろから外を覗き見た。
日は暮れかかっていた。
窓は道路に面している。古くからある県道で、片側一車線ずつだが、車の行き来は多い。
道路の向こうには住宅地が広がる。
「どうしたの?」
立花は再び訊いた。
「いや」
史が振り向いた。「何でもない。…車くらいに大きなカナヘビを見た気がしたんだけど…ありえないよな」
「車と見間違えたんじゃない?」
立花がそっと言った。
「たぶんね」
史は窓を閉め、鍵を掛けた。「驚かせたよな。悪い」
「いいよ。史ちゃんは面白いね」
「変って言いたいんだろ」
「言ってないじゃん」
立花はまた、耳にかかった髪を後ろに流した。そして、出入口に向かう史に笑顔で言った。
「バイバイ」
史もいつもの笑顔を向けて、帰って行った。
それを見送り、立花はひとりで息をついた。立花の体格にはやや大きすぎる事務用椅子は、背もたれに寄りかかると、短く軋んだ音がした。
「史ちゃんは全然変じゃないよ」
そう呟きながら肘掛けに両の腕を乗せると、視線は自然に天井に向いた。ごくシンプルな蛍光灯が灯る上には、古びた薄灰色の壁紙が貼られている。
机上の5台のPCからは、低い駆動音が絶えず聞こえていた。
立花が史と何か話をしようにも、立花には話してはいけないことばかりであるように思えた。カナヘビのことも。絵のことも。本当は、仕事のことも。そう、彼女の本当の仕事はサイト作成や占い師では、ない。
彼女の役目は『技師』と呼ばれる。『管理人』とともに、このビルに欠かせない存在である。
「『技師は、管理人とはよい関係を築く努力をしなければならない』…か」
立花が今の仕事に就く際、研修で言われた言葉だ。でも、誤魔化したり嘘をついたりしながら仲良くしなさい、という意味とまでは思っていなかった。
特に、彼女にとって、史は普通に仲良くしたいと思う相手だった。『管理人』と『技師』という関係でなければ何でも話せるのに、と悲しくなる。
「でもなあ…技師にならなかったら会うこともなかったんだよね…」
思わず呟いた。
『技師』。この仕事の一番大きな役割が、ちょうど今日から始まる。
立花は気を取り直し、給湯室の冷蔵庫に買い置きしていた紙パックのミルクティーを出して、また事務用椅子に腰掛けた。
近くのモニターのスイッチを入れ、ミルクティーを開封し、数口飲んだ。PCが何かの処理をしているようで、彼女は表示されるものを目で追い、更に前まで戻り、確認作業を始めた。
それは30分程で終わった。
立花は異常がないことにほっとしつつ、残りのミルクティーを味わうように飲んだ。
外は暗くなっていた。
「もう夜じゃん!」
はっとした立花がひとり叫んだ。「本当に、今から郵便屋さん来るのかな」
立花の仕事の一番大きな役割が、ちょうど今日から…
だがそのためには、今日、封書が1通、彼女の手元に届かなくてはならなかった。
遅れたらどうなるかは、遅れたことがないので分からない。
続く