第19話 ペシミスティック・ユリアン・フローゲ
さっき、アマミヤが倒れた。
ヴィマラさんと話していた時のことだ。
背後に立つアマミヤの雰囲気の異変に気づいて、僕は何気なく振り返った。
アマミヤは部屋の外の壁に手を突いて、片方の手で頬を押さえている。その手は震えていて、顔色は驚くほど血の気を失って、漂白したように白かった。
「アマミヤ?」
名前を呼ぶが、聞こえていないようだ。
次の瞬間、アマミヤは支えを失って、その場に崩れ落ちる。僕はとっさに手を伸ばしたが、間に合わなかった。
本が落ちるような軽い音を立てて、アマミヤは廊下に倒れた。
僕はゾッとした。
アマミヤが倒れたことよりも、その、音の軽さが怖かった。
堂々として揺るがない瞳を持つ彼女の、真っ直ぐな姿に、僕は揺るぎない力強さを感じていたのに。
実際は、彼女の体は頼りなげで、容易く失われてしまいそうな、脆い音を立てたから。
彼女だって、絶対に負けないわけじゃない。
傷つかない訳じゃない。
死なない訳じゃない。
僕はそのことに、今更ながら気づいてしまった。
…もう誰も、失いたくないのに。
僕はアマミヤに駆け寄ると、必死で彼女に呼びかけた。
「アマミヤ?大丈夫か?アマミヤ!!」
「ただの貧血だよ」
一座の専属医師、 グリフォンのブライアン・ジョブズが、呆れ顔で言った。
僕の反応はあまりに大げさだ、と言いたげな顔だ。
少し取り乱して、アマミヤをヴァンの部屋のベッドに運び込んでから、一目散に医務室からブライアンを引っ張ってきた僕は、拍子抜けしてしまった。
彼女が日に2度もヴァンによって失神させられていることを話すと、ブライアンは「その影響がまだ体にちょっと残ってるかもね。でもすぐ治るよ」と、軽い感じで頷く。
「…でも、本当に大丈夫?体に変な後遺症が残ってやしない?」
僕は必死でブライアンに言い募るが、ブライアンは首を傾げる。
「攻撃の魔法を何度も重ねてかけたって言うなら危険だが、魔法で失神させたのは一度だけだろ?最初のはヴァンの急所狙いの打撃ってだけで」
僕が頷くと、ブライアンは苦笑して言う。
「大丈夫だよ。狼ってのは、その辺の犬や猫の幻獣や、ましてやお前みたいなうさぎの幻獣とは頑丈さが違うんだから。俺でさえ、狼とやり合うのは御免だね」
「…うさぎじゃない。僕はヴォルパーティンガーだ」
僕はイライラしながら、ブライアンの言葉を訂正する。
グリフォンは、性格こそ理知的だが、ライオンと鷲という二種類の捕食生物の性質を持っているため、体が非常に剛健な上に好戦的で、普通の幻獣ならまともに戦って勝てる相手じゃない。
そんなグリフォン自身が闘いたくない相手だと言うなら、狼はグリフォン並みに丈夫だという言葉を、僕は納得せざるを得なかった。
「このお嬢さんが起きたら、しっかり栄養とらせてちょっと安静にしとけば、すぐに元気になる。お前は心配性なんだよ」
ブライアンは笑ってそう言うと、ヴァンの部屋から出て行った。
僕は放置していたテントの修理をしなければならなかった。アマミヤのことが頭を離れず、作業がもどかしかった。
一座の技術士である、マンティコアのルーに手伝ってもらって急いで終わらせ、僕は昼飯に誘おうと、アマミヤの様子を見に行った。
部屋のドアをノックするけれど、アマミヤから返事はない。まだ寝ているらしい。
僕はそっと部屋のドアを開いて、中に入った。
アマミヤはぐっすり寝ている。
起こそうとしてアマミヤの肩に触れようとした、その瞬間、アマミヤが呟いた。
「ハルカ…」
「!」
僕は驚いて、動きを止める。
起きてたのか?
そう思ってそっと顔を窺うが、意識は無いようだ。寝言か。
ハルカって何だろう?
一瞬考えながらアマミヤの顔を見ていたら、アマミヤの閉じた瞼から、涙が一筋、零れ落ちた。
「…っ!」
あまりに驚いてしまって、僕はそのときとっさに、魔法を使っていた。
気配を消す魔法だ。透明人間になるようなもので、効果は短いが、完全に気付かれないで人に近寄れる。
真っ黒なまつげを濡らして、涙は肌を伝ってシーツに落ちる。
濡れたまつげに触れたい…
そう思いながら僕は、じっと彼女の顔を眺めていたことに気付いて、恥ずかしくなった。
他人の無意識の涙なんて見てしまうのはバツが悪いから、僕はそそくさとドアへ向かう。
けれど、アマミヤの涙で頭の中はいっぱいだった。
僕に、涙の理由を教えてはくれないだろうか。
僕は彼女に全てを話してしまったのだから、彼女も僕に全て語ってくれたら良いのに、と僕は思った。彼女は本当に、自分のことを言わない。
僕は、会って1日と少ししか経っていないと言うのに、アマミヤという狼の少女を、信頼するようになっていた。
いつもなら僕は、おいそれと他人を信用しない性質だと自覚しているのに。
アマミヤは、自分のことをあまり語らないが、嘘もつかない。
しかも、荒野で話したとき、アマミヤを捕まえようとしていた僕の装った態度に気付いていたように、彼女には嘘が通用しない。
だから、アマミヤと話していると、自分の素直な本音を言うしかなくなるのだ。
それに、アマミヤは驚くほど聞き上手で、話しやすい。
少ない言葉で僕の気持ちを救ってくれたように、僕よりだいぶ若いのに、他人の苦しみを理解できる、不思議な少女。
「私を売りなさい」
なんて、破天荒なことを言われた時は度肝を抜かれたけど、彼女はいつも、自分以外の『誰かのために』行動しているのだと分かった。
そんな、優しい黒い狼。
彼女に、僕のことを信頼してほしい。
その、涙の理由を聞かせてほしい。
ハルカって、何だ?
僕はドアの近くの壁に寄りかかって、考えを巡らせていた。
するとまた、アマミヤが言った。
「ハルカ…!」
今度は少し大きな、悲痛な声だった。
アマミヤの様子を見ていると、目を覚まして、ゆっくりベッドから上半身を起こしているところだった。
「夢か…」
と呟いて、辺りをキョロキョロ見回している。魔法の効果はまだ続いていたため、僕には気付いていない。
アマミヤが目元の涙を拭う姿を見ていると、僕は何故か胸が痛んだ。
何だろう。
彼女を見ていると、胸が苦しい。
魔法の効果が切れて、アマミヤと目が合った。
彼女はハッとして目を丸くするが、僕だと気付くと、すぐに笑いかけてきた。
嬉しそうに笑って。
まっすぐに僕を見る。
その視線に射抜かれるのが、好きだ。
突然、この子が欲しいな、と僕は思った。
狼が、ではなく、アマミヤが欲しい。
僕はそう思った。