北風と太陽
それから数日後。
「ありがとうございましたーっ!」
笑顔で客を見送った瀬里香に、また違う方向から声がかかる。
「瀬里香さーん、こちらのお会計頼むよー。そしたら俺、一緒に行って運んでくるから」
年配のご婦人を伴った遼太郎だった。店内の備えつけのカゴにいくつかの商品が入っている。
「はーい」
「遼ちゃん、大丈夫よ。自分で持って帰れるから」
「おばちゃん、遠慮しないの。おうち、まだ誰も帰ってないんだろ? 俺力あり余ってるんだから、こういう時は甘えて甘えて」
一緒に働き始めてから気付いたことだけれど、遼太郎は子どもや年配の人々にほんとうに優しい。初めて会った時の「うまくやっていけそう」と感じた予感は、外れていなかったようだ。
「いい子でしょー」
「はいー」
遼太郎とご婦人の心温まるやりとりを呑気に眺めていたので、突然背後から聞こえてきた声に違和感を覚える隙もなく、瀬里香は答えていた。
「優しいし、女慣れしてないし、いまどき珍しい素朴な子でしょー」
「はいー」
「ああいう旦那、いいと思わない?」
「はいー…えっ!?」
そこでようやく気付いて、バッ!と後ろを振り返ると、そこには悪阻のために奥で休んでいたはずの美葉子がクスクスと笑っていた。
「美葉子さんっっ」
顔を真っ赤にしてその名を呼ぶと、美葉子はけろりとして続ける。
「ね、どう? 彼氏とか旦那にするには理想的だと思わない?」
「それはまあ…思わなくもないですけど……」
そこまで答えてから、瀬里香はハッとする。
「い、一般的な意見ですよ!?」
「うんうん、わかってるわよー」
ほんとうにわかっているのかいないのか、美葉子は実に楽しそうに笑っていた。
「あたし個人がそう思ってるとかそういう訳じゃないですよっ!?」
「わかってるってばー」
くすくすくす。居心地が悪いったらない。
「ねー、これおいくらー?」
店内から聞こえてきた客の声に、天の助けとばかりに飛びつく。
「はい、お待ちくださいっ」
まったくもう。美葉子は突然何を言い出すのだろう。顔では平然と接客しながら、内心では焦りまくっていたので、瀬里香にはその後の美葉子と奥方の会話は耳に入らない。
「ちょっとしくじっちゃいました、ごめんなさい、お義母さん」
「いいのよ、いまはとりあえず少しでも遼太郎を意識してくれれば。先はまだまだ長いんだし。あの子がマトモに接することができる女の子なんてそうそう現れないんだから、このチャンスを逃したくないのよ、あたしは」
「あたしも、義妹になるなら瀬里香ちゃんみたいな子がいいと思ってたんで、ホントにそうなってくれると嬉しいです」
「という訳で。美葉子ちゃん、がんがん協力してねっ」
「もちろんですっ」
自分たちのことでどんな同盟が結成されたのか……知らないのは、当の本人たちだけであった。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開く音がして振り返った瀬里香は、そこに嬉しい人物の姿をみとめ、満面の笑顔を浮かべた。
「結衣奈ちゃん、千沙ちゃんっ」
「やっほー、瀬里香。時間にはまだ早いんだけど、先に買い物に来ちゃったー」
「頑張ってるみたいじゃん、エプロン似合ってるよー」
女の子らしい結衣奈と、活発な千沙。同じ高校を卒業し、現在は四年制の大学に通っている、大切な友人の二人だった。
「お友達?」
「はい、高校の時の。明日は定休日だから、今晩お泊まりに行く約束してるんです」
「初めまして~」
「瀬里香がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ瀬里香ちゃんには色々やってもらえて、助かっちゃってるんですよー」
「瀬里香はチューハイとかがいいんだよね? 適当に選んどいていい?」
「あ、お願い。後でお金払うから」
そこまで言ったところで、再び自動ドアの開く音。
「いらっしゃ…!」
再び振り返った瀬里香の表情が、先刻とは真逆の方向で固まる。
「何だ加藤、こんなところで働いてたんかよ」
「さか…した」
いかにもいまどきの若者風なファッションに身を包んだ、やはりかつての同級生だった青年だった。
「げ、あいつもしかして尾けてきたのーっ!?」
「あ、ほら、さっき瀬里香の話してたから、嗅ぎつけてきたんじゃないの?」
友人たちも露骨に顔をしかめて青年を見るが、青年自身はまさにどこ吹く風な表情だ。
「中高生みたいな顔して、酒売っていいのかよー」
冗談めかしてはいるが、明らかに好意的ではない言い方に、瀬里香は応えない。
そもそもこの坂下という人物には、高校時代からあまり好意を抱いていなかったのだ。いちいちひとの神経を逆撫でする言動を選んでいるとしか思えないほど、不愉快な思いをさせられてきたのだ、好感など持てるはずもない。
「ああ、あんまし童顔だから、普通の会社には面接で落とされたのかー?」
けらけらけらと耳障りな笑い方も、瀬里香が坂下を嫌いな理由のひとつだった。
「ちょっと、やめなよ坂下」
「そうよ、あんたすごく感じ悪いわよ?」
千沙も結衣奈もたしなめるが、坂下は聞く耳を持たない。瀬里香は内心で念仏を唱えながら、聞こえないふりをする。
「おい、何とか言えよ。こっちは客だぞ」
などと言いながら、坂下が背を向けようとした瀬里香の肩を背後から掴もうとした……のだが。瀬里香がその手を払いのけるより早く、その坂下当人の体が後ろにそり返り、勢いよく尻餅をついた。
「うおっ!?」
「!?」
その場にいた全員が、思わず目をみはってそちらを向いた瞬間。瀬里香は、とてもではないが信じられないものを見た。
「な…何だよ、おまえ!?」
坂下の言葉に、この時ばかりは同意したくなってしまった。何故ならそこ─────無様に尻餅をついている坂下の背後には、見たこともないような険しい表情をした遼太郎が立っていたからだ。ここにきて、瀬里香はやっと事の次第を理解した。瀬里香の肩を掴もうとしていた坂下の肩を、遼太郎が引っ張って転ばせたのだ。
「ここの従業員かよっ 俺は客だぞ、客にこんな真似していいと思ってんのかよ!?」
いきりたつ坂下を見下ろしながら、遼太郎が静かに口を開いた。
「─────悪いけど。女にタチの悪い酔っ払い並に絡むような奴は、客とは認められないんでね。さっさと帰ってくれないかな」
低い…いつもよりもっとずっと、低い、ドスのきいたと表現するにふさわしいような声だった。瀬里香はもちろん、美葉子すらこんな遼太郎を見たことがなかったのか、信じられないものを見るような目で遼太郎を見つめている。
「な…っ 酔っ払いだとうっ!?」
頭に血がのぼったらしい坂下もにらみ返すが、とてもではないが遼太郎の迫力の比ではない。
「ち、ちくしょうっ 誰がこんな店で買ってなんかやっかよっ!!」
負け犬の遠吠えとしか表現のできないような捨て台詞を吐いて、坂下は慌てふためいたように店から走り去ってしまった。あとには、茫然としたままの女四人と遼太郎だけが残される。
「…………………」
坂下が去ると同時に、軽いため息をついて遼太郎はいつもの様子に戻ったが、瀬里香は声すら出すことができない。あとの三人も同様だ。それに気付いた遼太郎は、この上なくばつの悪そうな顔をしてぽり…とみずからの頭をかいた。
「……ごめん。びっくりさせちゃって。途中からしか見てなかったけど、同じ男として何かすごく腹が立っちゃってさ」
もし友達なんだったら、ホントごめんなーと、遼太郎は続けるが、瀬里香は興奮覚めやらぬ顔でぶんぶんと頭を横に振りまくるだけだ。
「ううん! そんなことない、すっごく助かったのっ!! あいつ高校時代の同級生なんだけど、昔っからすっごくやな奴だったの、どうやって追い払おうかと悩んでたとこだったのよっ 遼太郎くん、ちょっと怖かったけどすっごいカッコよかった!!」
「カッコ…いい? ダチとかからは極道みてえってさんざん言われてたのに?」
「うん、怖いって気持ちよりカッコいいって気持ちのほうが上回っちゃったもの、ホントよっっ」
興奮しまくりで歓喜する瀬里香とは対照的に、遼太郎は恥ずかしさ大爆発といった様子だ。だから、ふたりとも全然気付かなかった。ふたりの背後で、美葉子が結衣奈と千沙をそっと呼び寄せていることに。美葉子はそのまま小声で問いかける。
「ねえもしかして、さっきの男の子って、瀬里香ちゃんのこと好きだったりするんじゃないの?」
その言葉に、驚いた顔を見せたふたりが、やはり小声で答える。
「やっぱわかる人にはわかっちゃいます?」
「あいつ愛情表現がへったくそなんですよねー。好きだからいじめるなんて、小学生かっての」
「瀬里香みたいなタイプには、絶対素直にアプローチするほうがいいってのに、わかってないんですよねー」
「ああ、北風よりも太陽タイプね」
「そうそう、あっちの遼太郎さん? のほうが断然似合ってると思いますよー」
「あら、お二人ともわかってるわねえ、お姉さんサービスしちゃうわ♪」
いつのまにやら同盟に仲間が増えていっていることに、当人たちだけが気付いていない。
未来はまだ、誰にもわからない───────。
本人たちだけが気づいていない、周囲の動向…。
ふたりの自覚が芽生える日は訪れるのか?