第28話 薬指の思い出
「わあっ」
驚いて短く叫び声をあげたけれど、すぐに「アマミヤ!」と聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
そして、清潔そうなミントの匂いに包まれる。
見上げると案の定そこには、ユリアンが立っていた。
トキの方を見てみると、トキをかばって、大きな獣がアマデウスに襲いかかっていた。
ライオンの体にコウモリの羽が生え、尻尾はなく、代わりに蠍の毒針がある。
一瞬その姿が見えなくなったかと思えば、アマデウスの上に馬乗りになったルーが姿を現した。
さっきの獣姿はルーの正体、マンティコアだったようだ。
「ユリアン!ルー!」
驚いて、私は声をあげた。
ユリアンの方に向き直ると、腕組みをして私を見下ろしたまま、ユリアンは無言で突っ立っていた。
ユリアンは無表情でどう見ても怒っている…だけど、それでも私は安心して泣きそうになってしまった。
助かったぁぁぁ!!!
2人ともナイスタイミング!
嬉しくてお礼を言おうとしたけれど、同時にユリアンは表情を強張らせて言った。
「アマミヤ、ここから動くな。それから絶対に奴に近づくなよ。絶対だ。約束してくれ」
そのユリアンの剣幕に圧されて、私は何も言えずに頷いた。
ユリアンは私が頷いたことを確認するとすぐに、持ち前のジャンプ力を発揮して、二度の跳躍でアマデウスのそばに降り立った。
アマデウスはルーに取り押さえられていて、トキの魔法の道具でまたしても動きを封じられているらしく、座り込んだまま動かない。
トキは無事だ。私はホッとしてため息をついた。
けれどもアマデウスは、動けないというのに、薄く笑顔を浮かべていた。
魔法をかけられている上に、3対1で、どうしたって劣勢なのに。
ユリアンは、アマデウスを見据えながら立ち尽くしている。
どうする気だろう…?
アマデウスはユリアンの親友のかたきだ。
復讐すると誓ったと言っていたけれど、復讐って、具体的に何をするつもりなのだろう?
…まさか、殺すとか?
私はぞっとして、ユリアンに声をかける。
「ユリアン!駄目だよ!」
「アマミヤ…動くなって言ったろ」
ユリアンは一瞬振り向いて言った。その刺すような鋭い目つきを見て、私は少し恐ろしくなった。
アマデウスに近づくユリアンを、ハラハラしながら見守る。
「アマデウス…俺を覚えてるか?」
ユリアンは立ったままアマデウスを見下ろして言った。
「…やあ。誰だったかな?」
アマデウスが薄く笑うと、ユリアンは表情を変えずにいきなり、履いている黒い編み上げブーツの爪先で、その頬を蹴りつけた。
私はあまりのことに目をつむってしまう。
あれが、ユリアン?
あのいじけ虫で、泣き虫な…
妹を、親友を守れなかったと泣いていた優しい青年が…
あんな酷いことをするの?
アマデウスは頬に傷を負って、それでも何とも思っていないような無表情でユリアンを見上げた。
「弱虫なウサギは動けない者にしか立ち向かえないのか」
「…黙れ」
「まあ、妹一人も守れないような男だからな。お前は」
「黙ってろよ…!」
ユリアンは今度は、アマデウスの肩を蹴りつけた。アマデウスは小さく呻き声をあげて、横倒しに倒れる。
痛々しくて、見ていられなかった。
アマデウスは人喰いだ。
…恐ろしい殺人鬼なんだ。
それを頭では分かっていながらも、私はユリアンを止めたくてたまらなかった。
少しも抵抗できず、無言で攻撃を受け止めている姿が、哀れで…。
けれども、アマデウスは何ともない風で、倒れたまま涼しい顔でユリアンを見上げた。
「仇を前にしてこんな軽い反撃しかできないのか?ユリアン・フローゲ。脆弱で愚かな小ウサギよ。ほら…俺を殺せるもんなら、殺してみろよ」
「このっ…」
ユリアンは目を見開き、その表情は憎悪に染まっていた。
私はとっさに走り出していた。
どこから取り出したのか、ユリアンはアマデウスにピストルを向ける。
「望み通り、殺してやるよ!!」
ユリアンは吠えるように叫んだ。
気づけば、私はアマデウスとユリアンの間に割り込んで、2人の間に手を広げて立って、夢中で叫んでいた。
「待って!!」
けれどもユリアンは表情を変えない。目を見開いたままでピストルを私に…アマデウスに向けたまま立ち尽くし、冷静さを失っている。
「…今度ばかりは、君が何を言っても無意味だ。どいてくれ。僕はそいつを殺さなきゃならない」
私はそれでもアマデウスの前から動かなかった。
「ユリアン、アマデウスを殺すのなら、それがどういうことか、考えてみて」
私は必死で訴えた。
「ユリアン、アマデウスを殺したらあなたはきっと後悔する。ピストルを下ろして」
私の言葉に、ユリアンは興奮して声を荒げる。
「…君に僕の気持ちが分かるっていうのか?目の前で親友を喰い殺された僕の、僕の気持ちが!?」
「分からない」
私は即答する。ユリアンは眉根を寄せて私を見た。
言葉を選びながら、私は慎重に続ける。
「あなたの苦しみは分からない。…でも、あなたの悲しみは分かると思う」
私は努めて冷静に語りかけた。ユリアンの憤怒に触れて、声が震えそうなのを必死に堪える。
「…あなたも、他人の悲しみが理解できるでしょう?」
ユリアンは何も言わない。
「だってあなたの悲しみは、誰かの悲しみと何も変わらないんだよ」
ユリアンは目を伏せる。私は言いつのった。
「そうじゃない?」
「…そうでなくては、誰も人の気持ちを分かってあげられない。この悲しみ、この苦しみを、他の誰かにも味わってほしいと、ユリアンは本当に思う?」
私はユリアンに語りかけながら、いつの間にか泣き出してしまっていた。
「誰かを失う悲しみを、この絶望を、あなたはあなた以外の誰かにも感じて欲しいと思うの?」
この恐ろしい喪失感を。
この救いの無い絶望を。
初めから希望の無い、果てしない暗闇のような、この感情を。
誰かにも与えたいと思うか?
大切な人を亡くした人にしか分からない、この恐ろしい感情を、悲しみを、自分の手で作り出したいと、本当に思うのか?
頬に流れる涙を拭うのも忘れて、まっすぐにユリアンを見つめたまま、私は必死で話を続けた。
「ユリアン、アマデウスを殺したら、誰かの悲しみを作り出すかも知れない。あなたはきっとまた、そのことで苦しまなければならないよ」
「分かってるでしょう?」
私がそう言うと、ユリアンは瞳を揺らめかせて、悲しげに顔を歪めた。
「じゃあ、それなら…僕は、どうしたら良いんだ?」
「君は僕にどうしろって言うんだ?」
彼は途方に暮れて、私を見返した。
その冷酷に凍っていた表情は溶け出して、困った表情の、いつものユリアンに戻っていた。
「…あなたの信じることをしたらいい」
「あなたは大丈夫。ユリアン、大丈夫だよ」
私はユリアンを一瞬抱き締めて、言い聞かせるように囁いた。
「だってあなたは、悲しみを知っているでしょう。愛したことを、覚えているでしょう?」
離れようとした瞬間、ユリアンに力強く抱き締め返される。
そうしながら、ユリアンはふっと息をついた。
「まったく、君だけだ。こんな風に…言ってくれる人は」
ユリアンは私から離れると、ため息をつきながら髪をかきあげた。
「…うん。よし。もう大丈夫」
そう言って微笑む。
ああ、いつものユリアンだ。
私は胸をなで下ろした。
ユリアンは、アマデウスを睨みつけて言った。
「話は聞いていたな?僕はお前なんか殺さない。しかしお前は…お前の罪は、裁かれるべきだ」
アマデウスはうなだれて呟いた。
「…ああ……殺してくれて良かったのに」
私はその言葉を聞いて、頭にきてしまった。
アマデウスのシャツの襟元を力を込めて掴んで、顔を引き寄せて、至近距離で睨みつけた。
「アマデウス・ヴォルフガング!」
名前を呼んで、視線を合わせる。
「本当に私の話を聞いていたんですか?あなたはあなた以外のたくさんの人に絶望を、悲しみを与えてしまったんですよ」
「だからあなたは、死ぬことなんかに逃げないで、そのことをしっかり考えなければならない」
私はアマデウスにだけ聞こえる声で言った。アマデウスの目をまっすぐみると、子供のような、不思議そうな顔をしていた。
「逃げないで、考え続けなさい。自分のしたことについて。あなたにふりかかったことについて。でも、されたことのせいになんてしたって、辛いのはあなただからね」
アマデウスは目を見開いた。そして囁くように言った。
「…わたしのことを、知っているのか?」
「いいえ。でも、分かるわ」
私はそう言うと、少しだけ微笑んだ。
アマデウスは変わらず子供のような顔でキョトンとしていたけれど、一瞬逡巡すると、決心したようにまっすぐ見返してきた。
「…黒い狼、あなたの名前を教えてくれ」
「雨宮香子」
私は答える。
「アマミヤ…あなたに免じて、私は…」
「この者達を、許しましょう」
アマデウスは突然立ち上がった。
トキが驚いて声をあげる。
「はぁ!?……動きやがった…魔法の効力はまだ続いている筈なのに」
「今夜は、この正義感溢れる我が同胞、黒い狼に免じて、お前達に手を出すのはやめておこう。ボスもお前達については何も言ってはいなかったから」
先ほどとは打って変わって、自信に満ち溢れた余裕の表情でそう言うと、アマデウスは私を引き寄せて、耳元で囁いた。
「アマミヤ、私はあなたの話を完全には理解できていない。でも、何故なのか…またあなたの話を聞きたいと思った」
「きっとまた、すぐにお目にかかりましょう」
「それでは、失礼を」
アマデウスは私の手の甲に自分の唇を押し付けると、いきなり指に噛みついてきた。
「いたっ」
私が小さく叫び声を上げると同時に、アマデウスは飛び上がってビルの入り口の屋根に降り立った。
そのまま行ってしまおうとしたが、思い出したように振り向いて、ユリアンの方を見た。
「お前、我が同胞のおかげで命拾いをしたな。私に殺意を持って攻撃すれば、それが全て貴様に跳ね返るところだった」
アマデウスはそう言い残すと、壁を走り、そのまま角に消えていった。
緊張の糸が切れて、私はその場にへたり込んだ。
トキとユリアンに声をかけられていたらしいけれど、気付かず、放心したままアマデウスの消えていった方を見ていた。
噛みつかれた薬指がひどく痛んで、知らないうちに、自分の手を抱きしめていた。