雨降って……
陽気もだいぶ、初夏のそれを思わせるようになった頃の日曜の午後。
瀬里香と遼太郎は、祥太郎と共に瀬里香の車で────祥太郎は配達の途中なので、別の車であるが────美葉子の入院する病院へとやってきていた。店は当然営業中の時間ではあるが、美葉子自身のたっての願いでふたりは抜けてくることができたのだ。ちなみに祥太郎は用が済み次第また配達に戻ることになっている。
「ほんっとーっにごめんなさい。あたしがこんなことになっちゃったから、ふたりにはめいっぱい迷惑をかけちゃってるんですって? とくに瀬里香ちゃんなんて土日はヨロヨロしながら帰ってるって聞いたわ、ほんっとうにごめんなさい!!」
以前に比べて目に見えて大きくなってきたお腹を揺らし、美葉子が頭を下げる。本人は土下座せんばかりの勢いだったが、お腹が邪魔でうまくいかず、それどころかバランスを崩しかけているのを見て、瀬里香は慌ててそれを止める。
「そんなこといいんですよ、美葉子さんっ お願いですから、無茶な真似はしないでください~っ!!」
「そうだよ、義姉さんっ 見てるこっちのほうがハラハラしちまうよーっ」
遼太郎の顔色も蒼白だ。それでも謝罪をやめようとしない美葉子を何とかベッドに戻し、瀬里香と遼太郎はやっと安堵のため息をつく。
「悪いなあ、どうしてもふたりに自分の口から謝らないと気が済まないって言うもんだからさあ」
ばつが悪そうに笑いながら、祥太郎が告げる。美葉子の入院以来、心労もあって少し痩せたようだが、現在は何とか立ち直っているようだ。
「ホントそうよ。このひとったら、あたしの寝てる横で魂が抜けたような顔して呆けててさ。そんな顔してそばにいるくらいなら、とっとと働いてこいってハッパかけてやっとなんだから、世話が焼けるわ」
お腹のせいで動くのは相変わらず大変そうだが、顔色はかなり良くなっている。やはり入院していると容態が安定するのだろう。瀬里香はそっと胸を撫で下ろす。
「あ、そうだ。お前の好きなこれ買ってきたんだった」
ご機嫌取りのつもりか、祥太郎が着替えを入れてきた紙袋の中から、小さな包みを取り出して美葉子に手渡す。それを見た美葉子の表情が、先刻とは段違いに輝いた。
「きゃあああっ 『アリス』のチョコチップクッキーじゃないのーっ ちょうど今朝から食べたいと思ってたのよ、ショウちゃんありがとーっ!」
「ちょっとならお菓子も食べていいって先生に言われてるんだろ?」
「うん。これくらいなら大丈夫だけど、あんまり太ると出産の時に大変らしいのよね」
「あ、じゃあ俺飲み物買ってくるよ」
そう言って遼太郎が病室を出て行こうとするのに、祥太郎が続く。
「あ、俺も行くよ。妊婦が飲んでいい飲み物なんて、お前ろくにわかんないだろ?」
「そうだな、そうしてくれると助かる」
そんなことを話しながら二人が出て行くのを見送ってから、瀬里香はそっと美葉子に話しかける。
「さっすが祥太郎さん。美葉子さんのことよくわかってるんですね。長いおつきあいのなせるわざかな?」
そう言うと、美葉子は一瞬、驚いたような顔をして。
「…そう思う? でもね、あたしとショウちゃんって、出会ってまだ三年しか経ってないのよ?」
あまりに驚いてしまって、瀬里香は声一つ出せない。
「ふふ、驚いた? 大学の三年の時だったかな。昔からの女友達が、『彼氏の友達紹介するわよー』って言って連れてきたのが、ショウちゃんだったの。初めは『軽い人だなー』とか思ってたんだけど、同じ作家が好きだったり、一緒に映画観てる時に素直に泣いちゃうの見たりしてたら、何かもう『可愛いなあ』って。気付いたら、好きになっちゃってたの」
思い出すように遠いところを見るように話す美葉子は、ほんとうに幸せそうで。瀬里香は、まるで恋する少女を見ているような印象を受けた。
「だからね。恋愛の先輩からのアドバイス。好きになるのってね、時間なんか関係ないの。すべては感情のなせるわざなのよ。好きだと感じたら、もう突っ走っちゃえばいいの。理屈なんか、後からついてくるのよ」
「べ、別にあたしはいま好きなひとなんて…!」
慌てふためいたように言う瀬里香に、美葉子は何もかもお見通しだとでも言わんばかりに微笑んで。
「いいのいいの。ホントに好きなひとができた時の予備知識だとでも思っておいて」
ほんとうに。この人にはかなわないなあと瀬里香は思う。理由なんて瀬里香自身にもわからないけど、ほんとうに心からそう思ったのだ。
そこに、祥太郎と遼太郎が戻ってきたので、その話はそこでおしまいになった。
それから、皆と当たり障りのない話をいくらかしてから、瀬里香と遼太郎は店に戻ることにした。祥太郎は時間が迫っているということで、先に行ってしまったので、ふたりでてくてくと廊下を歩きながら出入り口へと向かう。そこまで来てから、ふたりはようやく大粒の雨が降り出していることに気が付いた。
「…うそ。今日降るって言ってた!?」
「そういえば、にわか雨が降るかもって言ってたような…」
「やだあ。傘、車の中にならあるのに、もー。しょうがないなあ、あたしちょっと走って車回して…」
瀬里香がそう言って走り出そうとした、まさにその瞬間。頭の上から何かがバサリと音を立ててかけられたので、驚いてしまった。よく見ると、それは遼太郎がたったいままで着ていた上着で、猫背気味になった遼太郎の頭の上から、隣に立つ瀬里香の頭にかけて覆われていた。
「え?」
「こっちのが早いって。一緒に走っていっちまおう」
瀬里香の返事より早く遼太郎が足を踏み出してしまったので、瀬里香はもうそれ以上何も言えずに遼太郎の言葉に従った。
そして、気付く。遼太郎は『走っていこう』と言ったにも関わらず、遼太郎の歩幅はいつも以上に小さめで、更にゆっくりだ。どこか不都合でもあるのかと訊きかけて、瀬里香は気付く。瀬里香の歩幅と速度に合わせてくれているのだ。おまけに、遼太郎のほうが身体がずっと大きいにも関わらず、瀬里香にかかっている上着の比率のほうが断然大きい。だから、遼太郎にとっては上着があろうがなかろうがたいして変わらないというのに。それでも遼太郎は何も言わず、瀬里香の足に合わせて、決して瀬里香を慌てさせないようにペースを保って、小走りで走ってくれているのだ。
それに気付いた瞬間、瀬里香の胸の奥がとてつもない暖かさに包まれた。
どうしよう。あたし、このひとが好きだ。何で気付かなかったんだろう。ホントはずっと前から……初めて会った時から好きだったのに─────違う。気付かないふりをしていただけだ。自分は成人で……このひとが未成年だから。ふたりの間にこんな大きな障害があるなんて思いたくなかったから。だから。
『好きになるのってね、時間なんか関係ないの。理屈なんか、後からついてくるのよ』
美葉子の言葉が心によみがえる。
「瀬里香さん? どうかした?」
黙ったままの瀬里香に気付いたのか、遼太郎が身を屈めて顔を覗き込んでくるのにハッとする。この胸の想いを、どう伝えたらいいのだろう。そう思った瞬間、先日の夢うつつの中での出来事が脳裏をよぎった。
「…ううん。何でもないわ」
何事もなかったかのように微笑んでみせる。
もしも─────あれが現実で、あの相手が遼太郎でなかったとしたら? 初めてのキスを遼太郎以外の相手に奪われたというだけでも悲しいのに、その事実を遼太郎本人に知られるなんて。そっちのほうが、瀬里香には恐ろしくてたまらなかったのだ。遼太郎のおかげでさほど濡れていないはずなのに、背中に冷水を浴びせかけられたような感覚さえ味わってしまう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
先刻までの胸の奥の暖かさは既に消え、胸の中ではいまや暴風雨が吹き荒れている。あの相手の正体を確かめるすべなど、瀬里香には思いつくことができない。いっそのこと、完全に夢であったらとさえ思い始めている。
瀬里香の心はいま、なすすべのない嵐に翻弄されきっていた。
雨降って地固まるどころか、荒れ始めてしまった瀬里香の心…。
果たして鎮めるすべはあるのか……。