保健室の先生
第29話
保健室の先生
四年生になった小百合は、少しずつ学校へ通い始めていた。
仮設の校舎。
見慣れない教室。
足りない机と椅子。
空いたままの席。
黒板の前に立つ先生の声が、どこか遠くに聞こえる日もあった。
*
その日も、授業の途中だった。
教室の窓が、風でカタカタと鳴った。
その音に、小百合の体がびくっと震えた。
心臓が急に速くなる。
息が浅くなる。
胸が締めつけられる。
――あの日の音。
崩れる音。
揺れる音。
叫び声。
全部が一気に戻ってきた。
「……っ」
小百合は、机に手をついた。
息が苦しい。
声が出ない。
周りの声が遠ざかる。
担任の先生がすぐに気づいた。
「小百合さん、大丈夫?」
小百合は答えられなかった。
ただ、必死に呼吸をしようとしていた。
「保健室に行こう」
先生がそっと肩を支えた。
*
保健室は静かだった。
白いカーテン。
柔らかいベッド。
消毒液の匂い。
やさしい光。
保健室の先生が、小百合を迎えた。
「おいで」
無理に質問はしなかった。
ただ、ベッドに座らせ、背中をさすった。
「ゆっくりでえいよ」
小百合は、何度も息を吸って、吐いた。
少しずつ、呼吸が戻っていく。
しばらくして、保健室の先生が温かいお茶を差し出した。
「これ、飲めそう?」
小百合はうなずいた。
両手でコップを持つ。
温かい。
それだけで、少しだけ現実に戻れる。
*
「無理に教室へ戻らんでえいよ」
保健室の先生は静かに言った。
「ここにおってもえい」
小百合は、カーテンの向こうを見た。
外の光。
遠くの声。
教室の音は、ここには届きにくい。
安全な場所。
小さな避難場所。
小百合は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
*
それから、小百合は時々保健室を訪れるようになった。
息が苦しくなった時。
音が怖くなった時。
理由もなく涙が出そうな時。
無理に説明しなくてもいい場所。
ただ、そこにいていい場所。
それが、小百合にとっての保健室だった。
*
ある日の放課後。
白田先生が学校に迎えに来た。
「今日はどうやった?」
小百合は、少し考えてから言った。
「……保健室、行った」
「そっか」
白田先生は、責めなかった。
「行けたの、えらいね」
小百合は、少しだけ笑った。
声の代わりの、小さな笑顔。
*
その日の夜。
仮設住宅に荷物が届いた。
白い箱。
送り主は――阪神タイガース。
白田先生と小百合は、顔を見合わせた。
「……開けてみようか」
箱を開ける。
中には、丁寧に包まれたボールが入っていた。
サイン入り。
あの試合で完封勝利を挙げたピッチャーのサイン。
そして――
一軍選手全員の寄せ書き。
小百合へのメッセージが、びっしりと書かれていた。
「小百合ちゃんへ」
「また応援してね」
「甲子園で待ってるよ」
「一緒に笑おう」
小百合の手が震えた。
ボールをそっと持つ。
軽いはずなのに、重く感じた。
それは、たくさんの思いが詰まっているからだった。
小百合の目から、涙がこぼれた。
でも、今回は少し違った。
ただ悲しい涙じゃなかった。
*
小百合は、ノートを開いた。
ゆっくりと書いた。
タイガースの人になりたい。
少し止まって、書き足した。
みんなを元気にする人になりたい。
白田先生は、その文字を見て静かに微笑んだ。
田中水産で働く夢は、もう叶わない。
家族と一緒にいた未来も、戻らない。
けれど、小百合の中に、新しい灯りがともり始めていた。
それは、野球だった。
タイガースだった。
そして、「誰かを元気にしたい」という想いだった。
*
小百合は、サインボールを大事に箱に戻した。
その箱を、兄のグローブの横に置く。
美波のスケッチブックの隣に置く。
そこには、小百合の過去と、今と、少しだけ未来が並んでいた。
まだ小さい夢。
でも、確かな方向を持った夢。
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次回予告
第30話「海から離れた遠足」
学校で、遠足の話が出る。
行き先は――海ではない場所。
山。
公園。
内陸の町。
「海に行かなくてもいい遠足」
それは、小百合にとって少しだけ安心できるものだった。
けれど、遠足の中でふとした瞬間に、思い出がよみがえる。
次回、
第30話「海から離れた遠足」
小百合は、少しずつ“外の世界”へ踏み出していく。




