第15話 ヴァンゲリス・オデュッセウス・ダウン
黒い狼は、ピストルを向けられても落ち着いたままで、俺をまっすぐに見つめてくる。
「ヴァンゲリス、それを下ろしてください」
狼は、有無を言わせない様子でピストルを示す。
口調こそ丁寧だが、それは懇願ではなく、命令だった。
まだ年若い雌の狼だと言うのに、この狼の一体何が、こんな威圧感を感じさせるのだろう。
俺は視線をさまよわせる。
絶対に、狼の目を見てはいけないと思った。
強い声にさえ、服従しそうになる。
どうして俺は、この狼に、圧倒されてしまっているんだろう?
「ヴァンゲリス…あなたに言ってるんですよ」
俺は何も言えなかった。
「こちらを見なさい!」
鋭い声に、俺はつい狼を見てしまった。
その真っ黒な、強い瞳に捕らえられて、もう目を反らせなくなった。
「ヴァンゲリス・オデュッセウス。それを下ろしなさい」
俺は狼の激しい眼差しに、戦慄した。
なぜだろう?わからない。
同時にその眼差しに、魅了された。
なぜだろう?
…わからない。
その眼差しに射すくめられて、俺は金縛りにあったように、動けなかった。
狼が軽くピストルに触れて、銃を持った俺の手を下ろす。
俺はされるがままになっていた。
「ヴァンゲリス、話をしましょう」
真剣に、真っ直ぐに俺を見つめてくる狼に、何故だかあらがうことができなかった。
何故だろう。
この狼、何者なんだ?
牙も爪も使わずに、俺を屈服させてしまった。
居心地が悪くて視線を外すと、怯えて遠巻きにこちらを窺う双子が見え、心配そうに俺を見るユリアンと目が合った。
「…何が聞きたい」
俺は観念して、狼に言った。
何故、脅された訳でもないのに、俺はこの狼の言葉に従ってしまうんだろう。
狼は微笑んだ。
「あなたが何故この仕事をしてるのか、聞かせて欲しいな」
長年この稼業をやってきたが、こんなにふてぶてしい商品は初めてだ。一体どうしてこんなに自信満々なのだろう。
自分が殺されないという、自信。
商品として捕らえられた人々はいつだって、ただ怯えるか、怒りを露わにするか、逃げるためにこちらを利用しようと同情を誘ってくるか…いつだってその何れかの態度をとるものなのに。
どうしてこんなに、堂々として居られるのだろう。
子供には話を聞かせたくなかったため、双子を追い払う。恨めしげに見返してくる双子を睨みつけてから、俺は狼…アマミヤに向き直った。
「先に聞くが、お前はそんなことを聞いて、何がしたいんだ」
「あなたの本心が聞きたいだけだよ。ねぇ、二人とも、大金が欲しいんだよね?」
その言葉に、俺とユリアンは絶句した。
アマミヤは続けて言った。
「…大金が必要な、理由があるんじゃない?」
首を傾げて同意を求めてくるアマミヤを呆然と見つめ、俺とユリアンはまた視線を交わした。
何故知っているんだろう。
…まさか、奴らの手先なのだろうか?
そんな考えが頭をよぎった。しかし、すぐに打ち消す。奴らはこの貴重な生き物を、ただの刺客として送ってくるような無駄はしない。
普通の狼ならまだしも、黒い毛皮の狼だなんて。
おそらく、やつらがこの存在を知ればすぐに拘束して、思いつく全ての方法で、この狼を使って利益を貪り取るだろう。
それに、俺やユリアンみたいな組織立っていない敵を、奴らは意識すらしていない筈だ。
アン・ディ・フロイデ。通称「フロイデ」
そして、犯罪組織であるフロイデを設立し、操っている国、W・ライオット。
…その全てを裏で操る男、フロイデのボスであり、W・ライオットの若き独裁者…世襲制によってその地位を手にしたプレジデント、ルートヴィヒ・ヴァン・ネーフェ。
それが、俺とユリアンの共通の敵だ。
大金が必要だった。
ユリアンは妹の為に。俺は俺の為、ネーフェに近付くために、どうしても必要だった。
アマミヤはそれを知っているのだろうか?俺が勘ぐっていると、アマミヤが言った。
「理由は知らないけど…」
ふとアマミヤを見ると、アマミヤはユリアンをじっと見つめていた。
ユリアンの方を見ると、顔色が真っ青だった。
さっきの俺の様に、アマミヤの視線に射すくめられている。
ユリアンはアマミヤの揺るがない眼差しに根負けしたようで、躊躇いがちに口を開いた。
俺はまた驚愕する。
まさか、昨日今日会ったばかりの人間に、しかも商品にしようとしている相手に、そのことを話すつもりなのだろうか?
そもそも基本的に、いつもなら商品とは会話さえしない事にしているのだ。情が移ってしまわないように。
しかし今回は特別だ。この狼に、調子を狂わされている。
俺は内心頭を抱えた。
「大金が必要なのは…」
「ユリアン!」俺は話し始めてしまったユリアンの言葉を遮る。アマミヤとユリアンは、俺がここにいることを今思い出した、とでもいうような表情を向けてきた。
「お前、どういうつもりだ?ユリアンから金の使い道を聞き出して、どうしようって言うんだ?弱みを握って利用するつもりか?」
俺はアマミヤに言った。この言葉に怒るか動揺するかと思ったのだが、アマミヤはただ不思議そうな顔をした。
「聞き出す?…別に、ユリアンが話したくないなら聞かないよ」
そう言って、ユリアンの顔を窺う。
「ユリアン、言ったでしょ。話したくないことは話さなくていいんだよ」
ゆっくりと言い聞かせるように、それはユリアンを子供扱いするような言い方だった。
俺は違和感を感じて眉をひそめたが、ユリアンは顔色が回復していて、アマミヤに笑顔を向けた。
「いや、アマミヤ、君にならもう何でも話せる気がするよ」
俺は、耳を疑った。
ユリアンとは長年付き合ってきたから、その言葉に嘘がないことが分かった。
あの、疑り深く、仲間にさえ絶対の信頼を寄せることのない、冷静で思慮深くずる賢く、必要な時意外は自らのことを話すこともない。
…そんなユリアンが、こんな昨日今日会ったばかりの、それも狼に、こんなことを言うなんて。
何だ?何なんだ?ユリアンはこの狼を何故そんなに信頼できるんだ?
本当にどうしてしまったんだ。
あまりにも理解しがたくて、魔法でユリアンが操られているのではと思い、俺はこっそり、いつも携帯している魔法道具でその場の魔法を観測した。
けれども、アマミヤからは魔法の気配を少しも感じていなかったから、それが取り越し苦労だと分かっていた。
案の定、俺の持つ、魔法で威力を上げてあるピストル以外、その場には何の魔法も検知されなかった。
それで安心したような、むしろ更に不安なような、複雑な心境になる。ユリアンが話を始めたが、止めるのは諦めた。
「妹が、アイリスがW・ライオットの政府に連れて行かれてから、僕はヴァンに協力してもらって、その行方を探していた。同時に、ルーディのかたき、アン・ディ・フロイデの一味についても調べた」
アマミヤが頷く。ルーディの話は既に聞いていたのか。俺はますます困惑した。アマミヤとユリアンは以前からの知り合いか?その位の信頼関係を築いているじゃないか。
けれど、ユリアンはアマミヤについては何も知らないようだったし…。
俺がそんな思考を巡らしている間にも、ユリアンは話を続ける。
「そして分かったのは、フロイデのボスとW・ライオットの大統領ルートヴィヒ・ヴァン・ネーフェが、同一人物だということだった。僕はとある権力者に頼んで、ネーフェに数分間だけ近づくことができた。…まぁ、手も足も出せない状況ではあったんだけどね。国際会談に、知り合いの権力者の秘書の一人として潜り込ませてもらったんだ。武器も魔法の道具も、そういったものは何一つ持ち込めないし、何十人ものSPが見守ってる場面だから、ちょっとでも変な動きをしたら即取り押さえられる。そんな中で僕はネーフェを呼び止めて、サインを求めた」
「サイン?」
アマミヤは首を傾げた。
それも知らないのか。俺は無意識に口を開いていた。
「ネーフェは独裁政治だが評判が良く、国民から指示されていて、国外でも人気があったからな」アマミヤがふうん、と頷く。
ユリアンは続ける。
「ネーフェはグリフィンのSP…」
「グリフィンって、グリフィンって下半身がライオンで上半身が鷲の!?」
アマミヤが突然話を遮って聞いた。
ユリアンはその迫力にちょっと気圧されながら頷いた。なんでそんなわかりきったことを聞いてくるんだろう、この少女は。
ユリアンが話を続ける。
「…SP5人に囲まれていたけど、あいつ、僕を見て…笑いやがって…かと思うと紙に何か書いて、SPに言って僕によこした。その紙には、アイリスを10億で売ってやると書いてあったんだ」
「…こんな言い方はなんだけど、その約束、信用できるの?」
アマミヤは、訝しげに聞いた。
「それが、ただの紙ならそうなんだけどね…それを書いた紙は、魔法道具だったんだ。魔法の道具は持ち込めない筈なのにどうやったかは分からないけど、その紙は、書いた契約を破ることができない魔法がかかっていた。散々調べたけど魔法は本物だったから、とにかく信じるしかないと思った」
「だから、金が必要だったんだ」
ユリアンは話を終えた。
「そっか…」
とアマミヤは頷いた。そして、体ごと動かして俺の方を向いた。
「ヴァン、教えてくれる?」
ユリアンには言いたくなければ言わなくていいと言っておいて、俺は強制なのか?と思ったが、その凶器のような、強烈な鋭い視線に負かされて、俺は頷いた。
「…いいか、この話をするのはお前で二人目だ。俺以外はユリアンしか知らない。会ったばかりのお前に話すのは、お前がお前の売買を承諾する交換条件だと思うことにするが、それでもいいんだな?それに、他言できないように、ユリアンに魔法をかけてもらう」
こう言えばアマミヤは諦めると思ったのだが、アマミヤはなんの気も無しに頷いた。
「うん、いいよ」
なんて図太い神経なんだろう。全く理解できない。
俺の話を聞く代わりに、自分は売られても構わない、ということなのに。他言もできないから、話を聞けてもなんの役にも立たない。
そんなことも理解できない愚か者なのか?
「ヴァン、話したくなくても、聞かせてもらうよ」
アマミヤの眼差しと視線がかち合う。
真っ黒い炎が燃えているかのような…
揺るがない眼差し。
よく見れば、少女の真剣な表情は、少し上目遣いの大きくてまっすぐな黒い眼は、胸が痛むほどに美しいと、俺はそのとき初めて気付いた。
なんてことだ。
…それでも売ってしまえるのか?
この少女を?
あまりにも貴重な獣であり、同時にこんなにも魅力的な、一人の少女を?
だから商品と話をするのは嫌だったんだ…
俺は考えあぐねて、迷っていた。
何故だろう?
俺はこの狼に、話を聞いてほしいなんて、思い始めている。何なんだ?この狼は?
これは、魔法なのか?
「聞かせて。あなたの、物語を」
アマミヤに促されて、俺は無意識に口を開いていた。