第2話 ステッペン・ブラック・ウルフ
気づいたときには、私の居た駅は影も形もなかった。
白い少年の手に触れた瞬間、真っ暗闇を真っ逆さまに落ちて行く感覚がしたかと思ったら、いつの間にか私は、草もまばらな荒れた地面の上に座っていた。
白い少年はまだ私の傍らに立っている。
私は座ったままの体勢で、少年を見上げる。
「ねぇ、ここ、どこ?私は何をしたら良い?あなたの願いって、何?…そういえば、あなたは、誰?」
思い浮かんだことを、矢継ぎ早に私は少年に質問した。
少年は何の感情もこもらないプラチナ色の瞳で、私に言った。
「僕が誰か、君は知っている。僕の名前を探しなさい。それを見つけるまでは、元の場所へは帰れない」
金縛りにあったように動けないで、私は少年の言葉を聞いていた。
「君は道中、多くの人に出会う。そして、多くの困難に出会う」
淡々と話しながらも、少年の表情は少しも変わることがない。
「しかし君は、どんなことがあっても『君』であることを誓いなさい。それが、唯一の道標であることを、忘れないように」
一体、どういう意味なんだろう…?
その言葉を言い終わるが早いか、少年の体から煙が立ち昇り、それと共にゆっくりと少年の体が透明になり、見えなくなって行く。
「あ…あ」
私は呆然とそれを眺めた。
「それと、その狼の絵は帰るときの鍵だ。なくしてはいけないよ」
少年が言った。
もうほとんどその姿は見えなくなってしまっていた。
私は叫んだ。
「ま…待って!ハルカは…?どこにいるの?」
「君が進む先に」
そんな言葉を最後に、白い少年は完全に霧散してしまった。
「ここはどこか、それだけ、聞けてないよ!!」
私は虚空に向かって叫んだ。
ため息をついて周りを見渡すと、そこは何もない荒野だった。
赤っぽい地面に、痩せた草がいくつかまばらに生えているだけで、強い風が遮られずに吹き抜けている、荒れ果てた土地。
見渡す限りの荒野は、途中岩山で遮られている。生き物なんて気配もない。あたりには、風が岩山を通り過ぎる音だけが響いていた。
ハルカに逢えるってことは…ここは死後の世界?
私、死んじゃったのかな?
まぁ、今の私にとっては、ハルカに会えるならここが地獄だろうと天国だろうと、構わなかった。
「しかし、何にもない…」
空を見上げれば、雲一つない青空なんだけど…なんか太陽の色が薄い気がする。
ただそういう気候なだけかな?
そういえば、ヨーロッパの方では太陽は黄色く見えるらしい。…ならここは、外国ってことか?
いやでも、砂漠では、太陽は白く見えると聞いたこともあったな…
けれどもここは何にもないけど、砂漠って言うほど枯れきっているわけじゃないし…
それに、光が弱い。
雲もない青空で良い天気なんだけど、影もないのに暖かくない。快適な温度だ。それに、この空も地も…全体的に色が薄くないか?
いやまあ、季節が違うだけかもしれないけど。
私は頭を抱えた。この場所はとにかく、海外には違いない。
日本国内にこんな荒んだ場所があるとも思えないし。
ここは何か焦げたような匂いと、何というのか…死の匂いがした。
生き物が、いない。
この場所には、私以外の生命体はいないと感じる。
乾いた地面、乾いた風。
マジで砂漠化する五秒前って感じだ。…古い?
いったいこれから、どうしたら良いのだろう?
だんだん自分の選択は間違っている気がしてきた。あの少年の名前を見つけるまで、もとの場所には帰れないだなんて。
「名前を見つけろって…?」
本人に言われるなんて…意味不明だ。
自分の名前を、忘れてしまったとか?
何にせよ、変な使命だ。まず少年の正体を調べなければならないけど…
それに、
『君は、どんなことがあっても、「君」であることを誓いなさい』
という言葉。
正直、全く意味が分からない…
まぁ、とにかくね。
いきなり荒れ地に連れてきて、そのまま放置されても!
…私に一体どうしろって言うの?
途方に暮れて、がっくりと頭を垂れると、ヴァイオリンケースがまだ膝の上にあることに気付いた。
少し安心して抱え直す。
ふと、ハルカの作ったステッカーをまじまじと見つめる。
ステッカーからは微かに匂いがした。
絵の具とテレピン油と、整髪料の香り。それと、ハルカの肌の匂い。
自分にはない、男の子の匂いがした。
何だか懐かしくて、嬉しくなる。
「狼の絵って言ったら、これしかないよね…これが、鍵って?」
いったいどういう意味なのかと、私は首をひねる。
とにかく、ヴァイオリンをなくすわけにはいかないということだ。肌身離さず持っていよう。
無意識にステッカーを撫でる。
そのとき、自分の爪が黒くなっていることに気付いた。しかも元より伸びて、先がちょっと尖っている。
なんだコレ?こんなネイルアートしてないよ?
凄く頑丈そうな、分厚い爪だ。じっと観察していると、突然、微かな音が耳に届いた。
遠くの方で音が近づいてくる。
人の気配がした。話し声もする。
私は爪から意識を移して、耳をすませる。
聞き慣れたこの音は…車のエンジン音?
それと、荷物がギシギシ揺れる音、地面の小石がはじかれる音…結構大きな車のようだ。たぶん、トラックだ。
それと、様々な匂いがかすかに、風にのって届いた。
獣の匂いがする。ほかにも、高そうな香水の匂いと、清潔な石鹸みたいな匂いと、ミントの香り。
車のエンジン音はしても、ガソリンの匂いがしないことに気付いて、私は違和感を感じる。
とにかくまだこちらからは岩山で見えない側を、トラックに乗って大勢で移動している団体がいるらしい。
…って、さっきから、私すごくない?
まだ相手の姿も見えないのに、多分一キロ以上離れてるのに、音が聞こえちゃうよ!?匂いもわかるよ!?何コレ!?
テンションがあがってひとりで興奮していると、いきなり、背後から人の気配がした。
わずかに獣の匂いと、さわやかなミントの香りがした。
とっさに振り返ると、二十代くらいの青年が立っていて、私を見て目を丸くしている。
整った顔立ちで、目と髪は薄い茶色、その髪を後ろに撫でつけてオールバックにしている。
何よりもまず目につくのは、なんと彼の額からは鹿のような角が生えていて、耳が…ウサギの耳が、頭から生えている!!
それと…顔の横にあるはずの人間の耳が無い。
耳があるはずの場所はつるんとしてなんだかグロテスクだ。
私はじろじろ観察してしまった。
特殊メイクだよね?
彼の服装は、青いシャツに濃紺のネクタイをして、ネクタイと同じ色の、ミリタリーテイストの装飾がされた細身のスーツ。…ロンドンの警官の制服を、サイズ直しておしゃれにしましたって感じ。足元は、ドクターマーチンっぽい形の、黒い編み上げブーツ。
全体的に、ラフな格好とは言えない。
なんか、近付き難い雰囲気が漂っている。
角とウサ耳がなければ、マフィアか警察官のどっちかかと思ってしまいそうだ。
その青年は、両手をパンツのポケットに入れたまま立ち尽くしている。
「お前は…狼…か?」
青年は、心なしかのけぞりながら言った。
…何その態度。
あなたのコスプレの方がどん引きですよ。
その特殊メイク、何かの撮影でもしてるのかな?
…オオカミってなんの話?
その青年の角も耳もまぁいいとして…
見渡す限り誰もいなかったのに、彼は突然私の背後に現れた。
一体どこからやってきたのだろうか?
地面の中にでも居たのか?空から?
いや、どちらも有り得ない。今の私には断言できる。
何故か知らないけれど、さっきから異常なほど嗅覚と聴覚が働く。こんなに近づくまで、今の私が気付かないはずがない。そんな気がする。
瞬間移動並みの、ものっっそい早さの移動方法があるのかな?
かく言う私も、少年に連れられて、瞬間移動よろしくこの場所に現れたのだし。
色々聞きたいことはあったが、私は一番気になっていることを聞いてみた。
「あの…あなたのそれは、ヴォルパーティンガー?」
ウサギに鹿の角の組み合わせと言ったら、ドイツの民話に出てくる、ヴォルパーティンガーという幻獣だろう。
満月の夜だけ、美しい女性の前に姿を表すという、鹿の角の生えたウサギのことだ。もちろん実在しないものだけど。牙が生えていたり、羽がついていたり、足が鳥の足だったりするという話もある。
なんでこんなに詳しいのかっていうと、ハルカがこういうUMA(未確認動物)とか、幻の生き物とかの話が好きで、よく話していたから。私も覚えてしまったのだ。
「見たら分かるだろ。他の種族に見えるか?」
青年は私からじりじりと離れながら言った。
…すげぇ警戒されてる!
何でか知らないけど!
それはおかしいでしょ。至近距離にいきなり現れたのはあなたの方ですよ!
ああ、けれどやっぱり、ヴォルパーティンガーの仮装か。私は予想が当たって一人頷いた。
口を開くと尖った牙もある。凝っているな。
それぞれは、ちょっと本物みたいに見える。ウサギの耳はたまにピクピク動いているほどだし。
しかしマニアックなチョイスの仮装だなぁ。
いや、本場ドイツでは、定番だったりするのかな?ならここは、ドイツ??
死後の世界とかではなく?
しかしその割には、言葉は理解できるけど。
「…お前は、狼に見えるけど…本当に狼か?そんなのは…初めて見たな」
ヴォルパーティンガー青年は、私に恐々と言った感じで話しかけてくる。
何をそんなに恐れているのだろう。
こちとらただのいたいけな女子高生なんだけど。
「とって食いやしないから、ビクビクしないで」
ビクつかれるのにイライラしてしまい、私はついそう言ってしまった。言ってから後悔する。
ああ、すごい気が弱い人なんだろうに、きつい言い方しちゃったかな…
私の心配をよそに、ヴォルパーティンガー青年(長い…)はあからさまにホッとして、笑った。
「ああそう。良かった。君はヴェジタリアンか。だから襲って来ないわけね」
エェェェ!?
本気にしちゃった!?
ただの言葉のあやじゃん!!そのまんまの意味で受け取っちゃった!?
私ってそんな危険人物に見える!?
ショックを受けている私に、先ほどまでの警戒が嘘のように、青年(もうこれで良いや)は、私に近づいてきて、親しげに話しかけてくる。
「僕は旅芸人なんだ。占い師が、僕らの一座がこのステッペンを通るなら、幸運な拾いものをするっていったのさ」
それを聞いて私は、じゃあ、トラックでこちらに向かってきてるのは、この人の仲間なんだな。と考えた。
「半信半疑だったんだけど、黒い狼だなんてね」
青年はにっこり笑って、ポケットから白い手袋をした両手を出して、胸の前に掲げ、ゆっくりと握り拳を開いた。
「占いは大当たりだ」
青年がそう言ったとき、その両の手のひらから、白い何かが同時に現れた。
白い…ヴォルパーティンガー?
伝承そのものの、茶色い鹿の角が生えた白いウサギが現れた。
と同時に巨大化し、軽く大型犬位のサイズになって、二匹同時に私に襲いかかってきた。