一話 始まりは異世界にて
目を開けると、見慣れない天井が沙綾の目に映った。
寝ぼけているのかと目をこする彼女の名前は神村沙綾。平成の世に生まれ育った純日本人である。
ちょっとした家庭の事情で旅行などでお泊りした経験が修学旅行を除いて全くなく、夜遊びをする性格でもないため、朝目を覚ましたときに視界に入るのは、いつも見慣れた自室の白い天井なのだが……
「……木?」
自室とも高校の保健室とも違うその天井は、木目の模様があり部屋の天井としてはやけに狭くて低い。立ちあがれば身長がそれほど高くはない自分でも容易に手が届きそうだと、はっきりしない頭で彼女はそう思った。
寝返りを打つように体を90度回転させると、頭3つ分先に白い布の壁があった。
指で押してみると手ごたえはあるが奥のほうへ逃げたため、これは壁ではなく布の束だと判明した。そして布の向こう側にも空間があるとわかり、布を垂れ下げている部分を確認すると、彼女は自分がどこに寝ていたのか理解した。
「これ、天蓋ベッド?」
実物は見たことがなくても、中世ヨーロッパを題材とした映画では何度か見たことがある。布は遮光のためのカーテンであり、きっと外側にカーテンを開くための紐がついているのだろう。
しかし彼女の自宅にベッドは無く、畳みに布団を敷いて寝ていた。保健室には簡易ベッドがあるが、マットレスは今自分が横になっているものように柔らかくは無く、枕も硬い。
友人で天蓋ベッドで寝ている人がいるとは全く聞いたことが無い上、剥き出しの腕に触れるシーツは滑らかで、まるで絹で作られたような質感だったために、まず一般人が寝てもいい場所ではないことがわかる。
ふと自分の着ている物に目をやると、いつもの寝巻でなく、胸元や肩口に綺麗な刺繍が施された着心地の良い、ワンピース型の白い寝間着を身に着けていた。
何が何だかわからないまま身を起こした沙綾は、とにかく状況把握をと広いベッドから降り、重たいカーテンを押し退けて外に出る。
「これは……」
天蓋ベッドと素足が踏んだモフモフとした絨毯から予想がついていたが、カーテンの向こう側は純洋風の部屋であった。
その内装に呆然としながら沙綾は全体を見回す。
その部屋は、テレビや写真でしか見たことがないような西洋の宮殿を思い起こさせるほど豪奢な造りであった。
明度を落とした白い壁紙や天井の模様、シャンデリアなどの装飾や鏡台や椅子など置かれている調度品一つ一つに、一見してわかるほどの丁寧で緻密な意匠が施されている。
その見事さに呆気にとられていると、ふと声がかけられた。
「よくお休みになられましたか?」
女性の声だ。女声としては低めだが、どこか気持ちが落ち着く深みのあるそれに、沙綾はハッと振り返った。
目を向けた先には金色の模様が走る象牙色の扉があり、その隣でいつからいたのか一人の女性が微笑んでいた。
黄味のあるアッシュブラウンの髪に、不思議な色合いの金緑の瞳。彫りが深く眉の低い西洋人の顔の特徴を完璧におさえた彼女を見て、沙綾は自分のおかれた状況を思い出した。
「ここ……まさか」
黒のロングドレスに白のエプロンというヴィクトリアンメイドの格好をした彼女は、ゆっくりと沙綾に近づき深く一礼した。
「はい。ここはイェーティア王国中枢の、王族の方々が公務をなされる王宮でございます。貴女様のいらした地球とは全く異なる世界になります。サーヤ・カミムラ様」
彼女は沙綾が思ったことを表情から察してそれを肯定し、さらに念を押すように答えた。
「……っ」
沙綾はその言葉に絶句するしかなかった。
日本に住んでいる限り自分とは縁が無さそうな豪勢な部屋と17年生きてきた中で全く聞いたことのない国名、地球ではなく違う世界にいるのだと西洋人顔の見ず知らずの者に言われたこと。それらは沙綾に早く現実を突き付け、なによりも沙綾に向けられた“勇者”という言葉は、それまでに沙綾の身に起こった出来事を無理にでも思い出させるものだった。
無意識に強くつねった腕に痛みが走る。
(夢じゃない……!)
嘘であって欲しい出来事が、これが現実であることを認めろと迫るように、次々と沙綾の頭の中を駆け巡った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それはつい昨日のことだった。
突然変わった風景に沙綾は固まるしかできなかった。
季節は秋。金木犀の残り香が名残惜しく漂う夕暮れの道を、沙綾は友人と二人並んで歩いていただけだった。
放課後の寄り道の後に、自宅へと踵を返した瞬間、いったいどこに潜んでいたのかと問い詰めたくなるほど目立つ、白い服の集団が突如として現れたのだ。
突然のことに絶句し目を丸くした二人を見て、彼らは沸き立つようにざわめき、意味が全く理解できない言葉を口々に言った。二人に分かったのは、彼らが自分達を見て何故か歓喜しているらしいことだけだった。
誰もが白いフードを目深に被り、同じ服装をして二人を囲むように円を描いて立っていることに、えもいえぬ恐怖を抱いた沙綾が一歩後ろに下がると、それと同時に白い集団の中から一人、紫のマントを羽織った老人が進み出た。
石灰をまぶしたように斑な色の髪に、これまで生きた年月を丹念に刻み込んような深い皺。他の者たちとは明らかに違い、身にまとう空気が張り詰めていた。マントに付けられた装飾はシンプルであるが見事なものであり、立場がこの場にいる誰よりも上と思われる彼が白フード達より前に出ると、ざわめきは一瞬にして消えた。
老人はある程度まで二人の方へ進むと、手にしていたけして実用的とは思えないほど大きな杖を、アスファルトではない床に置いて膝まづいた。それに倣い、周囲の白フード達も皆膝をついて、二人に向けて頭を垂れた。
老人は一人顔を上げると、見掛けと同じように歳を感じさせる嗄れた、しかし力強い声で二人に言った。
――勇者様、ようこそお越しくださいました。イェーティア国国民一同、心より勇者様のご来国を歓迎いたします――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「発生した脅威を排除するために呼び出された力ある者、勇者。……それが私達」
自嘲気味に呟く沙綾に、メイドはパチリと瞬きをする。
「特別な力を持つ異世界の人間? そんな人、私達の世界にはいなかった。いても、超能力者くらい」
服をくしゃりと握り、俯く。
「私達は普通の人間よ。ごく普通の平和な世界に生まれた。なのに、なんで……」
ぐるぐると回る思考に言葉を詰まらせる沙綾。その背中をメイドは優しくさする。
「貴女様方は、間違いなく世界を救うに十分な、勇者の素質をお持ちでいらっしゃいます。そのことは、こちらの世界の神もお認めになられたことでございます」
(そういうことを言っているんじゃない)
元から重い気分がさらに重くなる。
彼女はこちらの世界の人間。物事の通り、考え方は現代日本とは違う。置かれている立場も違うから、沙綾の気持ちを汲むことはどうしたって不可能だ。
(あなたも、平和な世界からいきなり戦争の前線に連れてこられて、「貴女は素晴らしい力を持っている。我が国の勝利のためにその力を最前線で使ってくれ」と言われて、殺意を向けてくる大量の敵や、簡単に自分を殺せる兵器の前に連れ出されてやっと、私の気持ちがわかるんでしょうね。)
沙綾はふつふつと黒い感情が自分の中に涌き出すのを感じた。今の彼女の立場は、説明もなにもなく使い方のわからない剣一本を渡され戦地に放り出されたといってもいいほどのものである。最前線でないだけ救いがあるかもしれないが、何の慰めにもならない。
沙綾はどうにもならないと嘆息をついた。
「……ところでもう一人の、和君はどこにいるの?」
下を向いていた顔を上げ、この世界に連れてこられたもう一人の地球人の居場所を聞く。
召喚までの概略と世界の簡単な情勢の説明を受けたときまでは、沙綾ともう一人は同じ場所にいた。その後、夜が更けてしまうからと説明は中断され、二人はこの国に滞在する間の私室として用意された居室に案内された。その時に、二人は別々の部屋に案内されたため、途中で別れたのだ。
男女の違いがあるとはいってもその配慮(?)は沙綾にとってはありがた迷惑であった。知らない場所で一人きりになるのはとても心細い。急激な状況変化と大量に情報を吸収して疲労した脳が休息を訴えていなければ、眠れなかっただろう。
「かず……カズト・サエキ様でございますか?」
使用言語の問題か、彼女は違和感のある発音で名を呼ぶ。
昨日の説明に盛り込まれていたが、どうやら召喚をする際、召喚陣には召喚された者が不便をしないよう“異世界の環境への適応”について最大限の処置が施されてしたらしい。その内の一つが同時翻訳である。
この世界で使用されているのは英語に似た別の言語であり、本来なら沙綾は彼女達の言っていることが理解できない。しかしその適応の処置のお陰で、この世界の言語が日本語として沙綾の中で処理されている。もちろん日本語として存在しない単語はそのまま伝えられるのだが、ここで生活するための非常に重要な生命線である。
「カズト様はサーヤ様の隣の居室に居られます。すでに起床なさっているご様子です」
「隣にいるの? 会いたいんだけど……」
この世界にいるただ一人、自分と同じ境遇におかれている友人に今すぐ会いたい、会って安心したい沙綾だが、メイドは困ったような顔をしてそれを遮る。
「お会いすることは可能なのですが、そのお姿では少々……」
姿と言われ、沙綾はもう一度自分の格好を見た。ベッドに入る前に、皺になるからと服を着替えていたために、こちらへ喚ばれたときに着ていた服は来ていない。
現在身に付けている服は完全に寝るときにのために作られたもので、普通の物より生地は薄く細身に作られている。レースなどの意匠が施されているが、端からどう見ても身体の線が丸わかりの格好である。
「……私の制服はどこ?」
部屋を見回すが、それらしき物はどこにも置いていない。そういえば、脱いだ時に近くにいた別のメイドが服を受け取っていたかと思い出す。
「サーヤ様のお召しになられていた服は汚れてしまっていましたので、まことに恐縮ですが、洗浄させていただきました。すぐにお持ちするよう伝えます」
「わかった。洗濯ありがとう」
「いえ、当然のことをしたまででございます。それでは私はこれで失礼いたします。他に何か私どもにお求めの物がございましたら、枕もとのベルを一度鳴らしてください」
メイドは、沙綾がベルの位置を確認すると、一歩下がって一礼した。
沙綾はそのまま扉へ向かい出て行くのかと思ったが、彼女はふと思い出したように懐を探り、何かを取り出した。
「お手を失礼します」
その一声と同時に沙綾の手を掬うように取り、取り出した物をそっと握らせた。
「こちらはそのままのほうがよろしいかと思いまして、勝手ながら回収しておりました」
沙綾が手を開きそれの正体に目を見開くのを見届けると、メイドは微笑みながら深く一礼する。
「申し遅れましたが、私はこの度サーヤ様付に命ぜられた者の内の一人でございます。シエラとお呼びください。サーヤ様がこの城に滞在なさる間、誠心誠意を込めてお仕え致します」
そうして、彼女は部屋を出ていった。
音を立てずに扉が閉まり、部屋は静寂に包まれた。動く者は沙綾以外には居なくなり、沙綾もまた動かない。
彼女は手に乗せられた物を穴が開くほど見つめていた。
色々な感情が含まれた顔でずっと見ていたが、部屋の外から足音が聞こえてくると、そっと手を閉じ強く握りしめる。
「ごめん……」
沙綾の掠れた呟きは、軽快なノックの音に掻き消された。




