24話 スメルズ・ライク・ガーデニア
「匂いを辿れば、あの子を見つけられるかも」
そう言って私は、クチナシの残り香を探し始めた。
鼻に意識を集中させると、さっきまで感じなかった、様々な匂いに気付いた。普段意識していなかっただけで、狼の嗅覚はいつもほんのかすかな匂いまで感じていたらしい。
「アマミヤ、獣の姿になれば、今よりさらに嗅覚も上がるはず…ってことも知らないの?」
「そうなんだ!知らなかった!」
私はユリアンの言葉をうけて、すぐさま狼になる。
何故かもう、狼に変身する方法というか、感覚というのか…そういうものが私には分かっていて、瞬時に獣の姿をとることができた。
狼になった瞬間、様々な匂いの洪水に襲われて、一瞬意識が朦朧とする。
意識するのとしないのとでは、感じ方にものすごく違いが出てしまうらしい。
クチナシの匂いを追いかけて私はバスを出て移動する。ユリアンも変身して、後から追いかけて来た。
匂いは一直線に、一座のテントのある広場から、大きな道路を挟んだ向こう側の、ビルが建ち並ぶ都市の中に続いていた。
ビル??
それは元居た世界のように、発達した都会で、私はあっけにとられてしまった。
初めて降り立ったのが荒野だったからか、こんな街並みがあるとは想像していなかったのだ。
遠くに、一際大きな、全てがガラスでできたクリスタルの卵のような形のビルがあり、それを除けば、元居た世界の雰囲気とほとんど変わらないように見えた。
「こっちに行っちゃったのか…」
人型にもどったユリアンが、困り顔で呟いた。
この都市の反対側の場所は逆に豊かな森林が広がっているらしい。
まだ森の中なら追いかけ易かったのに、とユリアンはつぶやく。
都市からは、一座のトラックと同じような、塩素みたいな匂いがした。それと、食べ物の腐ったような匂い、古い油の匂い…その他、様々な臭気が漂っている。人口の多い街なのだろう。
アリのクチナシの甘い香りは、それらの匂いに紛れ込み、判別し辛い。けれど、全く感じられない訳じゃなかった。
会話をするために、私も人の姿に戻る。
「ユリアン…この街、治安悪かったりする?」
私が聞くと、ユリアンは頷いた。
「今見えてるこの街は、マグニフィセント・セブン。サンディニスタのビジネス街だ。けどちょっと裏に入ると花街があって、その辺りはマフィアやなんかが幅を利かせてる地域になる」
「そんな所…アリみたいな小さな子が一人で居たら、危険だよね!?」
「うん…アリの匂いは?分かる?」
「ちょっと分かりにくくなってるけど、大丈夫だと思う」
「まだそんなに遠くへは行ってないと思うけど…参ったな。人を呼んでみんなで探そう。この街はちょっとヤバいんだ」
「ヤバい?」
「ノラ犬が多くて、たまに処分をする為に捕まえたりしてるんだ。犬科の幻獣が、獣の姿になったままでうろついていて捕まったって話も聞く」
「それって…下手したら殺されちゃうってこと!?」
「いや、そこまではいかないと思う。幻獣か本当の獣かは分かるようになってるはずだから。ただ、保護されて、一座には戻れないだろうね」
「もう会えなくなるってこと?」
「そうだな」
「そんなの…駄目だわ」
私はまたすぐに獣の姿になると、匂いを辿って走り出した。ユリアンが背後で叫んでいる。
「アマミヤ!獣の姿は危険だって…」
みるみるうちに私は遠ざかり、その先はもう聞こえなかった。
危険かもしれないけど、獣の姿が一番早く動けるのだ。アリを早く見つけたい一心で、私は狼のまま走り続けた。
通りを進んでいる車のボンネットに飛び乗り、隣の車のボンネットへと飛び移って進みながら、私は街に入った。
匂いを追いかけて走り抜けながら、私は通りの様子を観察した。
近代的なビルが立ち並び、レストランやカフェがところどころに点在している。その光景は、私の元居た世界にそっくりだった。
コンビニのような店まである。
電球のない街灯とか、たまに意味不明なものがあるけど…
けれど、街の様子は元居た世界と似ていても、やっぱり道行くのは異形な、幻獣の姿の人ばかりだ。
恰幅がよく、スーツを着てどう見ても普通のサラリーマンなおじさんは、頭からまっすぐな角が一本伸びている。
ユニコーン…とか、かな?
…いや、これは予想が外れて欲しい。ユニコーンと言ったら、もうちょっとかっこいいイメージだもん…
颯爽とした白いパンツスーツで歩く美人なOLさんは、頭の横に耳ではなく、小さな白い翼がはえている。
ああ、これは素敵だ。似合ってるし。
この人は、天使かな?
イタリアの天使像で、こんな風貌のものを見たことがあった。
何なんだろう。この世界。
改めて不思議に思う。
出会うのは幻獣ばかりで、人間をまだ見たことがない気がする。
…まぁ、元人間の自分は置いといてだけど。
そんなことを考えながら道行く人たちの脇をするすると私はすり抜け、猛スピードで突っ走っていた。
突然、悲鳴が聞こえた。
すぐ後ろの方で聞こえたので、驚いた私はスピードを緩めて振り返った。
悲鳴をあげたのは、さっきの天使っぽいOLさんだ。
どうしたんだろう?と様子をうかがうと、彼女は、私を指差して言った。
「お…狼よ!!」
その声に、道行く人々が一斉に振り返る。
ちょっ…え?
私?
道を行く人波に、どよめきが起こる。
「警察を呼んで!」
「逃げろ!変わった色だが、あれは狼だぞ!」
あああ、ヤバい!!!!
人々は散り散りになって逃げ惑い、私から離れて行く。
狼の扱いが猛獣級だってこと、すっかり忘れてた!
私はとっさに、目についたビルとビルの間の路地裏に飛び込んだ。
これは、隠れながらアリを追いかけるしかないみたいだ。
けれど、不意に気配を感じて後ろを振り返ると、背後から誰かが追いかけて来ていた。
それは体格のがっしりした男性で、警察官の帽子に似たものをかぶっている。
真っ黒なスーツの上に真っ黒なコートを着て、コートの上から金色の金具のベルトをつけて、真っ黒なごついブーツを履いている。
そしてその背中には、大きなコウモリの羽がついていた。
「そこの狼、止まりなさい!」
私を追いかけながら青年は命令口調で声をかけてくる。
まさか警察?
…来るの早すぎでしょ!!
てゆーか何で追いかけてくんの!?
私何にも悪いことしてないじゃん!
私は焦って、さらに足を早める。
アリの匂いを懸命に探すが、集中できず、不確かな方向に進んでしまう。
なんなんだあいつは。コウモリの羽があるから、ルーと同じマンティコアかな?
気になってちらりと振り返ると、その背後の光景に、一瞬思考が停止した。
そこには青年の姿はなく、私の二倍はある、ドラゴンがいた。
そんなの反則だよ!!!
頭の中で意味不明な突っ込みをしながら、私はがむしゃらに走った。
路地裏や大通りを、周りを気にする余裕もなく通り抜け、車やポストや、人まで飛び越えて、なりふり構わず私は逃げた。
何が何でも捕まりたくない!
ドラゴンとか怖すぎだもの!
警察官らしきドラゴンはそれでもしつこく追いかけてくる。
深緑色のウロコに覆われた肌は爬虫類のようで、イラストや絵画なんかで見るドラゴンそのままの姿だけど、ちょっとだけ私のイメージよりもほっそりとした体で、羽ばかり大きく見える。
羽…
羽があるってことは、コイツ飛ぶんじゃね?
そう考えた瞬間、案の定、ドラゴンは羽を羽ばたかせ始めた。
いやあぁぁぁぁ!
飛ぶ気満々じゃん!
もう無理!
絶対無理!
私終わりだ!!
涙目になりながら、私は必死で打開策を考える。
このままじゃあ捕まるのも時間の問題だ。羽のあるものに勝てるわけない。
『逃げても逃げても追ってくるなら、どうする?』
『…それなら、立ち向かうしかない』
私は突然立ち止まり、ドラゴンの方に向き直った。
かかってこいやぁ!
とばかりにドラゴンを待ち構える。
ドラゴンは私の行動が予想外だったのかちょっと躊躇したが、走っていた勢いのまま、私に飛びかかって来た。
私はその場に立ち尽くし、ドラゴンをまばたきもせずにじっと睨みつけて、それを待った。
我ながら馬鹿だと思う。
いくらいま狼の姿をしているとはいえ、体格から言って、どうしたって私が不利。
だって…ハルカの言葉を思い出してしまったんだもの。
逃げても意味のないものが追ってくるなら、闘うしか選択肢はない。
あの子はずっとそうやって、自分の病と闘っていたから。
こんなときにそれを思い出すのも、どうかと思うけど。
何をされるか分からないんだから、ひとまずぶつかってみようと思ってしまったんだ。
ドラゴンの大きな腕が、私の喉元を狙って振り下ろされる。とっさに私はその腕に噛みついてやろうとして構えた。
その時、強い風が吹いた。いきなりのことで驚いて、目を閉じてしまう。
突然、体が浮き上がる感覚がして、気づけば私の体は、何者かに抱え上げられていた。
ドラゴンに捕まったのだ、と思った私は、ジタバタと激しく暴れて抵抗する。
ふと、すぐそばでクチナシの香りがした。
さっき必死で追いかけていた香り。
ハッとして顔をあげると、すぐ横に、アリの顔があった。